障害のある子どもの家族のブログなどを見ていると、気になることがある。それは「健常」という言葉。「健常児」「健常の子」という語彙というもの、使うのは専門家か障害児の家族くらいだと思う。はっきり言って日常的に使うのは、その語彙、変よ。そのことに障害児の親が気づくのは、子どもが学齢期に入ってからが一般的かもしれない。バリアフリーを望みながら、不安がバリアを自分の中に作ってしまう一例かもしれない。
バリアフリーを望むなら、障害を知ることが方法論としてひとつだとわたしは思う。自分と関係のある「障害」ではなく、「障害」と呼ばれる全般全てを見通してこそ、「障害」は理解できる。バリアフリーだのノーマライゼーションだのという言葉を使うときに、「障害」と「健常」の対立構造ばかり追いかけるのはとても不自然。実は「障害種別のバリア」を作っていること自体、「障害をもつもたない」のバリアを着々と構築していることかもしれない、と、わたしは思う。
と、いうことで、「障害を知る」書籍紹介。
障害をもつ子のいる暮らし
様々な障害について、丁寧に語られている事典的な使い方ができるこの本は、障害種別を問わず「障害をもつ子」の理解の助けになる良書。
魔法の手の子どもたち―「先天異常」を生きる
先天性四肢障害を中心に、障害を受け入れる、障害を受け入れられるという原点が見える良書。
はだかのいのち―障害児のこころ、人間のこころ
重度心身障害児を取り巻く世界、彼らの「はだかのいのち」を通して、命の力が見えてくる良書。
自閉症の人たちのらいふステージ
自閉症を単なる知識としてだけでなく、その「生きる」ということをライフステージを通して知ることができる良書。
障害者―FOR BEGINNERS イラスト版オリジナル
脳性麻痺が原因の身体障害者である著者による「障害を知る入門書」。
この本一冊で、「障害者」について、概念からその立場におかれた人の現状、日本の障害者運動のおおまかな流れ等把握することができる。障害種別に関して網羅しようとしている努力も大きい。
神さまに質問―筋ジストロフィーを生きたぼくの19年
筋ジストロフィーの少年が、自分を知ってもらうために作った新聞の紹介と、その人生。進行性の障害と家族の介護、そして本人の成長等、追いながら読める貴重な記録。
どんぐりの家
聾と知的障害を併せもった子どもたちの現状と、親たちの生きる姿を描いたもので、実話を元にしており、映画にもなった名作。
聴覚障害児が野球に打ち込む姿と立ちはだかる壁を描いた「遥かなる甲子園」も、同じ作家の名作。
癒しのセクシー・トリップ―わたしは車イスの私が好き!
骨形成不全による障害をもち、日本の障害者たちに当事者としての力を与えてきた「安積遊歩」の代表的著書。
「障害」というワードを超え、パワフルでチャーミングな彼女のファンは多い。そのファン層は「障害」に直接関係の無い人にも広がっている。
*番外
『ステージ』
知的障害者にわかりやすいものを、という目的のために作られた「新聞」。記者には知的障害者本人も参加していて、世の中の動きが理解できるように作られているもの。
単純に一言、おもしろいです。バックナンバーはウェブ上で読めるので関心のある方は是非ご一読を。
バリアフリーを望むなら、障害を知ることが方法論としてひとつだとわたしは思う。自分と関係のある「障害」ではなく、「障害」と呼ばれる全般全てを見通してこそ、「障害」は理解できる。バリアフリーだのノーマライゼーションだのという言葉を使うときに、「障害」と「健常」の対立構造ばかり追いかけるのはとても不自然。実は「障害種別のバリア」を作っていること自体、「障害をもつもたない」のバリアを着々と構築していることかもしれない、と、わたしは思う。
と、いうことで、「障害を知る」書籍紹介。
障害をもつ子のいる暮らし
様々な障害について、丁寧に語られている事典的な使い方ができるこの本は、障害種別を問わず「障害をもつ子」の理解の助けになる良書。
魔法の手の子どもたち―「先天異常」を生きる
先天性四肢障害を中心に、障害を受け入れる、障害を受け入れられるという原点が見える良書。
はだかのいのち―障害児のこころ、人間のこころ
重度心身障害児を取り巻く世界、彼らの「はだかのいのち」を通して、命の力が見えてくる良書。
自閉症の人たちのらいふステージ
自閉症を単なる知識としてだけでなく、その「生きる」ということをライフステージを通して知ることができる良書。
障害者―FOR BEGINNERS イラスト版オリジナル
脳性麻痺が原因の身体障害者である著者による「障害を知る入門書」。
この本一冊で、「障害者」について、概念からその立場におかれた人の現状、日本の障害者運動のおおまかな流れ等把握することができる。障害種別に関して網羅しようとしている努力も大きい。
神さまに質問―筋ジストロフィーを生きたぼくの19年
筋ジストロフィーの少年が、自分を知ってもらうために作った新聞の紹介と、その人生。進行性の障害と家族の介護、そして本人の成長等、追いながら読める貴重な記録。
どんぐりの家
聾と知的障害を併せもった子どもたちの現状と、親たちの生きる姿を描いたもので、実話を元にしており、映画にもなった名作。
聴覚障害児が野球に打ち込む姿と立ちはだかる壁を描いた「遥かなる甲子園」も、同じ作家の名作。
癒しのセクシー・トリップ―わたしは車イスの私が好き!
骨形成不全による障害をもち、日本の障害者たちに当事者としての力を与えてきた「安積遊歩」の代表的著書。
「障害」というワードを超え、パワフルでチャーミングな彼女のファンは多い。そのファン層は「障害」に直接関係の無い人にも広がっている。
*番外
『ステージ』
知的障害者にわかりやすいものを、という目的のために作られた「新聞」。記者には知的障害者本人も参加していて、世の中の動きが理解できるように作られているもの。
単純に一言、おもしろいです。バックナンバーはウェブ上で読めるので関心のある方は是非ご一読を。
変だよなぁ。というのは分かっていながら、
「普通の子」と言うのに抵抗があり。
でもやっぱり、障害の無い子のママ友と会話する時には使えなかったりもしますね。
どう表現するのが的確なのか、よく考えずに安易に使ってたのかなぁ。
別に「健常」と「普通の子」の2択じゃないですもんね。
ちょっと考えさせられました。
ダウン症の親を14年やってて、初めて知った。
そうか。「普通」がイヤなのか。
「普通」というと、こっちが「普通じゃない」ってことになるからイヤなのか。
なんか、すごく、腑に落ちた。
なるほど~~~。
聞いてみるもんねえ。
いや、不思議で不思議でしょうがなかったんですよ、「健常」。
対比っていっちゃ、「異常」の対比みたいだしね、「健常」。
「異常」っていっちゃ、「異常」の対象がかわいすぎるじゃないか、と思う。
「普通」と「スペシャル」じゃ、ダメ?
うちは2歳ちょっと前くらいからだったか、足に装具つけてたんですよ。
関節のぐにゃぐにゃがひどいってことで、歩行時の正しい筋肉養成のために。
室内でも装具、外に行くときは装具の上に靴。
だから、目立つ。すっごく目立つ。
で、目立つもんだから、どこでもすぐに覚えられる。
そのたんびに「ちぃちゃんっていうの、よろしくね」って言ってたもんで、気づいたらアイツ連れて歩くだけで街中から「ちぃちゃんコール」巻き起こってましたね。
母、すでに誰が誰だか覚えられる規模を超え…。
すっかり本人に「姫体質」を作ってしまった。
一人目ダウン症児母仲間内で、「二人目出産ラッシュ」があったときに、出産するとね、
「どう?」と、周囲が聞く。
「まだ、普通」とか、「今のとこ、普通」とか言ってましたね。
つまり、障害が無いってことを、どこか信じてない。
何しろ、最初の出産で「十月十日」騙されてますからね、そう簡単にはいかないのが人情ってとこで。
このときは、「まだ健常」とかは言わなかったなあ、なんでだろ。
健常児(者)という呼び方に私も違和感を感じます。
でもそれはS嬢さんとは違う感じ方で、だと思います。
同じ目線に立つことは必要に思いますが。
ところで「普通」についてですが、
障害のない状態を「普通」と言いづらいのは、「普通」の定義が曖昧だからではないでしょうか。
何を以って「普通」と呼ぶのか、基準は人それぞれでは?というのが昨今よく目にする考え方に感じています。
障害あるお子さんに対して障害のない子どもを「普通」とは言いづらいというコメントにも同意します。
話し言葉では「障害のないお子さん」「障害を持っているお子さん」としてますが、障害がないということは障害があるに対する反対語なので不自然です。
思うに「健常」と言う言葉はあまりに強いというか、揺るぎのない窮屈さを感じて使いづらいです。
何か適切な言葉があればいいのになあと思います。
例えば、こんな使い方もする。
「うちの娘は普通のダウン症の子より、一回り小さい」
ダウン症の子は背が低いですが、うちはそのダウン症の平均的な身長よりさらに低い。
具体例で言うと、小学校の入学時に100センチに満たないダウン症の子は、このタイプになりますね。
小さいって言ったって、ダウン症の子でかなり多くの子が、入学時には100センチは超えるのが普通です。
と、いう意味で使っています、
「うちの娘は普通のダウン症の子より、一回り小さい」
この「普通」は、類義語としてあげれば「多くの」とか「一般的な」とかって意味になると思います。
いわゆるなんというか、価値の対比のように使ったことがあるかという自覚は全く無いですね。
う~~ん、だから、
障害をもたない子の親が「うちみたいに普通の子は」って言う言い方をしても、わたしは何とも思わない。
だからそういう人も、当然、いると思うんですよねえ。
だって、「障害」関係なく、「普通」って言葉、普通そういう意味で使いませんか?
「人種を問わず、ヒトの妊娠には染色体異常が発生するのが普通である」とかね。
だから、「普通の子」でいいと思うんですけどね、
ええ、わたしは、ということで、
もちろん、そう思わない人の層の心情も、理解していこうと思います。
私は逆に普段から「普通」という言葉を極力使わないようにしています。対「健常者」に対しても使いません。「あの人は普通」「これが普通」といういい方はあまりしない。文章で書くときも「普通」ではなく「フツー」と書いて、若干ニュアンスを変えます。たぶん、「普通」という言葉に対して相当ネガティブなイメージをもっているんだと思います。「普通」という言葉には、すべてを平準化しようとする「暴力性」を感じます。私は、ですが。なんでかな? 自分自身が「普通」じゃないと感じているからなのか。他人から「あなたは普通じゃない」といわれるより、「これが普通」といういい方をされるほうが個人的には嫌な感じがする。理由は分かりませんけれど。
対して「健常者」という言葉にある種の無難さを感じることを否めません。「普通」という言葉に過敏に反応する人は、たぶん「健常」という言葉に反応する人より多い気がします。あくまで個人的なイメージですが。
視覚障害の世界では、フツーに眼の見える人のことを「晴眼(者)」と呼びますね。個人的なイメージですが、「健常」ほどの「後ろ暗さ」はない気がします。S嬢さんはどう思われますか?
なんかこう書くと、「バリアフリー」とかそういう動きと逆行する考え方のような印象を与えるかもしれませんけれど、たぶん一個人が「普通」という言葉を発することに抵抗感を覚えるのだと思います。なぜあなたが「普通」を定義できるのかと、そう思ってしまう。自分が「普通」を定義できると思うその心に、強烈な「暴力性」を感じてしまうのだと思うのです。すみません、ズレた書き込みで。しかも連続。
*「普通」→182b 193
182b 「一般」の類義語の項
「一般」→特に他と異なる性質を持っていないこと
1「一般」
2「普通」
3「普遍」
4「通常」
5「尋常」
6「通有」
7「通例」
8「平常」
9「常」
10「並」(以下省略)
ここで載っている「普通」の例文
・夕食は普通7時にとる。・普通列車
意味→特別でないこと。
193「並」の類義語の項
1「普通」
2「尋常」
3「並」
4「人並み」
5「十人並み」
6「人間並み」
7「月並み」
(中略)
16「変哲も無い」
17「芸が無い」
18「可もなく不可もない」
「普通」という言葉が、障害がからむと「悪者」にされることがある。
これは言葉自体には、わたしは罪が無いと思うし、通常の使い方で使って「罪」を持たされる人は、その人に直接関係ないとしても、気の毒だと思う。
わたしは「一般」でもなく「特殊」でもなく、その存在として「普通」でもなく、「普通じゃない」でもなく、一個の人間としてのわたしがあります。
障害をもつ娘もそうだと思っています。
そこが一番大事なことなんじゃないかな、と思う。
障害というものの中で、視覚障害と聴覚障害は、その感覚の世界とご努力の中で、独自の文化が生まれているとわたしは思っています。
だから、その独自文化を持つ持たないという意味で「晴眼者」という言葉は存在すると思っています。
聴覚障害に関しての「手話」という言語文化は、言語学としての対象にもなると思うし、ボランティア感覚ではなく、手話文化にあこがれて覚えたいという人も存在すると思う。
わたしは手話を勉強することはありませんでしたが、「手話ニュース」が好きで、一時よく見ていました。
学生のときの旅行で、ペンションで知り合った20代の女性の「話しながら動く手の美しさ」に思わず見とれていたこともありました。
「恋の告白」のようにそれを告げると、この方のお姉さんが聴覚障害者で、手話が日常語だから、その影響だと教えてくれて、妙に納得した覚えがあります。
手話を使う方は、コミュニケートの全身の表情が美しい人が多いとわたしは思っています。
わたしが10代のときの彼氏は、長谷川きよしのファンで、点字をマスターしていました。
点字での手紙は郵送料がいらないんだよ、と言いながら、点字でラブレターを送ってくれると約束し、わたしはそれを解読するために点字を勉強することになっていましたが、その約束は果たされず、わたしは点字をマスターする機会を逸したのでした。
まあ、淡い思い出だわ。
うん、難しい。
だからさ、結論ってのは、障害種別を超えて、全ての障害を見通してみようよってこと。
そうしたら、きっと何かが見えてくるよって。
そんなお話。
>一個人が「普通」という言葉を発することに抵抗感を覚えるのだと思います。なぜあなたが「普通」を定義できるのかと、そう思ってしまう。自分が「普通」を定義できると思うその心に、強烈な「暴力性」を感じてしまうのだと思うのです。
これは「普通」という言葉に罪があるのではなく、「普通」という言葉を使って相手を屈させようとする「意志」の存在の問題だと思います。
会議は筆記で参加し、日常的には口話でお話しされています。
この副校長とお話しするときは、真正面で口を見せて、と、赴任のときにお話がありました。
自然、顔を見合わせて、きちんと視線を合わせて会話するのが必須になります。
わたしはこの先生とお話しをするのが好きです。
他に何か言い方あるのかなぁ?と聞きたい気もしたんですけど、
愚問かな?って気がして聞かなかったんです。
「健常」って言葉は娘を生む前から知ってはいたけど、
やっぱり使うようになったのは生まれて以後ですね。
夫に聞いたら「俺は使ってないよ」ってさらっと言われました。
考えてみると、私の周りでは親の会でもサークルでもみんな「健常」使っているなぁ。
でも使い出したのは周りの影響ではなく、自分で選んで使い出だした気がします。
だけど障害のない子のママ友の前では「健常」使えない自分も居たり。
障害のない子の親に「うちみたいに普通の子は」って言われても気にならないけど、
自分ひとりで考え事してても「普通」が使えなくて「健常」使ってたり。
う~ん、なんだか自分で変な感じ。
ちょっと自分の中でテーマとして持っておこうと思います。「健常を使う自分」。
紹介されている書籍も読んでみたくなりました。私にも何かが見えてくるかな。
大きな子の親、成人している方の親御さんからは、あんまり聞かないですね、「健常」。
>夫に聞いたら「俺は使ってないよ」ってさらっと言われました。
父親は、母親ほど「自分1人で子どもを連れて対社会」という機会が無いんですよね。
だから、告知から日常に入ると、障害だの健常だのってことではなくて、「固有の名前」ってのがしっくり来るみたいですよ。
他の子と「つい比べてしまう」って機会が少ないこともあるのかな。