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横田の里の常連さんが綴る里のネタ特集

山と海での奇妙な動きは大災害の前触れなのか?

2013年06月02日 | 気になるネタ

世界文化遺産の登録が確実になった富士山の周辺で、異変が相次いでいる。3合目付近の林道が約300メートルにわたって陥没したほか、北側に位置する河口湖では湖水が大きく減少。海でもアサリの漁獲量が激減するなど、不可解な現象が多発している。江戸時代には南海トラフを震源とするM9級地震の49日後、富士山が噴火した。山と海での奇妙な動きは大災害の前触れなのか。

 富士山をめぐって熱くなっているのは、世界遺産の登録を喜ぶ人ばかりではない。山の地中では1000度のマグマが不気味にうごめいている。

 3合目付近の滝沢林道では先月、300メートルにわたる大規模陥没がみつかった。亀裂の深さは最大1メートル超。林道を管理する山梨県は「大量の雪解け水が舗装した路面の下の石を流失させたのが原因ではないか」とみている。ただ、林業関係者は「こんなことは過去に例がなく、気味が悪い」と不安がっている。

 富士五湖の1つ、河口湖(山梨県富士河口湖町)では水位の低下により、「六角堂」の立つ浮島が地続きに。出現した珍名所には、ゴールデンウイーク中に多くの観光客が訪れた。

 異変は山の周囲だけではない。直線距離で約160キロの浜名湖(静岡県浜松市、湖西市)ではここ数年、アサリの漁獲量が激減。2009年の6000トン超から12年は2000トン台に急減し、今年は観光客向けの有料潮干狩りが中止に追い込まれた。

浜名湖には昨年春、イルカやアザラシとも判別できない謎の生物が出現して騒動になった。また、浜松市の天竜川流域では先月、1万匹以上ものアユの死骸がみつかっている。浜名湖や天竜川は、巨大地震の震源となる南海トラフに面した地域だけに不気味だ。

 一連の兆候について、武蔵野学院大の島村英紀特任教授(地震学)は、「長期的にみれば明らかに何らかのサイン」と警告する。

「噴火を繰り返してきた富士山に300年も動きがないのは、異常な状態といえる。動きが活発になる時期は近づいていると思う。1707年には南海トラフを震源とする宝永地震(M8・4-8・7)の49日後、富士山の宝永大噴火が起きている。さまざまな異変は今後の噴火、大地震に関連している可能性がある」

 富士山では864年から866年にかけ、貞観(じょうがん)大噴火が発生。終息から約3年後の869年、「前回の東日本大震災」ともいわれる貞観地震(M8・3-8・6)が起きた。噴火と地震の順序はともかく、東日本沖の太平洋、富士山、そして南海トラフが密接に関係している危険性は高い。

 日本人は筆まめな性格のため、地震後の状況を記録した文献を多数残している。ところが、「前兆に関する記録は貞観地震、宝永地震を含め、残念ながら皆無」(地震学者)と、大災害発生の手がかりとなる史料はないという。

 地割れなど兆候の特徴を分析して、どのような噴火が起きるのか予測するのも難しい。富士山は地震学者の間で「噴火のデパート」といわれるほど、さまざまなタイプの噴火が発生した。貞観大噴火ではドロドロした溶岩が流れ出た一方、宝永大噴火では大量の火山灰を噴き出し、灰は江戸市中でも降り積もった。

 地震の専門家が危惧するのは、富士山をいまだに死火山、休火山と認識している人が多いことだ。

 「1979年、死火山と思われてきた長野県と岐阜県にまたがる御嶽山(おんたけさん)で大規模な水蒸気爆発があった。この噴火がきっかけで死火山、休火山、活火山という定義が見直された。火山はすべて活火山で、当然、過去に噴火を繰り返した富士山も活火山である」(島村氏)

 木曽の御嶽山は約5000年の沈黙を破って噴火した。富士山が静かにしている300年など、自然界ではほんの一瞬にすぎない。


落合氏の影響があるのでは?

2013年06月02日 | 夏ネタ

中日の高木守道監督(71)と井端弘和内野手(38)の“バトル”が注目を集めている。14日の対日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、試合中にもかかわらず、中継プレーを巡り激論を交わしたのだ。7回表二死二塁の場面で、日本ハム・稲葉の中前打を大島が本塁へ返球するときに、遊撃・井端がカットマンの位置に入らなかったことを、高木監督は注意。すると、井端は一塁・クラークがカットマンに入るべきだったと異議を唱えたのだ。あるスポーツライターはこう話す。

「8年間、合理主義の落合博満監督のもとでプレーした井端をはじめとした主力選手は、高木監督の思いつきの指示とベンチで説教を始めたことに違和感を覚えているでしょう。

 落合監督は『選手には家族がいる。もし俺が試合後のコメントで名指しで批判したら、妻が何かいわれたり、子供が学校でいじめられたりする可能性が大きい』と公の場で選手にチクリということはなかった。あまりしゃべらないことでマスコミ受けが悪くなっても、選手をかばい続けた。

 それに対し、高木監督と井端の口論は、テレビカメラに収められ、スポーツニュースや新聞でも大々的に取り上げられた。しかし、試合後やカメラのないところでいうこともできたはず。また、指示に関しても、普段練習をしていないプレーなのに、井端が突然やり玉に上げられた。これでは、選手の気持ちを掌握することは難しい」

 試合後、落ち着きを取り戻した井端は「僕が(中継に)入らないといけなかった」と冷静に話し、翌日には相手のファインプレーでヒット2本分を損する結果に終わると、「バチが当たった。天罰ですね」と、監督批判とも取られかねなかった行為を、素直に謝罪した。

 井端のこの発言の裏に、落合氏の影響があるのではないかとの指摘もある。

 イメージで“異端児”と思われがちだが、現役時代の落合氏ほど監督に従順な選手はいなかった。長嶋茂雄監督のもとで日本一に輝いた巨人時代の1994年、チームのカンフル剤を与えるために、9月10日の広島戦で一度だけ4番を外されている。この時のことについて、自著『激闘と挑戦』(小学館)でこう述べている。

〈監督が「5番を打て」と言えば打つし、「6番を打て」と言えば打つ。それは監督が決めることであって、その決定が嫌だったら、オレはユニフォームを脱がなきゃいけないわけだからね〉

 同じようなエピソードは他にもある。前出・スポーツライターが語る。

「1985年のシーズン終盤、落合氏は52本の本塁打を放ち、王貞治氏の持つシーズン55本塁打(当時)の記録を塗り替えるチャンスがありました。ところが、稲尾監督に『来年に向けて、できれば残り試合で若手の力を見極めたい』といわれ、『いいですよ。明日から休みます』と即答したといいます。今となってはもったいなかった気もしますが、こういったところに、落合氏の監督采配を尊重する姿勢がよく出ていると思います」

 今回、高木監督と口論となった井端は、落合政権最終戦となった2011年の日本シリーズ第7戦後に、「監督がいなければこういう選手になっていなかった。野球の深さを知った」と語っている。一瞬カッとなってしまったが、高木監督に反乱を起こした試合後、すぐ冷静になれた裏には、落合イズムが潜んでいたのかもしれない……。