精華よもやま話   佐々木まさひこ議員のつぶやき

京都・精華町会議員佐々木まさひこのローカル日記

死刑制度

2010年02月09日 09時30分32秒 | 佐々木の想い
 一昨日の新聞に、「死刑容認 85%」という見出しが躍った。
 昨今の凶悪犯罪や意味のない殺人などに対する国民の怒りの現れであるとは思う。また、今朝の報道では、時効の撤廃も検討されているとの報道がある。
 時効の撤廃に関しては、ある程度認容できるとは思う。ただ、「若気の至り」で犯してしまった比較的軽微な犯罪まで、一生怯えながら生きていかなくてはいけないことは避けるべきだと思う。
 私は、犯罪を認める立場にない。ただ、歴史的には時の権力によって無理やり「犯罪者」にされたケースもあれば、冤罪事件のように誤った捜査などで無実の罪を着せられてきた国民も現実にある。何事も100%間違いないということはあり得ないのだ。また、長く続いた自公政権によって司法の性格も歪められた。私が学生の頃は、まだ全国的に有名で、純粋に法理論での権威的な方も最高裁判事として就任していた。しかし、最近の判決をみると、権力に迎合し、憲法上もっとも尊重されなければならない基本的人権さえも無視するような判決が出ている。「憲法の番人」という基本原則が守られていない危惧もある。
 死刑に関しては、撤廃すべきだと思う。いくつかの理由があるが、最大のものは「間違った裁判結果を防げない」からだ。過去何度も冤罪事件が発生している。確かに、その当時としては最新の科学を駆使しているケースもあるだろう。しかし、それが「絶対的真実」であるとは限らない。科学的分析の誤差がないとしても、その分析対象となる証拠の採取を間違えれば、違う人が犯罪者となる可能性も残る。
 刑罰には「犯罪抑止力」があるとされている。一定あることはある。ただ、自暴自棄になって「死にたい」と思っているが自殺するだけの決断ができない人がいれば、自分が犯罪を犯すことで国家が自分の希望を叶えてくれるといったおかしな事態となる。犯罪者にとっても、一瞬で命を絶たれることと一生罪の意識を持ちながら生き続けることとどちらが本人のためになるかも問われる必要がある。少なくとも、江戸時代のように刑罰に「報復」的意味を込めるのは筋違いだと思う。犯罪被害者の遺族が、犯人の命を絶つことで「すっきり」するのだろうかも疑問である。
 日本では、犯罪人に対する教育プログラムが貧弱だとも言われている。それが、再犯率を高める原因になっているなら、もっと強化しなければならない。傍論だが、殺人犯・受刑者の心理的研究をすることで、再犯防止プログラムの研究に生かすこともできるのではないか。人間は、感情もあるが、社会のシステムをよりよく変えていき、理性的に生きることのできる社会を一歩ずつ上がるべきではないか?
コメント
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