故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

副島種臣の誕生

2013年09月09日 17時53分06秒 | 幕末史

今朝も5時半に家を出て約1時間の歩きだった。朝の歩きはとっても気持ち良い。 大井池では白鳥の家族が。

 

1羽だけ離れた場所で泳いでいる。どうしたのかなぁ~?

 

暑い、暑いと言っていたが、秋は間違いなく近づいている。今日の仕事場の近くの畦道で見つけた曼珠沙華。彼岸花とも数珠花ともいう。まだ蕾であるが・・・。

 

今日は佐賀藩士・副島種臣が生まれた日だ。文政11年(1828)9月9日の事である。 枝吉南濠(30石)の二男に生まれる。父の南濠は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄も同じく国学者の枝吉神陽。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚め江藤新平や大木喬任と交わった。 嘉永3年(1850)、兄の神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852)大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。 安政6年(1859)3月に副島利忠の養子となる。元治元年(1864)長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867)大隈重信と共に脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。明治維新後は新政府の参与・制度取調局判事。明治2年に参議、4年に外務卿となり、活躍する。明治6年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年には板垣退助らと共に愛国公党に参加、民撰議院設立建白書を提出したが、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在していた。明治17年に伯爵。明治25年に第1次松方内閣において内務大臣についた。明治38年1月31日に死去した。   って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


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