

(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【20】次の鉄道で一番早く全線開通したのは、どこでしょうか。
(a)播但線 (b)山陰線 (c)出石鉄道 (d) 宮津線(舞鶴~豊岡間)
大阪から神戸姫路までの山陽線は開通していました。京都から福知山を通って
山陰線は和田山まで開通していました。それを追っかけるようにして但馬の鉄道
は、明治39年(1906)に姫路から和田山までの播但鉄道(現JR播但線)が開
通します。
明治42年(1909)に山陰線は城崎駅まで開通します。
昭和4年(1929)に出石軽便鉄道が江原~出石に開通します。
昭和7年(1932)に宮津線が舞鶴~豊岡に開通します。
4つの鉄道線路のうち、一番早く全線開通したのは播但線です。答えは(a)の
播但線(姫路~和田山間)となります。
『稲木だつ』
昔、じいちゃんが子供のころは、稲束を干す「稲木(いなき)」があったと書
いたね。ふるさと但馬は、秋だって晴れの日がそんなに続かないから、大きな稲
木に長い日数干さなきゃならん。なので、9段も10段もある高い稲木が普通だ
と書いたね。稲木を立てる長い木の棒のことを「稲木だつ」って言ったんよ。そ
の「稲木だつ」の話なんよ。
「稲木だつ」は、6mも7mも真っすぐした木の棒なんだわ。節もきれいに磨い
た、ツルツルの真っすぐな物なんだわ。昔のお百姓さんは、稲木をあっちにもこ
っちにも立てるため、その材料の「稲木だつ」はとってもたくさん何百本と持っ
ていたの。
秋が終わり使わなくなったら、「稲木だつ」は田んぼの側溝に「稲木ぐま」って
積み上げて、ワラで覆いをして次の秋まで保管したんよ。田舎の田んぼには、い
くつもいくつも「稲木ぐま」が並んでいたの。
時代は進んで、稲の乾燥は乾燥機でするようになったの。農作業小屋の乾燥機で
するか、農協のカントリーに出して乾燥してもらうの。とにかく、稲木を作らな
くてもよくなったの。「稲木だつ」もいらなくなったの。
さあ大変、たくさんあった「稲木だつ」は不要のものになって、ずっとずっと田
んぼに積み上げてワラの覆いを毎年するばっかりになったんよ。「稲木だつ」の
その後の運命長かったね。あるものは工事用の足場になったり、あるものは大き
な野立て看板の骨組みになったりしたんよ。じいちゃんのお店の巨大な野立て看
板もずっと田んぼに立ってたわな。あるものはとうとう風呂の薪になったものも
あるの。
何十年もかかって、やっとこの頃「稲木だつ」の積み上げた「稲木ぐま」は見か
けなくなったね。農村風景の昔と今の一番の違い、林立した稲木があったり、
「稲木ぐま」がずらっと並んだ風景が消滅したことだろうかね。