goo blog サービス終了のお知らせ 

黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

比丘尼青蓮の面影を訪ねて(延命山地蔵院金剛寺)

2022-10-07 23:20:43 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

タバサねーちゃんは、2008年の7月に生まれました。

一緒に生まれたきょうだいにの血統書名には、みんな海の文字が入っています

タバサねーちゃん、0歳のアーカイブです

 

12月、まだ七海ママと一緒に同じサークルで暮らしていました。

2009年の夏、もうじき1歳です。

ママとののこねーちゃんと、よくミニドッグランで遊びました。

ミニドッグランの中央にあるガゼボにての3名です。

実はガゼボで遊ぶと言うより、ガゼボの下を掘っていました

おかげで、ガゼボは傾いてしまいました

まさにデッキングドッグです

 

ついでに、この頃の小次郎パパです。

パパも若かった。

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

比丘尼青蓮の記憶を訪ねた記事は、続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ (goo.ne.jp)にあります。

ちょっと遠いカテゴリー(?)になりますけど、ご容赦下さいませ

 

9月13日、利根川の北側の埼玉県熊谷市 妻沼小島のヒマワリ畑に行きました。

ヒマワリに癒やされて、牛沢橋を渡って県道142号線に出ます。

 

岩松(太田市岩松町)の金剛寺に寄ります。

ここには、妙蓮(みょうれん)の板碑があったというのです

太田市HPには、

この板碑が出土した岩松町の延命山地蔵院金剛寺は、岩松直國の開基と伝えられています。
 比丘尼妙蓮は、岩松直國への譲状(弘安5年・1282)に見られる藤原土用王のことで、岩松氏の祖、岩松時兼の孫であると思われます。沙弥円仏は系譜は不明ですが、妙蓮の夫と推測されています。
 銘文は、達筆な行書で書かれており、円仏・妙蓮夫妻が、生前極楽往生を願って、彼岸の中日に建立したものです。円仏板碑は、高さ147.5cm、幅34cm、妙蓮板碑は、高さ145cm、幅34cmで、2基とも同じ形をしています。石材は緑泥片岩(秩父青石)を使用しており、武蔵型板碑と称されているものです。
 2基の板碑には、蓮華座上の月輪内に阿弥陀如来をあらわす主尊種子の「キリーク」が、また、脇侍種子として、下左方に観音菩薩をあらわす「サ」、右方に勢至菩薩をあらわす「サク」が力強く彫りこまれています。さらに脇侍種子の下には、銘文が刻まれています。種子、蓮華座、銘文等の刻法は、鎌倉時代の特長をよく表しており、形も大きく、石造美術としても優秀であるとともに、史籍の欠を補う貴重な資料です

 

上野国山上の行仙上人の『念仏往生伝』には、比丘尼青蓮(しょうれん)の往生が記されています。

第卅八  比丘尼青蓮
□者上野住人也。後付夫縁。住武蔵国 。世□之隙。常読誦法花経。既満一千部了。夫夭亡後出家。其後五十九歳。自此以後。依善知識勧。一向称名。至七十三齢。夜見光明如日輪。自南方来照。其頂属疑□処。空有声□云。摂取光明。不簡所処云々。其後堅信心。然□不語外人。七十七歳之夏。五月之比始。語舎弟僧并子息尼。従同八月廿八日。老病□催。至九月七日。所悩平癒。粗得尋常。沐浴潔斎。語知識云。仏既来迎。僧問。仏在何方乎。病人指々空。又戌時四方有光明云々。或□指取数。或合掌□額念仏。至八日□時。自起居。取五色糸唱名号。毎声作礼。即十念十礼也。其後念仏三十返。如眠気止。于時建長三年九月八日。

 

ヒロイン比丘尼青蓮は、上野で生まれ、後に嫁いで武蔵国の住人になりました。

上野のどこで生まれたか書いてありません。

武蔵野どこに住んだかも、かいてありません。

青蓮を名乗った彼女は、どこで生まれたのでしょう?

普通に考えると、武蔵に近い上野、新田荘が思い浮かびます

 

ここは、武蔵に近い武蔵に近い上野の新田荘です

青蓮、妙蓮、何となく繋がりそう

時代的には、念仏往生伝より少し後になります。

でも、念仏往生を願った人の記憶です

 

 

県道沿いの「南無延命子安○○」の文字塔から入ります。

大分前に来た事があります。

その時はたいした感動もありませんでした。

 

左手に御堂があります。

御堂の左に、説明板が見えます。

板碑は新田荘歴史資料館に保存されていると言うことです。

近いうちに行ってみましょう。

 

子安地蔵尊かな?

厨子の中にはどなたかおいでのようです。

合掌

 

隣には、子安地蔵尊のお姿があります。

合掌

 

向こうの建物が、金剛寺の本堂と言うことでしょうか?

金剛の文字がやっと見えます。

合掌

 

なんとなく比丘尼青蓮の記憶に逢えたような気分です

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿保比丘尼の面影を求めて・その4(円仁開基の金鑽大師)

2022-10-03 15:35:28 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、諏訪神社の前を南に下ります。

ひめちゃんは、普段見かけない物体に気づきました

ワンワン、何者じゃ

 

稲刈りがすんで、稲わらのロールが作られたのです

牛さんの御飯かな?

 

タバサねーちゃんは、反応しません

 

夏の名残の花々の向こうに赤城山です。

山上城跡公園の南側を通って帰りました。

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

阿保比丘尼の面影を求めての旅、金鑚神社(かなさなじんじゃ)の隣、金鑚大師にも寄って行きます

 

道沿いには大きな華麗な赤門があります。

ちょっと駐車できないので、駐車場の表示まで進みます。

駐車場からは、黒門から参拝です。

金鑚大師の説明板があります。

 

元三大師と呼ばれるこの寺は、正式には金鑚山一乗院大光普照寺という天台宗別格本山の名刹であり、古くは聖徳太子の開創であり舒明天皇の勅願寺であったと伝える。平安時代の初期、天台宗祖最澄の弟子で、下野国(栃木県)出身の慈覚大師円仁の中興によって本尊に十一面観音が安置され、その別名によって寺号がつけられたのである。

 

阿保氏の文字はありませんね

でも、御嶽城主の文字があります。

阿保氏は御嶽城主の時代もありましたね

慈覚大師円仁の中興なのですか

 

後で御朱印と一緒にいただいたパンフレットによれば、

平安時代初期仁明天皇の御代(833~850)慈覚大師円仁が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗に所属せしめ、金鑚山一乗院大光普照寺と名付けて開基となられた。

 

黒門をくぐると、左に赤門が見えます。

 

りっぱな本堂です。

本堂前に水屋です。

何気なく、上を見上げると、龍がいます

金網で覆われてしまったので、よく見えませんけど、実はかなり凝った水屋なのです

 

 

さて、本堂に向かいます。

 

本堂にも、華麗な彫刻がいっぱいです

双龍もいる華麗な彫刻です

屋根の上にも、これらを守っている獅子かな?

 

達磨さんもいます

1月3日に、だるま市があるそうです。

 

「御朱印は本堂で」の案内があります。

本堂内は撮影禁止でした。

手書きでいただいた御朱印です

一緒にいただいたパンフレットによれば、

なお明治維新の神仏分離令により、当山の奥の院金鑚大明神は武蔵二ノ宮金鑚神社として分立し、多宝塔も神社の所有となった。しかし、当山は厄除け元三大師の寺として法燈栄えて揺るぎなく、遠近の善男善女の信仰を集めている関東屈指の霊場として、また児玉三十三霊場三十三番札所ともなっている。

金鑚神社は、神仏分離令によって切り離したのですね。

阿保氏寄進の多宝塔は、元は金鑚大師の多宝塔だったのです

 

さて、ひめちゃんたちが待ってるから帰りましょう

 

おや、向こうの高台に目立つ建物があります。

たぶん鐘楼とおもいますけど、ちょっと足を延ばします。

途中には、ひっそりと薬師堂、素敵な薬師様がおいででした

その隣は、大きな大きなお地蔵様です

やっぱり鐘楼堂です。

 

さて、自宅をナビに入れて帰ります。

ほぼ国道462号線を北上して帰りました

ちょっぴり、『念仏往生伝』阿保比丘の面影に触れて、大満足の神川紀行でした

 

 

阿保比丘尼の往生譚を確認です。

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿保比丘尼の面影を求めて・その3(金鑽神社)

2022-09-29 15:46:35 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

昨日の夕方のことです。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、南の方にお散歩に出ました。

こちらも稲刈りが始まっています。

 

小学生の男の子が走り出てきて、「かわいい、触っていい?」

「いいよ、でも白い子にしてね

タバサねーちゃんを前に出しますけど、触らせません

もう一度前に出すけど、やっぱり嫌がります

ひめちゃんなら、そういう行為に出ますけど、フレンドリーなタバちゃんがです

「ごめんね、嫌だって。又ね。バイバイ。」

 

どうしてかな

そういえばあの子は、大きなマスクをしていました。

マスクをした顔に恐怖心を抱いたのでしょう

まもなくスイミングスクールのバスが来て、彼は乗っていきました。

 

ひめちゃんにも事件です。

緊張してます

「ワンワン、君たちはなぜここにいるんだ

稲刈りの準備で取り外された黒ビニールカラスに反応したのです。

一瞬、カラスの群れに見えたのでしょう

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

阿保氏寄進の多宝塔があるという金鑚神社(かなさなじんじゃ)、阿保氏館跡から10分ちょっとという事で、車を走らせます。

迷わずに到着です。

鳥居の前の道は、国道462号線です。

むむ、この夏、鬼石の緑埜寺(みどのじ、浄法寺)に行くときに通ったぞ

あのころは、県境を越えての移動はダメということでした。

ナビの指示通りに、やむを得ず通過だけしたのでした。

 

鳥居脇の付近の地図を確認です。

 

大鳥居をくぐると、まもなく右手に多宝塔が見えてきます。

説明板もあります。

天文3年(1534)に、阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三年甲午八月晦日、大旦那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。

 

阿保氏にかかわる遺構で、阿保氏の記憶ですね

500年も経ってるなんて思えないほど、しっかり立ってます

 

これだけのものを寄進した阿保氏の実力は、相当なものだったのでしょう

足を延ばして良かった

さて、社殿の方に向かいましょう。

 

金鑚神社の由緒があります。

社伝によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打金を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされている。

鎌倉時代には、児玉党の尊信が暑く、近隣二十二ヶ村の総鎮守として祀られていた。

 

やはり、阿保比丘尼が生きた時代も、ここ金鑚神社がこの地域の鎮守だったのです

 

社務所があります。

御朱印をお願いします。

書き置きだけということで、日付を入れてもらいます。

武蔵国の二宮だったのです

 

さて、拝殿で参拝です。

あの赤い橋を渡ると、聖なる空間ですね。

古式ゆかしき鳥居をくぐります。

 

真新しい手水社です。

 

隣には、幾星霜を経た付近の案内板です。

鏡岩にまで、行けるかな?

 

ともかく、拝殿で参拝です

拝殿に向かいます。

たくさんの御利益があるようです。

2礼2拍1礼で参拝です。

拝殿の周りを、ちょっとウロウロ。

 

本殿はなく、後ろの御室山がご神体でした

ご神体の山への扉が見えます。

 

さて、鏡岩の方へ行ってみます。

おや、鏡岩の説明板のそばに、熊捕獲の罠です。

多宝塔の所でも見ました。

ここはハイキングコースでもあるようですけど、熊が出没するようです。

 

鏡岩の説明板です。

ここから400m上ったところですか?

高崎城が落城したときに火災の炎が明るく映ったんですか

高崎城の落城って何時のこと

尾根続きには御嶽城跡の遺構ですか

阿保氏が御嶽城主の時代もありました

ここは阿保氏の記憶がいっぱいの場所だったのです

 

おや、この方はどなたでしょう?

日本武尊とあります。

ちょっとかわゆくて、おみそれしました

 

この先を、しっかり登山の格好で2人連れが行きます。

ハイキングコースでも、ちゃんと準備が必要なようです。

捲土重来を期して、退却です

 

道の脇に句碑がいっぱいです。

俳句愛好者の個人の建立のようです。

こういう自分が生きた証の残し方もあるのですね

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿保比丘尼の面影を求めて・その2(阿保氏館跡の愛宕神社)

2022-09-25 19:45:27 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

久しぶりに晴れそうな朝です

タバサねーちゃんも機嫌良く目覚てお散歩に出ます

ひめちゃんは何か気にしています。

日曜なので、ひめちゃんの苦手な子供の姿があるのかな?

 

二人は諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

浅間山がいつになく大きく見えます

二人は遠出したいそうですけど、今日はおかあさんの予定があるので、高台中央からUターンです。

 

山上の元蓮田を通って帰ります。

蓮を駆除して稲田にしたはずですけど、蓮はこの夏も生き抜きました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

(埼玉県)神川町は、神流川沿いの南北に細長い町です。

北半分の地図です。

右側を走る国道256号線、上(北)からやって来て元阿保で左折し、次の信号を右折して進むと、阿保神社があります。

その途中に、阿保氏館跡もあるはずでした。

でも、目に入りませんでした。

 

阿保神社でスマホナビで検索して、いざ阿保(安保)氏館跡へ。

阿保神社の説明板に、「(阿保神社は)館のすぐ北西に鎮座している」とあったように、本当にすぐでした

 

小さな愛宕神社です。

この左側の道を通って、阿保神社に行ったのです。

目に入りませんでした

横から、もう一枚

風情のある松です

 

説明板があります。

ここが北武蔵野豪族・阿保氏(安保氏)本貫の地なのですね

この館跡は安保氏総領家の居住地として伝えられ、嘉永元年(1848)には、「安保氏遺跡之碑」が建てられている。

 

「安保氏遺跡之碑」って、石宮様の隣の大きな碑かな?

拓本でも撮らないと、文字は読み取れません

安保氏は、鎌倉時代から栄え、戦国時代には没落したと言うことですけど、ちゃんと記憶が残っているのですね

安保氏は北武蔵の豪族だったのです。

阿保比丘尼(あぼびくに)は、北武蔵の豪族・安保氏の女性で、この付近で念仏往生したのです

 

 

阿保比丘尼の往生譚を確認です。

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

人々が念仏を唱えることによって、極楽に往生できると信じていた時代があったのです

でも、念仏三昧の日々を送れるのは限られた人々だけでした。

 

そんな人達の記録を残した、上野国山上に住む行仙上人は、どんな人だったのでしょう?

 

地図の左下、金鑚神社&大光普照寺にも寄って行きます

 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿保比丘尼の面影を求めて(阿保神社)

2022-09-23 14:55:49 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今朝は土砂降りの雨でした

雨雲レーダーは、「12時頃止みます」ですって

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、やむなくビンボー合羽カでお散歩です。

ご近所を歩いてきました。

玄関からおうちに入れてもらい、フキフキしてちょっと遊んで、朝ご飯と一緒にお部屋(サークル)に帰ります。

 

写真がないので、数日前の夕方散歩です

今朝は土砂降りの雨の中だったので、この夕方散歩よりちい散歩です。

 

この日も基本的に雨でした

夕方雨が上がりました

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、南の方にお散歩です。

新里中学校側のこの田んぼ、毎年マネキンの頭が登場します。

ひめちゃんたちは、反応しません。

西の空には、日の光です

浅間山がきれいに見えます

明日天気になるかな?

なりませんでした

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

鎌倉時代に上野国山上に住んでいたという行仙上人(ぎょうせんしょうにん)、彼の編集といわれる『念仏往生伝』に、「武蔵国阿保比丘尼(あぼびくに)」の話があります。

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

武蔵国阿保って、何処だろう?

いろいろ検索すると、埼玉県児玉郡神川町元阿保あたりのようです。

元阿保には、阿保神社、阿保氏館跡があります。

車で1時間ほどです。

では、行ってみよう

 

阿保神社の住所、埼玉県神川町元阿保1をナビに入れて出発です。

(訪問は2020年10月です。)

だいたいまっすぐ南に下ります。

伊勢崎市内を通って、板東大橋で利根川を渡ります。

途中、「塙保己一旧宅→」も見かけます。

どうも鬼石の緑埜寺(みどのじ、浄法寺)に行くときに近くを通ってます

 

ちょっとの不安はありましたけど、無事到着です。

赤い鳥居が目立ちます。

祭礼があるのでしょうか?

幟はないけど、長い竿が立ってます。

村社阿保神社です。

 

大きな大きな目立つ木があります

瘤がいくつもあります。

注連縄が巻かれています。

御神木です

 

御神木の後ろにも鳥居です。

もしかして、古い鳥居かな?

 

さて、鳥居をくぐって拝殿に向かいます。

鳥居が少し奥まった所にあるのです。

 

落ち着いた社殿です

 

狛犬の脇に説明板があります。

ここ元阿保の地は、中世丹党の秩父恒房の次子實光は元阿保に住み安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町さらに戦国期にまでつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた300メートル四方と考えられている。館のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰親が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

念仏を唱えて極楽往生したという阿保比丘尼は、阿保氏の女性と考えられます

この近くに、彼女は生きていたんですね

 

狛犬の歯までしっかりみえるのは、珍しいです。

こどもは、やんちゃ坊主かな?

 

扉は閉まっているけど、空間があるのはいいですね

2礼2拍1礼で参拝です

 

失礼します。

奥に色彩が見えます。

もしかしたら、すごい本殿かも

 

後ろの本殿に廻ります。

あれえ、よく見えない

素晴らしい彫刻があるようだけど、網が厳重に張ってあって見えません。

かろうじて、見えた彫刻です。

 

 

本殿の後ろには、境内社がいっぱいです

赤い屋根の下の石造物は、馬の文字が見えます。

馬頭観音かな?

 

天満宮です。

石宮も堂宇も新しそうです。

近年、何かお祀りする理由があったのでしょう。

 

天満宮の並びは、たくさんの石宮様です。

すごいパワースポットです

 

ここから、鳥居と御神木が見えます。

大きな御神木です

 

御神木の隣は、元阿保公会堂です。

新里で言う集会所でしょう。

神社に公会堂(集会所)があることが、地域の神社なのですね

 

公会堂の裏に庚申塔がいくつもありました。

 

このあたりに、念仏往生を遂げた阿保比丘尼が生きていたのですね

 

 (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする