ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

スーパーマンじゃないインマヌエル

2010年01月23日 | グレ耶蘇生活
こんなことを言ったら、そっちの人々(いわゆる正統キリスト教を自認する、特に保守派の人々)から、火あぶりにされそうな気がしますが、桜泉は、この数カ月、ずっとずっと考えてきました。

・人はどうして、かくも絶対者を、しかもスーパーマン的な、特別な絶対者を求めるのだろう。
・しかし、そういうスーパーマン的絶対者を求める心が、人を縛り、人を善き生、良き社会から、遠ざけているのではないだろうか。

そして。

・イエスという人は、罪のないイノセントな存在なんかじゃない。神でありながら人になられた、低きに下ったというのなら、ある意味、罪、失敗、苦しみ、それらを自分のものとして持ち、知り、悩む存在だったはずだ。弱い存在だったはずだ。←福音書にもそんな面が隙間見え…
・神というのは、私たちの運命を決めつける絶対者や罪や不幸を避ける特効ワクチンではない、悩み、避けられぬような苦しみ、情けない状況のところにこそ在って働かれるからすごいのではないだろうか。
・スーパーマン、つまりは強いメシアなんか求めんなよ、苦しみの時は一緒に苦しもうぜ、悩もうぜ私と一緒にさ――イエスという人はそう生きて、挙句に理不尽な死を死に切ったからこそ、その人は神の愛する子であり、どういう意味であれ、復活という言葉で表現される形で、神の子としてありえるのではないのか。

この疑問、まだうまくまとまらないけど、…特別なスーパーマンを欲しがる心理にも、一理はあり、人を安心させ生かす効果もあるにしても、社会としては独裁者を生んだり、個人レベルでは、非共感的態度や裁き、差別と分断、無責任…そういうものを生むことにつながるのではないかと…直感レベルとは言え、思うようになってき
ているのです。

なので、罪の無い方が私たちの罪をぜーんぶ負ってくれたのです、アーメン!って言われても、心が冷んやりするばかり。
イエスを殺したのは私だ!という意味で、私のために死んだ、という意識は持つけれど。
特別な人なんかだったら、私はあなたを愛さないし、我信ずなんて言えないよ、イエスさま!どうしようもない気持ちの中に、共感を持って共にある人だから、私はあなたをすごいと思うし、神様の子だと思うのです!
――と、叫びたくなります。

だから、というのがすべてではないのだけれど、今身近にある教会というものに連なっているのがどうにも違和感があってできなくなっています。この半年以上。
もちろん、世の中には、たぶん私のこういう思いに近い思いを抱く人と、そういう群れがあるであろうことも思いますが(実際、イエスも罪の意識を持っていた、罪があったとい解釈も昨今はあります)、今身近にある教会は、そういう思いにこたえ、ともに考える場所ではなさそうです。見つけるのは一苦労しそうです。

ただ、桜泉は、こんな疑問と迷いを、結論はすぐに出なくていい、いいと思うようになりました。(だいたい、結論をすぐ欲しいというのも、スーパーマンに来て欲しいというのと同じでしょう。)
そこにこそ、今、ここにこそ、イエスさまは来てくれる、インマヌエル…共に居てくれているはずだと、そう、信じているから、無理に焦り急ぎたくないのです。私の疑問と迷いから逃げずにしっかり生き抜く時、それだけ神様と長く一緒にいられるのだから…。