サタジット・レイ監督生誕100周年を見た5月2日、ニューヨークを拠点に活動してきた、インド系のベテラン映画ジャーナリスト、アシーム・チャブラ(Aseem Chhabra)が「When Satyajit Ray got UPSET」(サタジット・レイ監督の叱責)というコラムを、『Rediff.com』に寄せていた。
スティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒット作『E.T.』〈1982〉と『未知との遭遇』〈1977〉が、サタジット・レイ監督が、自身の小説から脚本に起こした『The Alien』の plagiarism(剽窃)ではないかという疑惑を報じた経緯の回顧談である。
そういえば現時点でこの件はどれだけ日本語で伝えられているのだろうと、ざっとサーチしてみたが、ネット上では、ウィキペディア日本版のサタジット・レイ監督の項目が、せいぜいのようである。これは英語版を訳したもので、表面的な経緯しかないから、ウィキペディア日本版の信頼性をあえて措くとしても、さっぱり要領を得ないだろう。
ここにも引用があるが、問題の脚本がレイ監督によってハリウッドに持ちこまれたころ、自分は高校生にすぎなかったと、スピルバーグ監督が疑惑を否定したことは広く知られている。
一方、マーティン・スコセッシ監督の次の発言も、やはり広範に知られている(『Times of India』2010年5月19日付の TNN 電)。
「I have no qualms in admitting that Spielberg's E.T. was influenced by Ray's Alien. Even Sir Richard Attenborough pointed this out to me.」(『E.T.』が『(The) Alien』の影響を受けていることを認めるのに、まったく異存はない。リチャード・アッテンボロー監督でさえ、私にそう言っていた)
この機に、チャブラ記者の『Rediff.com』記事と、ここからリンクされている『The Hindu』2017年11月11日付の記事の要点を、かいつまんで紹介する。
なお、後者の記事は、剽窃か否かを判断するうえで必要な資料をまとめた単行本『Travails with the Alien: The Film That Was Never Made and Other Adventures with Science Fiction』(宇宙人が来て大騒ぎ:未完の映画脚本と SF アドベンチャー集, Harper Collins India, 2018年)にも収録されている。
1983年の春、米国コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール(Columbia University Graduate School of Journalism)の学生だったチャブラは、授業で課された課題として、『E.T.』と『未知との遭遇』の剽窃疑惑を取材しようと思った。
直接のきっかけは、同年2月、インドの主要週刊誌『India Today』が掲載したレイ監督のインタビュー記事を読んだからである。
前年、1982年の秋、著名な SF 作家アーサー・C・クラーク(『2001年宇宙の旅』)が、高評されている『E.T.』をロンドンで見て、親しいレイ監督に電話をかけてきた。監督が1960年代半ばに書いた『The Alien』という脚本と『E.T.』との相似に驚いたという。
その脚本は、ほかならぬクラークの仲介で、1967年にレイ監督がハリウッドに持ちこんだものだった。メジャースタジオのひとつ、コロンビア ピクチャーズが関心をもって、一時はピーター・セラーズやスティーブ・マックイーンなど当時のスターのキャスティングも検討されたが、紆余曲折を経たのち結実しなかった。
監督は記事中で、クラークからの電話に始まるこうした顛末を語り、「『E.T.』も『未知との遭遇』も、米国に出まわっていた自分の脚本『The Alien』がなければあり得なかっただろう」とコメントしていた。
さらにチャブラは、以前に読んだマリー・シートンによるレイ監督の評伝『Portrait of a Director: Satyajit Ray』(Indiana University Press, 1971年)の、レイ監督によるエイリアンのスケッチを思いだす。そういわれてみると、『未知との遭遇』に登場する宇宙人の造形に似ている。
この問題を記事としてまとめるには、レイ監督はもちろん、クラークとスピルバーグ監督への取材が不可欠だ。
取材依頼の手紙を出して返信を待っているとき、奇遇なことに、同じコロンビア大学大学院のフィルムスクールに在籍する友人が、『The Alien』の脚本を持っていることを知った。
友人は、前年の夏にボンベイ(現ムンバイ)のマーチャント・アイヴォリー・プロダクション(『眺めのいい部屋』『モーリス』)でインターンをした。その間、プロダクションにあった『The Alien』を借りだして、そのまま返すのを忘れていたのだった。
ベンガルのひなびた村にエイリアンが降りたって、地元の少年と友だちになるというのが、脚本のメインプロット。
チャブラは、エイリアンの指の組成、エイリアンがもつヒーリングや、花の蕾を開かせるパワーなど、『E.T.』との類似点が少なくないことを知り、クラークの指摘は妥当だったのだと感じる。
この間、スピルバーグ監督のオフィスなどに連絡をしてみたもののコメントは取れなかった。他方、スリランカに永住していたクラークには電話インタビューがかなった。「レイ監督に、類似点を指摘する手紙をスピルバーグに書いたらどうかと勧めた」とクラークは言っていた。
肝心のレイ監督には、シートンからカルカッタ(現コルカタ)の自宅の電話番号をおしえてもらう。刻々と迫る締切のプレッシャーもあり、手紙の返信よりも直接のコメントがほしいチャブラは、監督に電話インタビューを願いでて承諾される。
監督によれば、コロンビア ピクチャーズは「(『The Alien』の)脚本を何十部も(dozens and dozens)ほうぼうに配った」という。
その時点ではまだ『E.T.』を見ていなかったが、クラークからの具体的な指摘に、地元カルカッタの弁護士と、剽窃で訴えられるかどうか検討してはいる。しかし「ほどこされた改変を鑑みると、訴えたとしても、こちらの主張を維持することは難しいだろう」と悲観的だった。
創作に携わる者にとっては、何よりもつらいだろうと思えることも口にした。
「おかげで『The Alien』映画化の可能性は潰えてしまった。かりにつくれたところで、(事実とは逆に)スピルバーグ作品の模倣とみなされてしまうだろう」。
ただし、だからといって「復讐してやりたい」という気持ちはないと言い、こうもつけ加えた。「スピルバーグは良い映画をつくってきた良い監督だ」。
チャブラの記事は、ジャーナリズムスクールの「コロンビア・ニュース・サービス」で公開され、複数の新聞に掲載された。
なかでも『ロサンゼルス・タイムズ』は、アカデミー賞レースの最中に、チャブラの記事を元にして3回も続報した。その年(1983年)のアカデミー賞は実質的に、『E.T.』とアッテンボロー監督『ガンジー』〈英・印・米〉の一騎打ちだったが、圧勝したのは後者だった。
こうしたプロセスののち、チャブラは自分の記事はむろん、関連記事をまとめてレイ監督に送った。
だが、返ってきた手紙には怒りと非難がこめられていた。スピルバーグ監督の行ないは倫理に反するものだが、剽窃を告発するチャブラの記事は度を越しており、必要以上にレイ監督をもちあげていると書かれていた。そして金輪際この件を耳にしたくないとも。
当時20代前半、ジャーナリストのたまごとして職責を果たしたと、少なからず自負していたであろうチャブラは、尊敬する監督からの厳しい言葉に衝撃を受ける。38年を経たいまでも、なお忘れられないと書く。
一連の事実関係を時系列で把握するには、『The Hindu』→『Rediff.com』の順で読むとわかりやすい。そのうえで細部の確認に『Travails with the Alien』を参照するとよいだろう。
『The Alien』は、監督が1962年に発表した、もともとベンガル語で書かれた SF 小説『Bonkubabu’s Friend』(ボンクバブの友だち、注1)が下敷きになっている。
掲載媒体は、レイ監督の祖父が興し、一時休刊を経て監督自身が復刊した、ヤングアダルト向け読み物雑誌『ションデシュ』(注2)だ。こう書くと私家版雑誌のようだが、ベンガル社会では昔からだれもが知っている有名な媒体である。
注1 バブは「旦那」とか「紳士」という意のほか「Mr.」の代用にもする。
注2 ションデシュは、第一義にはベンガル社会で好まれる甘い菓子のことだが、情報やニュースの意味もある。
『Travails with the Alien』には、『Bonkubabu’s Friend』のほか、『The Alien』の脚本やトリートメント(プロット)も収録されている。また、SF 小説執筆の前段として、SF というジャンルへの興味を、自分がいかに養ったかというエッセイも入っている。日本の SF 小説ファンにも共感するところが多いだろうと思える内容だ。
本ブログではこれまで、レイ監督の探偵小説シリーズや、それらの映画化などに触れつつ、『大地のうた』三部作のみで語られるべき存在ではないとたびたび書いてきた。
ここでまたひとつ、彼の創作の才能とキャパシティが非常に広く豊かであることに読者は気づくと思う。こういう部分が日本ではほとんど紹介されてこなかったから、日本の観客や読者は、ある意味、たいへん損をしてきたと私は考えている。
スティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒット作『E.T.』〈1982〉と『未知との遭遇』〈1977〉が、サタジット・レイ監督が、自身の小説から脚本に起こした『The Alien』の plagiarism(剽窃)ではないかという疑惑を報じた経緯の回顧談である。
そういえば現時点でこの件はどれだけ日本語で伝えられているのだろうと、ざっとサーチしてみたが、ネット上では、ウィキペディア日本版のサタジット・レイ監督の項目が、せいぜいのようである。これは英語版を訳したもので、表面的な経緯しかないから、ウィキペディア日本版の信頼性をあえて措くとしても、さっぱり要領を得ないだろう。
ここにも引用があるが、問題の脚本がレイ監督によってハリウッドに持ちこまれたころ、自分は高校生にすぎなかったと、スピルバーグ監督が疑惑を否定したことは広く知られている。
一方、マーティン・スコセッシ監督の次の発言も、やはり広範に知られている(『Times of India』2010年5月19日付の TNN 電)。
「I have no qualms in admitting that Spielberg's E.T. was influenced by Ray's Alien. Even Sir Richard Attenborough pointed this out to me.」(『E.T.』が『(The) Alien』の影響を受けていることを認めるのに、まったく異存はない。リチャード・アッテンボロー監督でさえ、私にそう言っていた)
この機に、チャブラ記者の『Rediff.com』記事と、ここからリンクされている『The Hindu』2017年11月11日付の記事の要点を、かいつまんで紹介する。
なお、後者の記事は、剽窃か否かを判断するうえで必要な資料をまとめた単行本『Travails with the Alien: The Film That Was Never Made and Other Adventures with Science Fiction』(宇宙人が来て大騒ぎ:未完の映画脚本と SF アドベンチャー集, Harper Collins India, 2018年)にも収録されている。
1983年の春、米国コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール(Columbia University Graduate School of Journalism)の学生だったチャブラは、授業で課された課題として、『E.T.』と『未知との遭遇』の剽窃疑惑を取材しようと思った。
直接のきっかけは、同年2月、インドの主要週刊誌『India Today』が掲載したレイ監督のインタビュー記事を読んだからである。
前年、1982年の秋、著名な SF 作家アーサー・C・クラーク(『2001年宇宙の旅』)が、高評されている『E.T.』をロンドンで見て、親しいレイ監督に電話をかけてきた。監督が1960年代半ばに書いた『The Alien』という脚本と『E.T.』との相似に驚いたという。
その脚本は、ほかならぬクラークの仲介で、1967年にレイ監督がハリウッドに持ちこんだものだった。メジャースタジオのひとつ、コロンビア ピクチャーズが関心をもって、一時はピーター・セラーズやスティーブ・マックイーンなど当時のスターのキャスティングも検討されたが、紆余曲折を経たのち結実しなかった。
監督は記事中で、クラークからの電話に始まるこうした顛末を語り、「『E.T.』も『未知との遭遇』も、米国に出まわっていた自分の脚本『The Alien』がなければあり得なかっただろう」とコメントしていた。
さらにチャブラは、以前に読んだマリー・シートンによるレイ監督の評伝『Portrait of a Director: Satyajit Ray』(Indiana University Press, 1971年)の、レイ監督によるエイリアンのスケッチを思いだす。そういわれてみると、『未知との遭遇』に登場する宇宙人の造形に似ている。
この問題を記事としてまとめるには、レイ監督はもちろん、クラークとスピルバーグ監督への取材が不可欠だ。
取材依頼の手紙を出して返信を待っているとき、奇遇なことに、同じコロンビア大学大学院のフィルムスクールに在籍する友人が、『The Alien』の脚本を持っていることを知った。
友人は、前年の夏にボンベイ(現ムンバイ)のマーチャント・アイヴォリー・プロダクション(『眺めのいい部屋』『モーリス』)でインターンをした。その間、プロダクションにあった『The Alien』を借りだして、そのまま返すのを忘れていたのだった。
ベンガルのひなびた村にエイリアンが降りたって、地元の少年と友だちになるというのが、脚本のメインプロット。
チャブラは、エイリアンの指の組成、エイリアンがもつヒーリングや、花の蕾を開かせるパワーなど、『E.T.』との類似点が少なくないことを知り、クラークの指摘は妥当だったのだと感じる。
この間、スピルバーグ監督のオフィスなどに連絡をしてみたもののコメントは取れなかった。他方、スリランカに永住していたクラークには電話インタビューがかなった。「レイ監督に、類似点を指摘する手紙をスピルバーグに書いたらどうかと勧めた」とクラークは言っていた。
肝心のレイ監督には、シートンからカルカッタ(現コルカタ)の自宅の電話番号をおしえてもらう。刻々と迫る締切のプレッシャーもあり、手紙の返信よりも直接のコメントがほしいチャブラは、監督に電話インタビューを願いでて承諾される。
監督によれば、コロンビア ピクチャーズは「(『The Alien』の)脚本を何十部も(dozens and dozens)ほうぼうに配った」という。
その時点ではまだ『E.T.』を見ていなかったが、クラークからの具体的な指摘に、地元カルカッタの弁護士と、剽窃で訴えられるかどうか検討してはいる。しかし「ほどこされた改変を鑑みると、訴えたとしても、こちらの主張を維持することは難しいだろう」と悲観的だった。
創作に携わる者にとっては、何よりもつらいだろうと思えることも口にした。
「おかげで『The Alien』映画化の可能性は潰えてしまった。かりにつくれたところで、(事実とは逆に)スピルバーグ作品の模倣とみなされてしまうだろう」。
ただし、だからといって「復讐してやりたい」という気持ちはないと言い、こうもつけ加えた。「スピルバーグは良い映画をつくってきた良い監督だ」。
チャブラの記事は、ジャーナリズムスクールの「コロンビア・ニュース・サービス」で公開され、複数の新聞に掲載された。
なかでも『ロサンゼルス・タイムズ』は、アカデミー賞レースの最中に、チャブラの記事を元にして3回も続報した。その年(1983年)のアカデミー賞は実質的に、『E.T.』とアッテンボロー監督『ガンジー』〈英・印・米〉の一騎打ちだったが、圧勝したのは後者だった。
こうしたプロセスののち、チャブラは自分の記事はむろん、関連記事をまとめてレイ監督に送った。
だが、返ってきた手紙には怒りと非難がこめられていた。スピルバーグ監督の行ないは倫理に反するものだが、剽窃を告発するチャブラの記事は度を越しており、必要以上にレイ監督をもちあげていると書かれていた。そして金輪際この件を耳にしたくないとも。
当時20代前半、ジャーナリストのたまごとして職責を果たしたと、少なからず自負していたであろうチャブラは、尊敬する監督からの厳しい言葉に衝撃を受ける。38年を経たいまでも、なお忘れられないと書く。
一連の事実関係を時系列で把握するには、『The Hindu』→『Rediff.com』の順で読むとわかりやすい。そのうえで細部の確認に『Travails with the Alien』を参照するとよいだろう。
『The Alien』は、監督が1962年に発表した、もともとベンガル語で書かれた SF 小説『Bonkubabu’s Friend』(ボンクバブの友だち、注1)が下敷きになっている。
掲載媒体は、レイ監督の祖父が興し、一時休刊を経て監督自身が復刊した、ヤングアダルト向け読み物雑誌『ションデシュ』(注2)だ。こう書くと私家版雑誌のようだが、ベンガル社会では昔からだれもが知っている有名な媒体である。
注1 バブは「旦那」とか「紳士」という意のほか「Mr.」の代用にもする。
注2 ションデシュは、第一義にはベンガル社会で好まれる甘い菓子のことだが、情報やニュースの意味もある。
『Travails with the Alien』には、『Bonkubabu’s Friend』のほか、『The Alien』の脚本やトリートメント(プロット)も収録されている。また、SF 小説執筆の前段として、SF というジャンルへの興味を、自分がいかに養ったかというエッセイも入っている。日本の SF 小説ファンにも共感するところが多いだろうと思える内容だ。
本ブログではこれまで、レイ監督の探偵小説シリーズや、それらの映画化などに触れつつ、『大地のうた』三部作のみで語られるべき存在ではないとたびたび書いてきた。
ここでまたひとつ、彼の創作の才能とキャパシティが非常に広く豊かであることに読者は気づくと思う。こういう部分が日本ではほとんど紹介されてこなかったから、日本の観客や読者は、ある意味、たいへん損をしてきたと私は考えている。