インド映画に挿入される歌と踊り、ていねいに表現すれば「ソング and/or ダンス シークエンス」。それが、高評価ヒット中の『ダンガル きっと、つよくなる』にはない。観客の反応を見ると、「良い」か「物足りない/良くない」かの正反対に分かれている。
ひるがえってみれば、「インド映画の主流は、歌と踊りのミュージカル」と説明されることが、ボリウッドの定型フォーミュラが緩んで久しいこんにちでもなお少なくない。しかし、それは妥当だろうか。
かつて、CS放送のテレビ番組「痛快!おんな組」(CS朝日)にレギュラー出演していた。「境分万純のシネマの視点」という新作映画紹介コーナーの担当だったが、メインを占める毎回のテーマ討論にも参加していた。
そのテーマ討論のなかで、やはりレギュラー出演者だった中山千夏さんから「宝塚(歌劇)が好きな人ってインド映画も好きなのよね」と言われたことがある。テーマに直接関係がないため、そのままにしたのだが、私のなかでは「そうだろうか?」という疑問が渦巻いた。
日本のインド映画ファンのネット掲示板などをモニターしていたが、その印象からしても、また別の理由からも、両者は乖離しているように感じていたからだ。「インド映画ファンの多くは、レヴュー(revue)やミュージカルをほとんど見たことがないようだ」というのが総体的な認識だった。もっとも中山さんの言には「傍目にはそう見えるのかもしれないなあ」と思ってはいた。
東京都内で好きな街と聞かれれば、私にとってはだんぜん、日比谷・有楽町から銀座にかけての一帯である。理由は子どものころにある。東京宝塚劇場の界隈だからだ。
小学校6年ごろ、オフィスが隣の帝国ホテル内にあった父にせがんでチケットを取ってもらい、宝塚歌劇を初めてライブで見た(注1)。それ以来、時間的融通がきく大学時代までは、とりわけ熱心に通った。本拠地・宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)に初遠征したのは大学に入ってから。1982年、大地真央トップ披露の月組公演『舞踊ファンタジー 愛限りなく』と『ミュージカル・ロマン 情熱のバルセロナ』を泊りがけで2回は見た。
※注1 1976年、雪組『昭和49年度芸術祭受賞記念 宝塚グランドロマン ベルサイユのばら ~アンドレとオスカル~』の東京公演。本記事で言及する宝塚歌劇の記憶は、70年代半ばから90年ごろまでに基づく。具体的には、月組トップスターだった剣幸のサヨナラ公演『江戸切絵 川霧の橋』および『ミュージカル・レビュー ル・ポアゾン 愛の媚薬』あたりまで。
〔参考文献〕
境分万純:歌曲はときに歌い手を選ぶ 圧巻の「奇跡」
『剣幸恋文コンサート2011 kohibumi concert in MUSICASA』
『週刊金曜日』2011年7月8日号(854号)
たまには映画も見ることは見たけれども(日本最大級のスクリーンをもっていた超満員の日本劇場で『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』を78年の夏休みに見たのはよく覚えている。幕開きの、帝国軍の主力艦スター・デストロイヤーの巨大さが驚異だった)、つつましい小遣いを最優先するのは宝塚だった。
なにしろ演劇は「なまもの」である。そのときに見るしかない。映画のように、ロードショーを逃してもテレビ放映や名画座があるだろうというわけにはいかない。そもそも、なまみの人間が目の前で演じる迫力は、ほかに代えがたく、劇場に行かなければ味わいにくいものである。
大学に入ると、やはり未婚女性のみの劇団である松竹歌劇団(SKD、注2)、劇団四季、60年代アングラ演劇の匂いを残す転位・21から、より商業テイストのオンシアター自由劇場、ブームが到来していた小劇場系劇団(夢の遊眠社、劇団3〇〇、第三舞台、第三エロチカ、劇団青い鳥など)まで、さまざまな舞台を追いかけていた。
こうしてみると、宝塚・SKD・劇団四季は当然として、他劇団もほとんどが、なんらかに「歌と踊り」を採りいれていたことを思いだす。
※注2 20世紀初めに創立した「3大少女歌劇」のひとつが前身。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団、1914年)、大阪松竹少女歌劇団(現・OSK日本歌劇団、1922年)についで、松竹少女歌劇団として1928年に誕生した。96年に解散。前後して、トップスターだった千羽ちどりほかOG4人が STAS(スタス)というレヴューグループを92年に結成、自主公演やディナーショーなどで活動している。
なお、OSK日本歌劇団にも以前から強い関心をもっているが、タイミングが合わず、舞台そのものを鑑賞したことは残念ながらまだない。だが、動画サイトで見るかぎり、選曲・振付・衣裳ほかステージ全体から受ける印象が、やはり松竹系レヴューだと思う。
その80年代前半は、『フェーム』(1980)『フラッシュダンス』(1983)『ステイン・アライブ』(1983)『コーラスライン』(1985)など、パフォーミングアーツ系バックステージ物のハリウッド映画が、さかんに公開された時期でもある。
あわせて、カルチャースクールなどにはジャスダンスのクラスが急増し、趣味で通う女性も同世代には多かった。やりたいことをたくさんかかえていた私には、そこまでの時間的余裕はなかったが、一般教養課程の体育の単位には嬉々として「ダンス」を選んだ。モダンダンスの実技だった。こういう選択肢の多さが、早稲田大学のようなマンモス大学の長所ではある。
自由放任を絵に描いたようなキャンパスでは、雨後の筍のように、しょっちゅう新しいサークルが立ち上がり、仲間募集のビラや立て看などが所狭しと置かれる。そのなかにはもちろん演劇サークルもあり、都内各所にあった安価な貸ホールをレンタルしては、チラシを撒いたりビラを貼ったり『ぴあ』に告知したりして、いっぱしの上演を行なうというのが一般的だった。
私も友人の誘いを通じて、そうしたサークル劇団に参加し、「舞台で役柄を演じてみたい」という好奇心を何度か満足させている。早稲田にこだわらず、慶應大学・明治大学・二松学舎大学など、インターカレッジに仲間を集めて、つかこうへいや清水邦夫の作品を上演した。ささやかなチケット収入は、ほとんどを貸ホール利用料の支払いに当て、残りは終演後の打ちあげの補助にしたのではなかったか。
渋谷の公園通りにあるバレエ用品の老舗チャコットにも、時代の熱気のようなものが反映され、新商品が次つぎに入っていた。稽古着のレオタードやレッグウォーマー、バレエシューズを買いたしに行って、あれこれ物色するのも楽しみのひとつだった。
ついでに、私は法学部だったが、第一文学部の演劇専攻に親しい観劇仲間がいて、彼女が選択していた大笹吉雄教授(著名な演劇評論家)「現代演劇」のモグリ受講にいそしんだりもした。また4年次には、学生課に来ていた新卒向け求人票に劇団四季の演出部員募集を見つけて応募したが、2次試験であえなく終わっている。
ひるがえってみれば、「インド映画の主流は、歌と踊りのミュージカル」と説明されることが、ボリウッドの定型フォーミュラが緩んで久しいこんにちでもなお少なくない。しかし、それは妥当だろうか。
かつて、CS放送のテレビ番組「痛快!おんな組」(CS朝日)にレギュラー出演していた。「境分万純のシネマの視点」という新作映画紹介コーナーの担当だったが、メインを占める毎回のテーマ討論にも参加していた。
そのテーマ討論のなかで、やはりレギュラー出演者だった中山千夏さんから「宝塚(歌劇)が好きな人ってインド映画も好きなのよね」と言われたことがある。テーマに直接関係がないため、そのままにしたのだが、私のなかでは「そうだろうか?」という疑問が渦巻いた。
日本のインド映画ファンのネット掲示板などをモニターしていたが、その印象からしても、また別の理由からも、両者は乖離しているように感じていたからだ。「インド映画ファンの多くは、レヴュー(revue)やミュージカルをほとんど見たことがないようだ」というのが総体的な認識だった。もっとも中山さんの言には「傍目にはそう見えるのかもしれないなあ」と思ってはいた。
東京都内で好きな街と聞かれれば、私にとってはだんぜん、日比谷・有楽町から銀座にかけての一帯である。理由は子どものころにある。東京宝塚劇場の界隈だからだ。
小学校6年ごろ、オフィスが隣の帝国ホテル内にあった父にせがんでチケットを取ってもらい、宝塚歌劇を初めてライブで見た(注1)。それ以来、時間的融通がきく大学時代までは、とりわけ熱心に通った。本拠地・宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)に初遠征したのは大学に入ってから。1982年、大地真央トップ披露の月組公演『舞踊ファンタジー 愛限りなく』と『ミュージカル・ロマン 情熱のバルセロナ』を泊りがけで2回は見た。
※注1 1976年、雪組『昭和49年度芸術祭受賞記念 宝塚グランドロマン ベルサイユのばら ~アンドレとオスカル~』の東京公演。本記事で言及する宝塚歌劇の記憶は、70年代半ばから90年ごろまでに基づく。具体的には、月組トップスターだった剣幸のサヨナラ公演『江戸切絵 川霧の橋』および『ミュージカル・レビュー ル・ポアゾン 愛の媚薬』あたりまで。
〔参考文献〕
境分万純:歌曲はときに歌い手を選ぶ 圧巻の「奇跡」
『剣幸恋文コンサート2011 kohibumi concert in MUSICASA』
『週刊金曜日』2011年7月8日号(854号)
たまには映画も見ることは見たけれども(日本最大級のスクリーンをもっていた超満員の日本劇場で『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』を78年の夏休みに見たのはよく覚えている。幕開きの、帝国軍の主力艦スター・デストロイヤーの巨大さが驚異だった)、つつましい小遣いを最優先するのは宝塚だった。
なにしろ演劇は「なまもの」である。そのときに見るしかない。映画のように、ロードショーを逃してもテレビ放映や名画座があるだろうというわけにはいかない。そもそも、なまみの人間が目の前で演じる迫力は、ほかに代えがたく、劇場に行かなければ味わいにくいものである。
大学に入ると、やはり未婚女性のみの劇団である松竹歌劇団(SKD、注2)、劇団四季、60年代アングラ演劇の匂いを残す転位・21から、より商業テイストのオンシアター自由劇場、ブームが到来していた小劇場系劇団(夢の遊眠社、劇団3〇〇、第三舞台、第三エロチカ、劇団青い鳥など)まで、さまざまな舞台を追いかけていた。
こうしてみると、宝塚・SKD・劇団四季は当然として、他劇団もほとんどが、なんらかに「歌と踊り」を採りいれていたことを思いだす。
※注2 20世紀初めに創立した「3大少女歌劇」のひとつが前身。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団、1914年)、大阪松竹少女歌劇団(現・OSK日本歌劇団、1922年)についで、松竹少女歌劇団として1928年に誕生した。96年に解散。前後して、トップスターだった千羽ちどりほかOG4人が STAS(スタス)というレヴューグループを92年に結成、自主公演やディナーショーなどで活動している。
なお、OSK日本歌劇団にも以前から強い関心をもっているが、タイミングが合わず、舞台そのものを鑑賞したことは残念ながらまだない。だが、動画サイトで見るかぎり、選曲・振付・衣裳ほかステージ全体から受ける印象が、やはり松竹系レヴューだと思う。
その80年代前半は、『フェーム』(1980)『フラッシュダンス』(1983)『ステイン・アライブ』(1983)『コーラスライン』(1985)など、パフォーミングアーツ系バックステージ物のハリウッド映画が、さかんに公開された時期でもある。
あわせて、カルチャースクールなどにはジャスダンスのクラスが急増し、趣味で通う女性も同世代には多かった。やりたいことをたくさんかかえていた私には、そこまでの時間的余裕はなかったが、一般教養課程の体育の単位には嬉々として「ダンス」を選んだ。モダンダンスの実技だった。こういう選択肢の多さが、早稲田大学のようなマンモス大学の長所ではある。
自由放任を絵に描いたようなキャンパスでは、雨後の筍のように、しょっちゅう新しいサークルが立ち上がり、仲間募集のビラや立て看などが所狭しと置かれる。そのなかにはもちろん演劇サークルもあり、都内各所にあった安価な貸ホールをレンタルしては、チラシを撒いたりビラを貼ったり『ぴあ』に告知したりして、いっぱしの上演を行なうというのが一般的だった。
私も友人の誘いを通じて、そうしたサークル劇団に参加し、「舞台で役柄を演じてみたい」という好奇心を何度か満足させている。早稲田にこだわらず、慶應大学・明治大学・二松学舎大学など、インターカレッジに仲間を集めて、つかこうへいや清水邦夫の作品を上演した。ささやかなチケット収入は、ほとんどを貸ホール利用料の支払いに当て、残りは終演後の打ちあげの補助にしたのではなかったか。
渋谷の公園通りにあるバレエ用品の老舗チャコットにも、時代の熱気のようなものが反映され、新商品が次つぎに入っていた。稽古着のレオタードやレッグウォーマー、バレエシューズを買いたしに行って、あれこれ物色するのも楽しみのひとつだった。
ついでに、私は法学部だったが、第一文学部の演劇専攻に親しい観劇仲間がいて、彼女が選択していた大笹吉雄教授(著名な演劇評論家)「現代演劇」のモグリ受講にいそしんだりもした。また4年次には、学生課に来ていた新卒向け求人票に劇団四季の演出部員募集を見つけて応募したが、2次試験であえなく終わっている。