さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

清水次郎長の船宿 末廣

2018年03月09日 | 関東甲信越



清水の次郎長が持っていた船宿が残っております。今や観光名所のひとつです。



貫禄のあるおっそろしい顔をした次郎長親分。この施設では次郎長の伝記がビデオに
なっていて、それを見ることができます。

小さい頃からひどく乱暴者で、15歳のときに家の金、450両あまりの大金を盗み出して
家出。すぐに100両を庭に埋めて逃げる。捕まって残りの金は取り返され、追い出される。
どうやら捕まることを予想して、100両は保険にしたようです。

その100両で米相場に手を出し、大金を稼いで帰ってくる。もちろん100両は返して謝った。
それから家業を継いで働き始めるわけだが、博打は打つ、喧嘩はひっきりなしで、人を殺して
逃げたり仕返しをしたり投獄されたり、まあずっとやくざ者の人生を送るわけです。



人生の大きな転機を迎えたのが明治に入ったとき。江戸幕府が消滅して日本中が混乱した
とき、なんとやくざ者とはいえ大きな勢力と人望を持つ次郎長が、政府から街道警護、治安に
あたるよう命じられたのである。アウトローが公安に変身!
驚くことに、徳川慶喜の警護役もやったんだよ!!!チンピラやくざが!!!!!



清水港を仕切っていた次郎長は、蒸気船で横浜港と定期航路を開くことに尽力。静岡茶を
売り出す事業を拡げ、さらにこれからの若者は英語を学ばないといけないと塾を開く。
そのようすがここの2階で、上の画像のように再現されているのです。

乱暴者で今でいう犯罪者でしたが、かっこよくって人情に篤く、政治・経済、さらには
日本の将来に対してグローバルな視野を持っていた、次郎長大親分なのでした。



さて次は次郎長親分の遺品などが展示されているというお寺に向かいます。



「旧」をつけたくなるような商店街を通りました。この先に次郎長の生家があるのです。



その名も「次郎長通り」。シャッター街となりつつあり、親分も泣いてねーか・・・?



靴屋さんは営業中でした。がんばってクレ。。。



生家の前を通りました。残念ながら、この日は休館日で中に入ることはできませんでした。



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