さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

北鎮記念館 第七師団の歴史

2021年04月08日 | 北海道シリーズ


アイヌ記念館から北鎮記念館に向かいます。1時間に1本のバスで旭川駅に戻るのも
大変なので、街の郊外を1時間ほど歩いて行くことにした。しかし、途中はこのように
雪道で、思わず苦労するw こりゃ計算外。


しかし天気はいいし、歩いていればいつかは到着^^ こちらは自衛隊の施設で、
元武器庫を資料館にしたそうです。こういうところは無料なのである。


蝦夷地には、明治の廃藩置県で仕事を失った士族がワンサカ「入植」しました。また
どこの帝国主義時代の国もそうですが、一旗揚げようと植民地に向かった荒くれどもも
大挙して押し寄せたのです。その多くは農民と屯田兵になりました。

明治8年からの25年間で、約4万人の兵隊とその家族が「入植」しました。カッコに
入れてるのは、それはアイヌから見れば「侵略」に他ならないことを、さきほどアイヌ
記念館で見てきたからです。そりゃあ原住民を蹴散らして住み着くわけですから、軍隊が
必要です。屯田兵はやがて「第七師団」となり、北海道のほぼ中央に位置するここ旭川が
その拠点となったわけです。


入り口では係員の方に丁寧にお迎えされ、「説明を希望する場合には、1時間ほどかかり
ます」と言われて、お願いすると軍服を着た案内係の人が出てきて、俺ひとりのために
ガイドをしてくれました。これまたすごく丁寧な方でした。

左の地図は、入植当時のもの。まあかなり不正確。しかし伊能忠敬(千葉県佐原だった
なあ~。そして門前仲町を出発していたなあ~)らの正確な測量で、右のような立派な
地図ができたのです。


初期の屯田兵。さぞやアイヌはひどい目のあったろう。。。


案内係の丁寧な説明があり、「どうぞ写真をお撮りください」とか促される。
これは屯田兵の宿舎。寒いし、さぞかし大変だったでしょう。


「見て下さい、これは樹齢300年!こんなのを斧を使って手作業で切り倒していたのです。
開拓と防衛なんです!」と熱く語る。乗り込んでいくのが「防衛」なのかな。。。

「大変な偉業だ」とおっしゃるわけですが、心の中でいろいろ考える。
「樹齢300年の木を切っちゃいかんなあ。原住民はさぞかしくやしい思いをしたろうに。
自然と共生していたアイヌを追い出し、土地を切り開いて入植したのを開拓と言うんだなあ。
それは見方を変えれば侵略なんだけど。しかし命をかけて大変な努力をした人たちを簡単に
否定はできません。だって和人が行かなければ、いずれはロシアが南下してきて、おそらくは
ロシア帝国に吸収されていただろう。アイヌにとっては、どちらがましか、という問題で、
どちらにせよ少数民族は大国に飲み込まれる運命にあったわけだから。ウラジオストクの
アルセーニエフの資料を見たら、ロシアの開拓使は原住民と仲良く一緒に写真に写って
いたが、先ほどのカネトはどうだったんだろう」などなどと思いを馳せる。

私は軍隊が好きではないのです。しかし、完全非武装だったらロシアは北海道どころか
本州にまで南下してきたかもしれません。だから「命をかけて国民を守る」という立派な
志を持って働く人たちを否定はしないのです。しかし同時に、アイヌを蹴散らしてその
生きる権利を奪ったのも忘れてはならないと思うのです。


見て下さい、すごい編成が組まれたのです。


西洋風の近代化された軍隊が急速に作られていきました。左下の鍋を逆さにしたような
やつ、帽子のケースだそうです。「ボウシがつぶれるのをボウシするためのものです」
なんて軍人らしいシャレが飛ぶ。おそらく毎回ここでそれを言っているんだろうなあ、
と思い、笑いを絞り出そうとする努力は実を結ばなかった。


「どうぞ写真をお撮りください」とふたたび促される。軍事パレードなんかもそうですが、
軍人は兵器を誇りに思っています。「命」だったりするわけです。でもアイヌの歴史を
見てきた直後なので、「これは誰に何をするものなのか」と思わないではいられませんでした。


ちょんまげに刀だった武士が急速に西洋化して、殺傷能力が飛躍的に伸びたわけです。


こんなんじゃ弓を使う原住民はあっという間にやられるわけだ。アメリカ大陸や
オーストラリアでも、同じようなことがあったわけです。


「赤紙」も展示されていました。戦闘員の侍がいなくなり、戦争には一般市民も
駆り出される時代になったのです。係員が「これを渡されるとき、おめでとうございます
と言われたんですよ」と説明する。んで出征するときには、村人がみんな集まって
バンザーイ!とやるわけだ。ちなみに悲し過ぎて写真には撮りませんでしたけれど、
田舎の駅で村人が総出で戦死した軍人の遺骨を迎えに集まり、中央に初老の母親が遺骨を
抱えている集合写真もありました。私は心の底から戦争は嫌だ、と思います。


私、職場でこういう集合写真を撮ったことがあります。集合がかかってから1時間くらい
かかったりするのです。うんざりするので、どこか建物の裏に隠れて一服していたい
気になります。考えてみれば、子供の頃から朝礼だの生徒会だのナントカ式だのが
大嫌いで、とにかくサボりました。酒場では何時間でもダラダラ飲んでいるけどなあ。
そんな奴なので軍隊は絶対に勤まらないでしょう。


第七師団が満州に侵攻し、ノモンハンでロシアと闘ったときのジオラマがありました。
相手は戦車隊。棒の先にガソリンの入った瓶を持って走っていく奴がいるでしょう。
あれで戦ったんですよ。立派な玉砕っつーの?こんなことやらされるのに、「おめで
とうございます」って言われて駆り出されて、「バンザイ」って言われるんだぞ。
母親とか妹とか、恋人に対してどう思うかね。相手にも同じようにいるんだぞ。


その瓶が展示されていました。「行けっ!」と言う老人から行ってほしいものです。


一階には、東日本大震災で救助に活躍した自衛隊の様子が展示されていました。
日頃から鍛え上げられた隊員が、統一された命令系統に従って危険をものともせずに
活動したからこそできたわけで、私のような人間には頭を下げるほかはありません。



コメントを投稿