「ブーム」というしかない、神楽坂の繁盛ぶり。
「昔の神楽坂は」というお話などもよく出てきます。
こちらは江戸名所図会
さてさて、そんな中「神楽坂は関東大震災で被害を受けなかったのでますます栄え、現在の礎が築かれた」という話を聞きました。
これ、本当だろうか?
確かに、震災で銀座のお店などが神楽坂に進出してきたようです。
その境を取り外したのは関東大震災であった。火災をまのがれたこともあって下町で焼け出された老舗がわれ先にと競争で仮店舗を出店した。肴町には三越まで現れた。
それまでも神楽坂は山の手随一の盛場として知られていた。焼け残ったということで、東京中のすべての人がここに押し寄せるという感があり、盛場としても、商業地としても東京の一大中心地としてのしあがることになった。神楽坂が一番華やか時代であったのである。
通寺町に銀座で焼けたプランタンが店を出したのもこの時である。新潮社が近いせいか久米正雄、広津和郎、宇野浩二、佐々木茂策、間宮茂輔らも溜りになっていたという。
-「西村和夫の神楽坂」より
なるほど、三越まであったんですね。ちなみに、ものの本によれば、白木屋(現在の東急百貨店)や松屋もあったようです(これは、東急百貨店のwikiにも出ていた)
ただ、その後は、というと、長くは続かなかったようです。
ちなみに、先ほどの文章の続きはこうなっています。
本格的なカフェが牛込にきたと喜んだのは束の間で2年程で消えた。
この頃の様子は、昭和6(1931)年の「日本歓楽郷案内 図書 (談奇群書 ; 第4編) 」に描かれています。
題して「寂びれ行く神楽坂」。
「神楽坂と云へば、新宿が今日の地位を得るまではダンゼン山の手第一の繁華な街であった」とはじめつつ、後段では「人通りの多い割に昨今の神楽坂には溌剌たる色彩がない」とか「田原屋にも、往時の頻繁な客足はなくなったし」などと容赦ないお言葉。
また、大宅壮一も昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いています。
東京商工会議所が昭和11(1936)年に出した「昭和東京市内商店街ニ関スル調査」では商店街の調査が行われていますが、顧客は「付近ノ勤人学生階級並ビニ背後ノの花柳街生活者多シ」とありますから、観光地というより地元のための商店街、だったわけですね。
(まあ、つい最近まではそうでしたよね)
「西村和夫の神楽坂」でも、こう書いてありますり
その後、三越も姿を消すと同時に山の手銀座の呼称も町の賑わいも徐々に新宿に移ることになる。関東大震災後、私鉄のタミナル駅、新宿、渋谷が丸ノ内、銀座に並んで目覚ましい発展をとげ、副都心へおどりでからである。
しかし、そんな神楽坂が再び復活!です。皆さんの努力に敬意!!
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正社員登用もあり。男女問いません。詳細は03-3260-4211(担当:林)まで。
「昔の神楽坂は」というお話などもよく出てきます。
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これ、本当だろうか?
確かに、震災で銀座のお店などが神楽坂に進出してきたようです。
その境を取り外したのは関東大震災であった。火災をまのがれたこともあって下町で焼け出された老舗がわれ先にと競争で仮店舗を出店した。肴町には三越まで現れた。
それまでも神楽坂は山の手随一の盛場として知られていた。焼け残ったということで、東京中のすべての人がここに押し寄せるという感があり、盛場としても、商業地としても東京の一大中心地としてのしあがることになった。神楽坂が一番華やか時代であったのである。
通寺町に銀座で焼けたプランタンが店を出したのもこの時である。新潮社が近いせいか久米正雄、広津和郎、宇野浩二、佐々木茂策、間宮茂輔らも溜りになっていたという。
-「西村和夫の神楽坂」より
なるほど、三越まであったんですね。ちなみに、ものの本によれば、白木屋(現在の東急百貨店)や松屋もあったようです(これは、東急百貨店のwikiにも出ていた)
ただ、その後は、というと、長くは続かなかったようです。
ちなみに、先ほどの文章の続きはこうなっています。
本格的なカフェが牛込にきたと喜んだのは束の間で2年程で消えた。
この頃の様子は、昭和6(1931)年の「日本歓楽郷案内 図書 (談奇群書 ; 第4編) 」に描かれています。
題して「寂びれ行く神楽坂」。
「神楽坂と云へば、新宿が今日の地位を得るまではダンゼン山の手第一の繁華な街であった」とはじめつつ、後段では「人通りの多い割に昨今の神楽坂には溌剌たる色彩がない」とか「田原屋にも、往時の頻繁な客足はなくなったし」などと容赦ないお言葉。
また、大宅壮一も昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いています。
東京商工会議所が昭和11(1936)年に出した「昭和東京市内商店街ニ関スル調査」では商店街の調査が行われていますが、顧客は「付近ノ勤人学生階級並ビニ背後ノの花柳街生活者多シ」とありますから、観光地というより地元のための商店街、だったわけですね。
(まあ、つい最近まではそうでしたよね)
「西村和夫の神楽坂」でも、こう書いてありますり
その後、三越も姿を消すと同時に山の手銀座の呼称も町の賑わいも徐々に新宿に移ることになる。関東大震災後、私鉄のタミナル駅、新宿、渋谷が丸ノ内、銀座に並んで目覚ましい発展をとげ、副都心へおどりでからである。
しかし、そんな神楽坂が再び復活!です。皆さんの努力に敬意!!
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