広島の原爆、長崎の原爆というものを知ったのは
おそらく小学校のころだろうと思います。
私は中学の修学旅行に行ったとき広島を訪れたのです。
私は修学旅行前、扁桃腺をはらし熱をだしやっとなおったころ、
すぐ修学旅行だったのです。
私のからだは少し弱っていました。
ナップのなかには薬が入っていました。
岡山まで私たち一行は新幹線で行く日程でした。
新幹線の車中、私は友達とトランプをしたりしました。
すると、キュキュとお腹が痛くなりました。
私は薬を飲んだ。でも、途中からトランプをする気力もなくなって、
ぼんやりと流れる景色を見ていました。
唇は少し白くなり、目はトロンとしていました。
私は気分的にいやになりました。
もし、このまま悪い状態なになったら、
このままどうして帰るのだろう。
どこの病院に入るのだろう。
そんなことを考えていると、元気を出さなければ
大変なことになろうと思い、から元気を出して、
仲間のトランプに戻りました。
そして昼過ぎ広島に着いたのです。
私はつかれていました。食欲もあまりありませんでした。
横川の駅につきバスへ搭乗しました。
私がツバをごくりと飲んではやるせない気持になりました。
そんな私が広島の平和公園につきました。
そして記念館についたそのときの天気はよかったですが、
そんな具合でしたから、必要以上に感じてしまったのか、
私の心の中には広島、そして原爆というものが凍りつきました。
私の心の中の広島、そして原爆というものが凍りつきました。
私の心のなかの広島、原爆というものは、小学校のころ知ったと思います。
担任の先生の話、教壇の教卓の上に先生の手によって掲げられた写真。
そのなかにのみあったのです。
それが今、私の心を凍りづけたのです。
広島の記念館のなかには1945年広島が凍結しているのです。
あの中の瓶、爪、皮膚、すべて、きっと1945年から凍結しているだろう。
「どうしてだ、どうしてだ」
「助けてくれ、助けてくれ」
「僕が何をした」
「私はどうなるんだ」
そう言っている。彼らの心は凍結しています。
そして、このことと対決していこうと、
それをLIFEWORKにしようと考えたら、
気分がよくなりした。
僕は生きているのです。
きっと何かができるのです、
そう思ったら、元気が出てきました。
【本人評】この文章はざっと書きました。今みても間違っている箇所があって直しました。
作品というのは、よく考えたから素晴らしいとは限らないみたいですし、よくわかりません。
話は変わりますが、
宮沢賢治のあの名作、「雨にも負けず」は詩集にはのらず、手帳に書いてあったのですから。
宮沢賢治は、あの文章を見ながら仕事に励んでいたのでしょう。
教条主義とはまったく違います。素晴らしい方です。
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--平和のために--