磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆開発グループの記録 マンハッタン計画

2008年03月29日 | 読書日記など
『マンハッタン計画-原爆開発グループの記録-』
   ステファーヌ・グルーエフ(著)/
     中村誠太郎(訳)/早川書房1967年

第一次大戦後に、すでに「死の商人」と呼ばれていたデュポン社。そのためには、イメージ戦略なども当然考えておられたのではないでしょうか?



フィルターによって、ウラン235をとりだしたようです。下「」引用。

「フィルターの非情に微細な穴をむりやり通すと、かるい方の二三五の分子は重い方の二三八の分子よりも早く通過する、このようにしてフィルター(これを隔離という)の一方の側にある気体の方が隔壁(原註」のもう一方の側の気体よりも二三五の同位元素を含む割合が多くなってゆく。このような操作を数回くりかえし、気体をいくつものつづいて並んでいるフィルターを通すと、結果として軽い方の二三五の同位元素がほとんど完全に分離されるであろう。これが原爆に必要な材料となる。
 原註 英国の科学者は“隔膜”とよんでいる。」

シカゴ大学では数名の女性科学者がいたという。下「」引用。

「一九四二年、シカゴ大学のキャンパスには科学者が集められていた-略-中にはプリマドンナともいうべき数名の女性科学者がまじっていた。」

1942年、デュポンはまだ予定段階の原子炉より生じる未知の物質の科学的分離をすることに調印。
デュポン社のチルトンは、ワシントンのニコルズの事務所へ。まだ発見もされていない物質なので辞めるという。下「」引用。

「グルーヴス将軍はデュポンをこの比較的制限された仕事から解任する意図はなかったばかりか、その時まで彼は真剣にデュポン社を大規模に捲き込もうと考えていたのである。」

--チャールズ・M・A・スタインはデュポン社の主任研究員であり、技術顧問。
ルーテル派の牧師の息子であり、22歳で化学の教授。
2年後、デュポン社へ。36年後の現在はすべての研究の責任を負う副社長。


1930年代、デュポンはすでに「死の商人」と呼ばれていたという。下「」引用。

「デュポン一族が「死の商人」と呼ばれた一九三○年代の軍需品製造業者たちに対する激しい運動を忘れることはできなかった。」

学生反戦ストがあったという。下「」引用。

「ノースダコタの共和党上院議員ジェラルド・P・ナイのもとに設立された上院軍需品調査委員会は、第一次世界大戦後の欧米諸国の多くが拡がった平和主義の大きな波の表現であった。すべて軍事的なものについての幻滅はアメリカでは、とくに進歩的な新聞において劇的に扱われた。不景気により起きた経済困難はこの感情をさらに高めた。二五○○人の若者たちは学生反戦ストをはり、政府を今後の戦争で支持しないことを誓った。」

クライスラー社も参加していた。下「」引用。

「このようにしてクライスラー株式会社は、その莫大な財源と多数の工学関係人材とともに、気体拡散による分裂物質の分離という企てに参加することになったのである。」

そして、税金を無駄にしていたという。下「」引用。

「その翌日、新しいガーフィールド工場での仕事をつづけるためにやってきた数千の技術者や建設業者たちは、それをとりこわすように命ぜられた。「これが国民の税金の行きどころだ!」とある男が吐き捨てるようにいっ。「軍人は自分のやっていることなんか、わかっちゃいないんだ」」

戦争そのものは、無駄どころじゃなく、ひどいものですね。

そして、失敗もあったという。下「」引用。

「ハンフォードB炉の失敗は手痛い失望を与えた。しかも、ひどく不思議なことが起った。九月二十七日の夜になってもまだ操作員たちは、原子炉を生き返らせようと、無駄な努力をしていた。失敗ず水漏れのせいだというのが有力な説であったから、熱いヘリウムガスが、炉を乾かすために送り込まれた。しかし、最初そればかりの水が問題を起すほどとはどうしても思えなかった。だが次の瞬間、突然明らかな理由もなしに、原子炉は再び臨界点に達した。それはさながら、死んだ怪物が突然生き返って、息を吐き出したようであった。」




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