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京都大地震-文政13年の直下型地震に学ぶ-

2011年05月14日 | 読書日記など
『京都大地震-文政13年の直下型地震に学ぶ-』
   三木晴男・著/思文閣出版1979年

口絵「文政13年当時のかわら版 京都大地震



歴史地震。下「」引用。

「京都市域に被害を与えた歴史地震をリストアップしその様相を活字になっている資料から簡潔にとりまとめることを試みた。
 その作業を進めていたところ、本書でとりあげる文政十三年(天保元)年七月二日の地震が豊富な内容の史料に恵まれていて単純に要約できないことが分かった。このことから、歴史地震を従来の地震学者の立場でとりまとめるよりも、この資料を現代の「地震対策」の立場から見直せば、より有益な教訓が得られるのではないかと考えるようになった。-略-」

大阪での被害。下「」引用。

「大阪では被害がなかったことを思わせる史料ばかりであるが、唯ひとつ『浮世の有様』が「芥川・江口等にても小家塀抒ゆり倒れしに近辺なる茨木・高槻等も少しも損ずる事なく」と述べている。江口の里は現在の大阪市東淀川区南江口町なので大阪市域の北辺で多少の被害があったものと思える。」

枚方(大阪)の被害。下「」引用。

「枚方は淀川をはさんで高槻の対岸にある。その上手で堤が所々で裂け崩れ家や蔵も倒れた。」

嵐山と御所。下「」引用。

「嵐山で地割れを生じ、平地は勿論のこと天龍寺の上の山手にも及んだ。-略-
 御所(禁裏)の庭で四寸足らずの地割れを生じた。-略-」

二条城。下「」引用。

「二条城内では土居の崩れが多く、平地でも四、五間の幅で雁行する地割れがあり、本丸堀の際では陥没もできた(関連記事多数)。地割れの幅については移設が多いがそれでも一尺を越えるものはない。陥没の大きさも正確ではないが、深さ一尺足らず直径三尺程の小さな凹みができたものと推定される。-略-」

寛政四年大地震。
--寛政十年六月の祗園祭。下「」引用。

「-略-故無くして薙刀鉾途中より折れぬ。山鉾の多き中にても、此鉾は取分け故有る事にて、是を引き出さゞる内には、余の鉾を引行く事成りがたき事なり。故に人々多くは心にかゝりぬる由なりしが、其年の七月二日申の刻、雷火にて大仏の焼失せしに、今年其年より三十三年に当りて、又祗園祭に其鉾の故もなくして、松原通りを引行く時、途中より折散りしが、七月二日に至り、月日刻限迄も変る事なくして、かゝる大変ある事、これ只事にあらず、大仏の祟れるにや。伊勢の別宮炎上せしも、かゝる前表を知らしめ給ひしにやなどと、種々の風説なり。」


大仏の鐘。下「」引用。

「この大仏の鐘は「国家安康……君臣豊楽」の文字に徳川家康が異議を挟んだことで有名であり、家康にこのアラ探しの知恵をかしたのは儒者林羅山と金地院(南禅寺)の僧崇伝であると言われている。現在の鐘楼は明治十七年に再建されたもので、観光客に五十円で鐘をつかせているが、家康は大仏開眼法要にもその撞き初めを許さず豊臣滅亡後は鐘楼(現在の博物館構内の西北隅にあった)もこわし、鐘は野晒しにされたまま徳川三百の間つかれることがなかった。」


危険物もある現代……。下「」引用。

「いまの構造物は昔より堅牢にできているだろうが、生活上の便宜から危険物も導入されている。
 震災の模様も昔と随分違うであろうし、消火や救援の体制も封建体制下の文政十三年当時とは全く異なる。-略-」

「なぜ火事がなかったのか」 下「」引用。

「消火設備が貧弱で家屋も耐火構造でなかった当時、些細な失火でも厳しい咎を受け、地震当時は奉行所から火の元用心の触れも出ていたので、内密にしたのだろうか。だが人目につく程の火事なら、これほど警戒されていたのだから、第三者によって記録されているはずである。その史料すらないことは、火事がほとんどなかったか、ほとんど完全に初期消火に成功したか、のどちらかを意味する。現代のわれわれが模範とすべき状況にあった。-略-」







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