『カナダ20世紀の歩み』
吉田健正・著/彩流社1999年
カナダの原爆開発協力について書かれてもありました。
帯に書かれあります。下「」引用。
「カナダ首相出版賞受賞
現代カナダの諸相!
北米国家でありながら米国とは異なる発展をとげ、日本とも縁の不快カナダ。イギリス自治領時代から今日まで、政治・経済・社会的変容をわかりやすく述べた概説書。」
--世界恐慌。
「失業救済は自治体の責任」
乞食同然……。下「」引用。
「現金ではなく、商品引換券であった。受給者はほとんど乞食同然に扱われたのである。」
スープキッチン。下「」引用。
「慈善団体や一部の地方自治体はまた、「スープ・キッチン」(写真)で一日二回または一回「食事」を提供した。-略-」
「金持ちに贈物、貧乏人に負担」
「オタワ・デモ行進」
レジャナ「暴動」
「原爆開発」
最初はイギリスから……。下「」引用。
「カナダの参加は、一九四二年六月中旬、英国のマルコム・マクドナルド駐加高等弁務官(大使)と二人の科学者がキングを訪れ、ある場所の取得について問い合わせることに始まる。爆弾製造に特に必要なある鉱物の価格競争を避け、米英政府がこの鉱物の研究を促進できるようにするため、ということであった。」
「マンハッタン計画」に参加。下「」引用。
「米国は一九三九年に核分裂の研究に取りかかり、四○年には英国でも同様の研究を進めていたが、四三年に米英が共同で開発することに合意した。カナダが協力を求められたのは、主として、原料のウランを埋蔵し、精製所ももっていたからである。ドイツからは遠く米国に近い、発電用水力が豊富で、英国と比べて資金的に困っていない、という利点もあった。カナダの参加が決まってから二か月後に、マンハッタン計画が開始された。
原爆開発にかんする米英加の協力は、紆余曲折を経て実現した。一九四一年一○月、ローズヴェルト大統領はチャーチル首相に共同開発を申し出たが、開発の先端を進んでいた英国はそれを断った。しかし翌年秋になると、英国の科学者たちは原子力兵器開発の余裕がなくなり、米国の科学者に支援を要請した。今度は、米側が断った。米国の研究は二か月後にシカゴで核反応に成功するまでに急速に進んでいたからである。英国の研究所で働いたヨーロッパ大陸からの亡命者から、秘密がもれる心配もあった。そこで英国はカナダに協力を求めた。カナダを通じて米国との研究提携の足がかりをつくりたい、との期待があった。主要研究所を爆撃される恐れの少ないカナダに移したいという要請に応じて、カナダ国立化学研究振興会(NRC)がモントリオール大学の未完成の建物を確保し、英加の研究者がそこに移った(カナダにおける研究は「モントリオール・プロジェクト」として知られていた)。」
もくじ
デュポン社の登場。下「」引用。
「しかし、期待の英米提携は実現するどころか、米国は原子力研究の大半を国内でおこなうと告げた。結果を米国の民間企業ドュポン社に提供するという条件で英加の科学者が許されたのは、核反応における重水使用の特定の側面にかんする研究たけであった。英米首脳が核兵器をお互いに対しては使用しない、原子力にかんするいかなる情報ももらさない、そして原子力開発について全面的に協力する、という合意に達したのは、ようやく、四三年八月のケベック会議においてであった。合意にもとづいて米国三人、英国二人、カナダ一人(C・D・ハウ軍需大臣)で構成する合同政策委員会が設立され、四四年四月、モントリオール・グループにウランからプルトニウムを作るための重水炉の製造という任務を与えた。」
カナダ産ではないという……。下「」引用。
「-略-したがって、日本に投下された原爆は、カナダ産ではなく、コンゴ産のウランが原料に使われたと見られる。ただし、エルドラド産の鉱石も濃縮ウランに微量に混じっていた可能性もあるという-略-。」
原爆投下を知っていたキング首相たち。
宣教師の役割……。下「」引用。
「牧師から社会主義者になったイギリスの作家エドワード・カーペンターは、宣教師の役割について、「まず宣教師がでかけ、個々の貿易商が宣教師に続き、国旗が貿易商の後を追い、国家的な貿易が国旗に続く」と皮肉を述べた(一九○○年)そうであるが、カナダと日本の場合も、先陣を切ったのはカナダの宣教師であった。」
もくじ
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吉田健正・著/彩流社1999年
カナダの原爆開発協力について書かれてもありました。
帯に書かれあります。下「」引用。
「カナダ首相出版賞受賞
現代カナダの諸相!
北米国家でありながら米国とは異なる発展をとげ、日本とも縁の不快カナダ。イギリス自治領時代から今日まで、政治・経済・社会的変容をわかりやすく述べた概説書。」
--世界恐慌。
「失業救済は自治体の責任」
乞食同然……。下「」引用。
「現金ではなく、商品引換券であった。受給者はほとんど乞食同然に扱われたのである。」
スープキッチン。下「」引用。
「慈善団体や一部の地方自治体はまた、「スープ・キッチン」(写真)で一日二回または一回「食事」を提供した。-略-」
「金持ちに贈物、貧乏人に負担」
「オタワ・デモ行進」
レジャナ「暴動」
「原爆開発」
最初はイギリスから……。下「」引用。
「カナダの参加は、一九四二年六月中旬、英国のマルコム・マクドナルド駐加高等弁務官(大使)と二人の科学者がキングを訪れ、ある場所の取得について問い合わせることに始まる。爆弾製造に特に必要なある鉱物の価格競争を避け、米英政府がこの鉱物の研究を促進できるようにするため、ということであった。」
「マンハッタン計画」に参加。下「」引用。
「米国は一九三九年に核分裂の研究に取りかかり、四○年には英国でも同様の研究を進めていたが、四三年に米英が共同で開発することに合意した。カナダが協力を求められたのは、主として、原料のウランを埋蔵し、精製所ももっていたからである。ドイツからは遠く米国に近い、発電用水力が豊富で、英国と比べて資金的に困っていない、という利点もあった。カナダの参加が決まってから二か月後に、マンハッタン計画が開始された。
原爆開発にかんする米英加の協力は、紆余曲折を経て実現した。一九四一年一○月、ローズヴェルト大統領はチャーチル首相に共同開発を申し出たが、開発の先端を進んでいた英国はそれを断った。しかし翌年秋になると、英国の科学者たちは原子力兵器開発の余裕がなくなり、米国の科学者に支援を要請した。今度は、米側が断った。米国の研究は二か月後にシカゴで核反応に成功するまでに急速に進んでいたからである。英国の研究所で働いたヨーロッパ大陸からの亡命者から、秘密がもれる心配もあった。そこで英国はカナダに協力を求めた。カナダを通じて米国との研究提携の足がかりをつくりたい、との期待があった。主要研究所を爆撃される恐れの少ないカナダに移したいという要請に応じて、カナダ国立化学研究振興会(NRC)がモントリオール大学の未完成の建物を確保し、英加の研究者がそこに移った(カナダにおける研究は「モントリオール・プロジェクト」として知られていた)。」
もくじ
デュポン社の登場。下「」引用。
「しかし、期待の英米提携は実現するどころか、米国は原子力研究の大半を国内でおこなうと告げた。結果を米国の民間企業ドュポン社に提供するという条件で英加の科学者が許されたのは、核反応における重水使用の特定の側面にかんする研究たけであった。英米首脳が核兵器をお互いに対しては使用しない、原子力にかんするいかなる情報ももらさない、そして原子力開発について全面的に協力する、という合意に達したのは、ようやく、四三年八月のケベック会議においてであった。合意にもとづいて米国三人、英国二人、カナダ一人(C・D・ハウ軍需大臣)で構成する合同政策委員会が設立され、四四年四月、モントリオール・グループにウランからプルトニウムを作るための重水炉の製造という任務を与えた。」
カナダ産ではないという……。下「」引用。
「-略-したがって、日本に投下された原爆は、カナダ産ではなく、コンゴ産のウランが原料に使われたと見られる。ただし、エルドラド産の鉱石も濃縮ウランに微量に混じっていた可能性もあるという-略-。」
原爆投下を知っていたキング首相たち。
宣教師の役割……。下「」引用。
「牧師から社会主義者になったイギリスの作家エドワード・カーペンターは、宣教師の役割について、「まず宣教師がでかけ、個々の貿易商が宣教師に続き、国旗が貿易商の後を追い、国家的な貿易が国旗に続く」と皮肉を述べた(一九○○年)そうであるが、カナダと日本の場合も、先陣を切ったのはカナダの宣教師であった。」
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