磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆被爆60年-私たちの証言-

2008年12月23日 | 読書日記など
『原爆被爆60年-私たちの証言-』
   八王子市原爆被爆者の会(八六九会)・編/
     光陽出版社2005年

「広島と長崎の原爆被爆者47名による60年目の証言を収録。」



「はしがき」に書かれてあります。下「」引用。

「ことし二○○五年は広島・長崎の被爆六○年に当たる年です。
 この被爆六○年の節目にあたり、八王子市当局のあたたかいご支援やご援助を受け、『原爆被爆五十年 私達の被爆体験集』に引き続き、改めて「被爆証言集」を編集・出版することになりました。
 顧みますと、被爆当時は幼児あるいは少年・少女・青年であった私たちも、すでに七○歳前後となり、高齢者となりました。-略-」

戦争で得るものは何もない……。下「」引用。

「六○年を経過した今日、戦争を知らない多くの人々に、また全世界の方々に、原爆の威力や悲劇を知ることを通じて、戦争で得るものは何もないことの理解を深めていただきたいと思います。
 私たち被爆者に残された歳月はそう長くありません。しかし「核兵器の廃絶」が見果てぬ夢として終わるのではなく、確かな現実となることを見届けたい、それが私たち被爆者の叫びであり、執念なのです。  二○○五年五月 八王子市原爆被爆者の会(八六九会)会長」

もし、石油などの資源を得るなどといえば、それは盗人だろうと思う。
--強盗殺人……。

伊良林小学校は救護所となっていたという。下「」引用。

「私が卒業した伊良林小学校が国道沿いにあり、医師や長崎医科大学生が救護班としてテントをはって治療をしていました。国道を歩いている大勢の重傷者が次から次へと、それをたよりにして、やっとたどり着いても薬品もなく、たいした治療ができなくて、その場で水を飲んで倒れ死亡する方々も大勢いました。」

都庁に被爆者手帳を申請したという……。下「」引用。

「父親が「原爆手帳は取っておかなければいかん」と強く勧め、長崎から東京へ書類を送ってきました。母の死のこともあったので、考えなおして平成三年に都庁に書類を出しました。でも、いつまで経っても手帳が来ません。なんと都庁で書類を紛失したということでした。もういいやと思っていたころ長崎へ同窓会のため帰り、私だけが手帳を持っていないことがわかりました。クラスメイトからも「取っとかない駄目だよ」と言われました。まだ被爆を証明してくれる人がいたので再度申請し、五、六年前にやっと原爆手帳が取れました。被爆から半世紀以上も経っていたわけです。今のところ悪い症状はありませんが、両親ともガンで死んでいるのでやはりガンが気にかかります。」

特別養護原爆ホームに姉がいるという人も……。


こんなこともあったという……。下「」引用。

「近くの河原にたくさんの人を重ね、何度も油を注いで火をつけたそうですが、中には、まだ息がある方もあり「ギャー」と叫ぶ最後の声を聞いた、との話などは子供心にも強烈でした。」

20分前に訓練をしていたという。下「」引用。

「その日は朝からとても暑い日だった。私たちは補修授業を三○人ぐらいで受けていた(その時私たちは一四歳でした)。原爆の落ちる二○分ぐらい前に先生の「爆弾投下」の声が皆が机の下に潜る練習をしていた。八月九日午後一一時二分物凄い光と同時に物凄い爆風が我が二階建ての木造校舎の窓ガラスを木端微塵に砕いた。-略-」

マスコミ非難……。下「」引用。

「国民の多くは、この戦争を支持しました。それはマスコミの情報から真実を知りえなかったことにも、大きく左右された、と言って良いと思います。日本国家、権力軍部が、一五年間も国民をだまし続けて、自分たちさえ良ければ、他のことや、全体の繁栄を考えようとしない、利己主義的な、人生態度を知って私は本当に怒りをおぼえました。-略-」

小泉純一郎の時も、マスコミはひどかった……。
現在のような深刻な問題になるだろうと指摘する人たちはいたのだろうか?

森永さんなどは、専門の経済部門で、独自の主張をされていたと思います……。

その他は、イケイケ……。
まわりはヤレヤレ……ですね……。







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