『新日本新書=374 障害者と戦争-手記・証言集-』
清水寛・編著/新日本出版社1987年
戦中のことだけとは限りません。
足でタイプをうって、反戦をしている人もおられます。
差別用語がありますが、当時のことを表現するためにそのままにしておきます。
■目 次■
はじめに--戦争と障害者 清水寛 5
聴覚障害の身で被爆して 堀登喜雄 14
ある弱視者の戦中戦後 西岡恒也 29
私の八・一五と障害者運動 安部和二郎 43
肢体不自由のわが子と生きて 森種子 63
よみがええった海辺の教育
--もう戦争は許せない-- 上杉文代 79
沖縄戦と私のあゆみ 伊波園子 97
わが俳句を証として
--戦後生れの戦争体験-- 坂田正晴 119
子どもたちに戦争から何を学ばせるか
--総合学習「満蒙開拓から障害児教育へ」
の実践をめぐって--
程塚秀雄、他 138
平和はぼくらのねがい
--与謝の海養護学校の「平和学習」のとりくみ--
吉野豊、他 158
あとがきに代えて 189
精神医療史……。下「」引用。
「「我邦何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、我邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ネルモノト言フベシ」。
戦前における日本の精神障害者の生存と人権の実状を鋭くつく、痛憤に満ちたことの言葉を残したのは、明治期から大正期にかけて、「精神病者私宅監置」等の悲惨な実態をつぶさに調べ、精神科医療制度などの改革にも力を尽した精神医学者・呉秀三(一八六五~一九三二年)である。呉は、十五年戦争の始まる「満州事変」(一九三一=昭和六年)の翌年に亡くなった。
この“二重の不幸”の最も極まったのが、戦争と軍国主義の“暗い谷間”の時代である。戦争遂行に役立つたたかぬかで人間の全てが篩(ふるい)にかけられ、障害者の多くは「非国民」とみなされ、生きていく価値さえ否定されがちであった。それは、国民全体にとっての不幸にほかならなかったが、とりわけ障害者・病人・老人などにその不幸が集中・集積したものと言うべきである。」
障害者年ということで、この本もつくられたようだ。下「」引用。
「今年は、先に紹介したような基本的理念・目的をもつ国際障害者の中間年である。本書が、「国際障害者の十年」の後半期に向けて運動が一層高まっていくための一つの力となれば望外の喜びである。」
「聴覚障害の身で被爆して」堀登喜雄・著。下「」引用。
「私は一九二五年(大正十四)九月に生まれました。そして昭和七年(一九三二)一月、満六歳三ケ月の時、風邪をこじらせて中耳炎になり両耳の聴力を失いました。
失聴後は、あの十五年戦争とともにに歩んだことになります。その年の四月、学齢であったのでいちおう小学校に入学しました。しかし学校では先生の言うことが全くわからず、また他の生徒にいじめられてもかばってくれるのではなく私を叱るという具合で、すっかり学校ぎらいになり、一ケ月位でやめてしまいました。
その後は、ろう学校の存在を知らないまま遊んでいましたが、十歳のとき広島にろう学校があることを知り、山口県に居住していたのを父と継母(実母は二歳の時死亡)と三人で広島市に移り、ろう学校に入学しました。夏休みになって父が倒れ生活ができなくなったので、-略-ろう学校は結局一学期だけでやめることになりました。-略-」
index
上の著者は木工所勤務となる。下「」引用。
「七月、皇族で朝香宮という軍人が工場の前を通行するとの通知があり、「お前はツンボでなにもわからんから仕事をしなくてもよい、呼びに行くまで二階でおとなしくしておれ」と言われ、二階でじっとしていました。一時間位たっても呼びにかこないので待ちくたびれ、窓を少しあけてのぞいて見たとき、警備のために立っていた巡査と目がかち合いました。あとで主人が警察に呼びつけられ、「宮様を上から見おろすとは何事か……」とさんざん油をしぼられて始末書を書かされました。そのとばっちりで、私も「なぜ言うとおりおとなしくしていなかったのか……」などと、さんざんな目に合わされました。」
「ある弱視者の戦中戦後」西岡恒也・著。下「」引用。
「私の「点字毎日」での仕事は、点字教科書発送などの雑用と全盲の大野編集長の手引きでした。全盲の大野氏はこの空襲のさなかでも、芦屋からの通勤はもとより取材活動にも精力的にとりくみ、弱視者の鷲がその目となり足とされたのです。その頃の「点字毎日」は旬刊で紙もポスターも廃物利用でしたが、「点字読売」が出されたあととあって発行を休むわけにはいかなかったのです。」
「私の八・一五と障害者運動」安部和二郎・著。下「」引用。
「ヴィオリンの好きな知恵遅れの少年、物置につながれた重複障害の少年、脊髄カリエスの少女--私が人生の中で最初に出遭ったこれら三人の障害者は、八月十五日とともに私の脳裏にあざやかに甦ってくる。-略-」
脳性小児まひと、ポリオとは異なりますね……。下「」引用。
「昭和二十二年(一九四七)、「小児マヒが治る」と新聞にでかでかと載りました。大阪大学で小児マヒが治るというのです。-略-先生は、子どもの背中をポンポンと叩いて「お宅のは脳性マヒですから、治りません。次の部屋で助手の人から聞いてください」と、おっしゃいました。助手の方も、「お宅のは、治りません」と、おっしゃるだけです。涙が出てきて仕方ありませんでした。-略-」
足でタイプ……。下「」引用。
「足でタイプを打って、俳句という短詩形の客観的視力とリアリティを要求される創造の文学を学びながら、すくなくともその俳句実践をとおして、戦争と平和の問題がわかってきたのである。その現実から目を放したくない。-略-」
日本もファシズムであった……。下「」引用。
「障害児が死ぬとまわりの人は『早く死んで親孝行でしたね』などと言います。たしかに障害児の親も苦労します。だからそう言う言葉が出るのでしょう。しかし、人の生命に軽重はないと思います。そういう言葉を聞くと『ああ、やっぱり政治が貧困なんだな』と思い知らされます。ある大学の先生がこんなことを言っているのを読んだことがあります。『一人前の社会的責任を負えないのに、障害者に権利を与えたら誰がその責任を負うのか』。この人は障害者の断種法を作るべきだ、結婚を制限するべきだと主張していました。これはまさにファッショだと思います。あのナチス・ドイツはゲルマン民族の優位性を誇り、それを守るために他民族を抹殺しようとしました。同時に、障害者狩りもやりました。まさにその思想と同じで、私は激しい怒りを感じました。」
今もファシズムである人間たちはいるが、ごまかしている……。
きちんとファシズムについても学ぶべきだと思う。
もくじ
もくじ
清水寛・編著/新日本出版社1987年
戦中のことだけとは限りません。
足でタイプをうって、反戦をしている人もおられます。
差別用語がありますが、当時のことを表現するためにそのままにしておきます。
■目 次■
はじめに--戦争と障害者 清水寛 5
聴覚障害の身で被爆して 堀登喜雄 14
ある弱視者の戦中戦後 西岡恒也 29
私の八・一五と障害者運動 安部和二郎 43
肢体不自由のわが子と生きて 森種子 63
よみがええった海辺の教育
--もう戦争は許せない-- 上杉文代 79
沖縄戦と私のあゆみ 伊波園子 97
わが俳句を証として
--戦後生れの戦争体験-- 坂田正晴 119
子どもたちに戦争から何を学ばせるか
--総合学習「満蒙開拓から障害児教育へ」
の実践をめぐって--
程塚秀雄、他 138
平和はぼくらのねがい
--与謝の海養護学校の「平和学習」のとりくみ--
吉野豊、他 158
あとがきに代えて 189
精神医療史……。下「」引用。
「「我邦何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、我邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ネルモノト言フベシ」。
戦前における日本の精神障害者の生存と人権の実状を鋭くつく、痛憤に満ちたことの言葉を残したのは、明治期から大正期にかけて、「精神病者私宅監置」等の悲惨な実態をつぶさに調べ、精神科医療制度などの改革にも力を尽した精神医学者・呉秀三(一八六五~一九三二年)である。呉は、十五年戦争の始まる「満州事変」(一九三一=昭和六年)の翌年に亡くなった。
この“二重の不幸”の最も極まったのが、戦争と軍国主義の“暗い谷間”の時代である。戦争遂行に役立つたたかぬかで人間の全てが篩(ふるい)にかけられ、障害者の多くは「非国民」とみなされ、生きていく価値さえ否定されがちであった。それは、国民全体にとっての不幸にほかならなかったが、とりわけ障害者・病人・老人などにその不幸が集中・集積したものと言うべきである。」
障害者年ということで、この本もつくられたようだ。下「」引用。
「今年は、先に紹介したような基本的理念・目的をもつ国際障害者の中間年である。本書が、「国際障害者の十年」の後半期に向けて運動が一層高まっていくための一つの力となれば望外の喜びである。」
「聴覚障害の身で被爆して」堀登喜雄・著。下「」引用。
「私は一九二五年(大正十四)九月に生まれました。そして昭和七年(一九三二)一月、満六歳三ケ月の時、風邪をこじらせて中耳炎になり両耳の聴力を失いました。
失聴後は、あの十五年戦争とともにに歩んだことになります。その年の四月、学齢であったのでいちおう小学校に入学しました。しかし学校では先生の言うことが全くわからず、また他の生徒にいじめられてもかばってくれるのではなく私を叱るという具合で、すっかり学校ぎらいになり、一ケ月位でやめてしまいました。
その後は、ろう学校の存在を知らないまま遊んでいましたが、十歳のとき広島にろう学校があることを知り、山口県に居住していたのを父と継母(実母は二歳の時死亡)と三人で広島市に移り、ろう学校に入学しました。夏休みになって父が倒れ生活ができなくなったので、-略-ろう学校は結局一学期だけでやめることになりました。-略-」
index
上の著者は木工所勤務となる。下「」引用。
「七月、皇族で朝香宮という軍人が工場の前を通行するとの通知があり、「お前はツンボでなにもわからんから仕事をしなくてもよい、呼びに行くまで二階でおとなしくしておれ」と言われ、二階でじっとしていました。一時間位たっても呼びにかこないので待ちくたびれ、窓を少しあけてのぞいて見たとき、警備のために立っていた巡査と目がかち合いました。あとで主人が警察に呼びつけられ、「宮様を上から見おろすとは何事か……」とさんざん油をしぼられて始末書を書かされました。そのとばっちりで、私も「なぜ言うとおりおとなしくしていなかったのか……」などと、さんざんな目に合わされました。」
「ある弱視者の戦中戦後」西岡恒也・著。下「」引用。
「私の「点字毎日」での仕事は、点字教科書発送などの雑用と全盲の大野編集長の手引きでした。全盲の大野氏はこの空襲のさなかでも、芦屋からの通勤はもとより取材活動にも精力的にとりくみ、弱視者の鷲がその目となり足とされたのです。その頃の「点字毎日」は旬刊で紙もポスターも廃物利用でしたが、「点字読売」が出されたあととあって発行を休むわけにはいかなかったのです。」
「私の八・一五と障害者運動」安部和二郎・著。下「」引用。
「ヴィオリンの好きな知恵遅れの少年、物置につながれた重複障害の少年、脊髄カリエスの少女--私が人生の中で最初に出遭ったこれら三人の障害者は、八月十五日とともに私の脳裏にあざやかに甦ってくる。-略-」
脳性小児まひと、ポリオとは異なりますね……。下「」引用。
「昭和二十二年(一九四七)、「小児マヒが治る」と新聞にでかでかと載りました。大阪大学で小児マヒが治るというのです。-略-先生は、子どもの背中をポンポンと叩いて「お宅のは脳性マヒですから、治りません。次の部屋で助手の人から聞いてください」と、おっしゃいました。助手の方も、「お宅のは、治りません」と、おっしゃるだけです。涙が出てきて仕方ありませんでした。-略-」
足でタイプ……。下「」引用。
「足でタイプを打って、俳句という短詩形の客観的視力とリアリティを要求される創造の文学を学びながら、すくなくともその俳句実践をとおして、戦争と平和の問題がわかってきたのである。その現実から目を放したくない。-略-」
日本もファシズムであった……。下「」引用。
「障害児が死ぬとまわりの人は『早く死んで親孝行でしたね』などと言います。たしかに障害児の親も苦労します。だからそう言う言葉が出るのでしょう。しかし、人の生命に軽重はないと思います。そういう言葉を聞くと『ああ、やっぱり政治が貧困なんだな』と思い知らされます。ある大学の先生がこんなことを言っているのを読んだことがあります。『一人前の社会的責任を負えないのに、障害者に権利を与えたら誰がその責任を負うのか』。この人は障害者の断種法を作るべきだ、結婚を制限するべきだと主張していました。これはまさにファッショだと思います。あのナチス・ドイツはゲルマン民族の優位性を誇り、それを守るために他民族を抹殺しようとしました。同時に、障害者狩りもやりました。まさにその思想と同じで、私は激しい怒りを感じました。」
今もファシズムである人間たちはいるが、ごまかしている……。
きちんとファシズムについても学ぶべきだと思う。
もくじ
もくじ
障害者教育科学実践研究
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」をお読みください。
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http://kyoikkagaku.blogspot.com/
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それ以前の「教育と労働安全衛生と福祉の事実」。途中で作成できなくなりましたので。
よければ併せてご覧ください。
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http://kyouikutorouann.blogspot.com/
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または、
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http://blogs.yahoo.co.jp/rouanken
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