磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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子どものころ戦争があった-児童文学作家と画家が語る戦争体験-

2008年09月17日 | 読書日記など
『子どものころ戦争があった-児童文学作家と画家が語る戦争体験-』
   あかね書房・編/あかね書房1981年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「戦争を知らない子どもたちへ-平和への祈りをこめて-
戦争の最大の犠牲者は、子どもだといわれます。これは、太平洋戦争の時代に、その最も苛酷な少年期を生きぬいた児童文学の作家と画家が、平和への熱い祈りをこめて現代の子どもたちに語りつたえる、鮮烈な体験記録集です。」



■目 次■

火の海 長新太  6
中学生時代 佐藤さとる  10
軍港のある町で 上野瞭  20
イノチの予科練 寺村輝夫  37
にがい思い出 岡野薫子  52
たべもののうらみ 田畑精一  74
おふくろさんのいくさが始まる…… 今江祥智  78
パンツの旗 大野充子  90
海底火山  乙骨淑子  107
受けた教育のことから 三木卓  117
おににかったみーさいな 梶山俊夫 126
飢餓集団 新村徹  130
集団疎開という文字  奥田継夫  145
お母さんお天氣ですか 谷真介、赤坂三好  165
焼け跡に敬礼 さねとうあきら  182
ぼくと同じ年になれなかった子 田島征三  200
ぼくの昭和二十年 砂田弘  204
嵐の海に引揚げ船 手島悠介  223
カンポウシャゲキがこわした夏 富盛菊枝  242
ああ、戦争ごっこ  山下明生  256

コロボックル・シリーズの佐藤さとるは、軍国少年だったという。下「」引用。

「ぼくはそのころ軍国少年だった。といっても、たいして意味はない。当時軍国少年でない少年をさがそうとしたら、今の世で軍国少年をさがすより、ずっとむずかしいにちがいない。
 太平洋戦争がはじまったのは、ぼくが旧制中学二年の十二月だ。中学校は将来の中堅幹部を育成するところ、という軍の意向で、完全なスパルタ教育を受けていた。二年生ですでに小銃の扱い方を知っていたし、五分間で教練服に着がえて編上げぐつをはいてゲートルを足に巻き、武器庫へいって銃剣と三八歩兵銃で武装して運動場にピッチリ整列して教官が現われるのを待つ、なんていう芸当も身についていた。」

製粉工場で働かされていたという。下「」引用。

「製粉工場での仕事は、かなりきつかった。はじめのうちは、慣れないままに能率もわるかったが、やがて要領がわかると、がぜん生産があがった。当時、東洋一を誇る大工場だったが、その大工場を事実上動かしていたのは、百名たらずのぼくたち中学生だったのである。この点は、一般の工場と大変に事情がちがう。」

民主的自治体だったという。下「」引用。

「今考えてみると、ぼくたちは、そんな時代に、ちょっとした民主的自治体を組織していたわけで、そういう意味でも非常にめずらしいことだった。はじめのうちは、ときどき工場がわから苦情がでたが、やがて何もいわれなくなったばかりか、しまいには生産計画の一部を、すっかりまかされるようになった。」

--王様シリーズの寺村輝夫
特攻 昭和20年5月特攻隊入隊直前



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--大野允子、アメリカのことをよく知っていたおじさん。下「」引用。

「八月六日の朝、おじさんはスコップをもって土手の道を歩いていきました。
 川内の人たちが、建物疎開の手伝いにいく日だったのです。家をこわして、広島の町に大きな防火道路をつくるためです。
 いったきり二度と、だあれも、村へもどってきませんでした。
 死体さえ、もどってこなかったのです。-略-」

--戦後、手作りのパンツをつくったという。
その生地は兵隊さんの帽子になるものだった。

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三木卓は書く。下「」引用。

「自分たちの目的のために、こどもたちをだまして、その目的のために使ってしまうとした教育でした。ですから、こどもたちのなかには、だまされたまま飛行機乗りになって死んでいった者もたくさんいます。国のためになると思いこんで死んでいったのです。その人々はわたしよりも年上でしたけれども、わたしは今でも昔のニュース・フィルムの断片や写真集を見ると、その気持ちにうたれつつ、辛い思いをします。かれらはいっしょうけんめいだったと思いますが、それ以外の考え方や生き方を知ることもなくて、ただもう、押しつけられた一つの考えだけで、つっぱしっていった、という思いがします。」

「飢餓集団」新村徹・著、「集団疎開という文字」奥田継夫・著は、集団疎開の体験談。

もくじ

さねとうあきらは、ヒロシマからのトラックを見たという。下「」引用。

「八月六日の朝、家の前の道路に出たぼくは、遠い岬の上に、ぴかっと輝く星のような光をみました。まぶしい朝の光よりも、もっとまぶしいあやしい光でした。
 それから、何日もたたないうちに、ホロをかけた軍用トラックが、何台も何台も、家の軒をかすめて通り過ぎました。
 それは、広島の原子爆弾にやられた人たちを、となり町の海軍病院にはこんでいくトラックでした。
 ホロのかげから、なん本も血みどろの手が出ていた、という人もありました。水がほしくて、死にものぐるいで、腕をさしだすのだそうです。頭の皮がやぶれて、骨が見えていたとか、目がつりあがって、縦についていたとか、ホロをかけたトラックにまつわるうわさは、心が寒くなるようなおそろしいものばかりでした。」

「ああ、戦争ごっこ」山下明生・著。下「」引用。

「ぼくがほんとうの戦争を知ったのは、それから何年もたってからだった。ほんとうのことを本で読み、かくされていたことを知らされ、戦争というものがどんなものか、だんだんわかってきた。
 もしも戦争になることが、熱いフライパンに投げこまれるようなことなら、はじけとんで逃げだすこともできるだろう。しかし戦争は、かくされたところではじめら、まるで季節が変わるように、いつのまにかぼくたちをとりまいてくる。あるいは今も、新しい戦争がぼくたちをつつみこもうとしているかもしれない。ほくは、それがこわい。」

自分のことばかり考えていたら、戦争をしたら得だと思えば、それがよいものになるのかもしれませんね……。


--乙骨淑子は、中島製作所で働いていた友人のことを書いています。






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