『ランドセルをしょったじぞうさん 新日本おはなし文庫 1』
古世古和子・作/北島新平・絵/新日本出版社1980年
表紙の裏「作者のことば」 下「」引用。
「じぞうさんがランドセルをしょっています。ときけば、ほんとうかしら? とおもうでしょうね。だれのランドセルなの? だれがかけたの? とも、おもうでしょう。
三十五年まえ--日本が戦争にまけた年に、ケンちゃんのおかあさんが、かけたのでした。なぜだったのでしょうね。」
地蔵におねがいする……。下「」引用。
「じぞうさん、じぞうさん。ぼくの おかあさんが 面会にきますように。おねがいのときだけ おがんで わるいけど、ランドセルで こまっています。ぼくの ねがいょを きいてください」
おかあさんはこなかった……。
病気で家にかえったケンジ……。
あぶなくなってきたので、群馬のおじさんのところへ、疎開する話があったという……。
ランドセルをせおわず本堂へ行き、しかられたケンジ……。
ランドセルをかしてもらう。兄はリュックサックを使う……。
母がお寺にやってきて、ランドセルを家でなおすという。
空襲……。
機銃掃射で殺されたケンジ……。
「あとがき」 下「」引用。
「八王子市泉町の相即寺の境内には、延命閣という地蔵堂があります。堂内は広く、百五十体もの地蔵がならんでいますが、その一体が、ランドセルを背負っています。
住職豊島徳宝師は、
「当時の住職であった父からききましたが、このランドセルは、敗戦の年の七月P51戦闘機の機銃にうたれて、なくなった子どものものです。おかあさんが、かけていったのだそうです。区内からここへ疎開してきていた子どものひとりだったのですが、その子どもの顔とこの地蔵の顔が、よく似ているから、だったそうです」
と、話してくれました。
-略-作中のケンちゃんは、当時、品川区立原国民学校の児童であった。神尾明治(かみおあきじ)くんでした。-略-
一九八○年初夏 古世古和子」
もくじ
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古世古和子・作/北島新平・絵/新日本出版社1980年
表紙の裏「作者のことば」 下「」引用。
「じぞうさんがランドセルをしょっています。ときけば、ほんとうかしら? とおもうでしょうね。だれのランドセルなの? だれがかけたの? とも、おもうでしょう。
三十五年まえ--日本が戦争にまけた年に、ケンちゃんのおかあさんが、かけたのでした。なぜだったのでしょうね。」
地蔵におねがいする……。下「」引用。
「じぞうさん、じぞうさん。ぼくの おかあさんが 面会にきますように。おねがいのときだけ おがんで わるいけど、ランドセルで こまっています。ぼくの ねがいょを きいてください」
おかあさんはこなかった……。
病気で家にかえったケンジ……。
あぶなくなってきたので、群馬のおじさんのところへ、疎開する話があったという……。
ランドセルをせおわず本堂へ行き、しかられたケンジ……。
ランドセルをかしてもらう。兄はリュックサックを使う……。
母がお寺にやってきて、ランドセルを家でなおすという。
空襲……。
機銃掃射で殺されたケンジ……。
「あとがき」 下「」引用。
「八王子市泉町の相即寺の境内には、延命閣という地蔵堂があります。堂内は広く、百五十体もの地蔵がならんでいますが、その一体が、ランドセルを背負っています。
住職豊島徳宝師は、
「当時の住職であった父からききましたが、このランドセルは、敗戦の年の七月P51戦闘機の機銃にうたれて、なくなった子どものものです。おかあさんが、かけていったのだそうです。区内からここへ疎開してきていた子どものひとりだったのですが、その子どもの顔とこの地蔵の顔が、よく似ているから、だったそうです」
と、話してくれました。
-略-作中のケンちゃんは、当時、品川区立原国民学校の児童であった。神尾明治(かみおあきじ)くんでした。-略-
一九八○年初夏 古世古和子」
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