磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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宮沢賢治とある死刑囚

2011年03月10日 | 読書日記など
『宮沢賢治とある死刑囚』
   佐藤寛・著/洋々社1981年

直接、人間「宮沢賢治」に関係するのではなく、作品を通してのようである……。
絶望の淵にある人たちにも、光をなげかける作品をかいた作家=宮沢賢治……。



「推薦のことば」 下「」引用。

「-略-先生(*佐藤寛)は「私を通して賢治を知り、賢治を通して法華経の信仰に入って、人間革命を遂げた一死刑囚の記述」と述べておられる。僅か三十八年を一期として生涯を閉じた宮沢賢治は宗教的天才であり、法華経の行者として残された作品が、一死刑囚をして、安心立命の悟道を成就せしめる力のあったことを思い、賢治の到達しておった境地の深さには畏敬の他ないが、その介添をされた。佐藤先生の己れを空しうして真実に生きるための精神には只々頭の下がる思いがする。
 佐藤先生は宗教家でもなければ、またそれを売りものにする人でもない-略-
   昭和四十年二月
      竹村吉右衛門」

「推薦のことば」 下「」引用。

「-略-今度のこの御本で、私はこれまで訊ねるのを控えていたさまざまな点を教えられることになった。佐藤さんが東京拘置所の篤志面接委員という肩書で、教養講座の講師をしておられるが、短歌と詩を通じて、そこにいる人たちにどれほど精神的な支えを与えてこられたかを、はっきりした形で知らされた。-略-
 宮沢賢治を介して、佐藤さんと死刑囚との心のやり取りは、ほかには見られない純粋で真剣なものを感じさせる。-略-
   昭和四十年二月
      串田孫一」

「春と修羅」の発行人関根喜太郎と知り合いだった著者。

賢治の自費出版。下「」引用。

「-略-自費出版であったことはいうまでもないし、印刷については自ら印刷所に出向いて、校正はもちろん植字・組版までも手伝ってる熱心さだった。が、発行所については相当苦慮したようである。-略-」

千部で12、13冊だけしか売れなかった『春と修羅』。下「」引用。

「こうして取次店を通して全国の書店に配られたのであったが、無名であるのと殊に難かしいものであったから、千部発行して十二、三冊しか売れなかったのである。」

夜店で売られた『春と修羅』。下「」引用。

「関根はこれを無断でゾッキ本として夜店に流してしまったのであった。銀座や上野広小路の露店で、十銭乃十五銭で売られていたのであるが、私はそれを横目で睨みながらも、関根に対する反感から買おうとしなかったのである。当時、夜店で十銭か十五銭で売られた『春と修羅』が、今日では八千円もするというのだからただただ驚嘆するばかりである。」

賢治宗……。下「」引用。

「私が接触して来た死刑囚が、悉く賢治宗--こんな宗派が存在するわけではないのだが、冗談半分に役所で言ってることである--ではないが、私に接触している限り、彼等は多少なりと賢治の影響を受けている。」

既存の仏教に疑いをもっている人も、賢治なら受け入れる……。

リヤカー=ハイカラな時代。下「」引用。

羅須地人協会時代、自分で作った野菜やら草花を、毎朝リヤカーに積んでは町の知人達に配って歩いたことは有名な話で、私の年齢層の人達なら今でも語り草になっているほどである。その頃、町に村にリヤカーなど珍しいものであった。今から考えると、それほど賢治はハイカラな男であった。」

著者は法華経の精神を生かした『雨ニモマケズ』は世界の聖典と書く。

死刑囚からのお礼の手紙が掲載されていました。









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