磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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歴史をあるく、文学をゆく

2007年05月17日 | 読書日記など
『歴史をあるく、文学をゆく』
    半藤一利・著/平凡社2001年

『街道をゆく』で司馬遼太郎さんのことを思い出していたら、文藝春秋で司馬さんの担当だった半藤さんは、やはり司馬さんのことが何度か書かれていました。



安吾の推理は大胆です。下「」引用。

「こうして安吾さんの推理を信じるとすれば、記紀すなわち『古事記』や『日本書紀』で戦争中に習った日本古代史のように、蘇我親子は逆賊なんかではなく、天皇を称したばかりでなく、民衆もそれを認める存在であった。そして飛鳥板蓋宮にすむ皇極天皇一族と国権を二分して対立抗争、強健で圧倒しようとしたばかりに、逆に殺された。大化改新はまさに“革命”であったのであろう。」

歴史探偵を自称されている半藤さんも、驚かれたことでしょうね。

蘇我入鹿が林太郎天皇だったとは……。

安吾の【論理】は“一応”筋はとおっているようにもボクには思えます。

司馬遼太郎は、織田信長がそんなに気楽に勝てたわけではないと書いておられましたが、半藤さんもその路線で書いておられます。下「」引用。
「最近刊行された『長浜市史』には「緒戦は浅井・朝倉連合軍が有利にすすめ、一時は信長の本陣も危険にさらされるほどであった」とある。よくいわれるように信長の圧勝ではなかった。それは『市史』が書く死傷者数でもわかる。事実、木下藤吉郎の第三陣も、柴田勝家の第四陣も、浅井勢の猛進にあったとう間に撃破された。」

ここで、逆転したのは、徳川勢がいたからだという。

徳川軍は強かった。秀吉は一度も勝ったことはなく、何度も命を救われている……。

あの織田信長が、徳川家康を直々に接待したのも首肯けるというものですね。

二人の間に愛があったという説もありますが……。

「歴史を変えた人間通・坂本龍馬の土佐」というタイトルで、高知へ行かれたことが書かれてあります。

もちろん、他の紀行文と違って、歴史的なこともしっかり書かれてあるといっていいかもしれません。

龍馬のピストルなどは釧路の大火で消失したらしいです。

記念館にも行かれて、特別企画展もみられたようです。

この表記だけは、とれないと思いました。下「」引用。

「大義名分はどうあれ、血で血を洗う革命であることにおよそ理解がなかった。大政奉還などですむ話ではなく、革命を成立させる以外に人間の劇場がおさまるものではないことに、龍馬はついに気づいていない。そうなれば、革命派が「邪魔ものは消せ」という決断を下すのは、いわば当然の成り行きであった。」


龍馬はそのようなことは知っていたと思います。

身の危険があることは、長崎にいたときもわかっていたという。
それなのに、もっと大変なときに、理解できていないわけではないとボクは思う。

半藤さんとしては、生きていてほしかったから、このような感想がでたのかもしれない。

しかし、やはり龍馬もある程度の覚悟をしていたと思う……。
でも、ドラマのようにはないとも思う。

龍馬暗殺は幕府か、薩摩かというNHKの番組があった。

動機からいけば、幕府よりも、薩摩。

薩摩よりも、長州ではないでしょうか?

西郷さんと仲がよかった龍馬。

勝とも仲が良かった龍馬。

この三人はアメリカ合衆国のジョージ・ワシントンを尊敬していたという。

龍馬暗殺によって徳川を追い詰めることができる。

徳川に恨みを強くもっているのも長州。

そして、合衆国のようにしたかった西郷どん。

長州を追い落とさせば、薩摩の国となるので、それを追求しなかった……。

--それに、長州は直接、手をくだす必要もない。

なぜなら、倒幕運動を阻止しようとする幕府の狂犬病のような奴等がいたからだ……。

龍馬を油断させ、奴等に龍馬の居場所を伝えるだけでよい。

この線で誰か書かないかなあ?







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