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『闇の奥』の奥-コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷-

2010年11月05日 | 読書日記など
『『闇の奥』の奥-コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷-』
   藤永茂・著/三交社2006年

ヒロシマ・ナガサキ、ユダヤ人大量虐殺の源流がここにある……。
「『闇の奥』の闇」、まさに暗黒から生まれてきた原子爆弾……。



帯に書かれてあります。下「」引用。

「コンラッドの名作『闇の奥』の背後には、私たちの知らないどのような歴史の闇が控えているのか。厖大な研究史を踏まえ、渾身の『闇の奥』新訳を世に問うた著者による、西欧中心の歴史記憶への弾劾の書。」

闇の奥 岩波文庫

コッポラの『地獄の黙示録』のエンディングが『闇の奥』だったという……。
ベトコンが子どもたちの腕を切り落とすショッキングなシーンは、アドバイザーのフレッド・レクサから聞いたというが、そのようなことがあったという証拠はみつからないという。

『地獄の黙示録』脚本家が初期草稿に、小説『闇の奥』のことについて書いているという……。

『闇の奥』の写真が残っている……。下「」引用。

「そのカメラマンはイギリス人宣教師ジョン・ハリスの妻アリスで、彼女が写した「切り落とされた腕先」の生々しい数枚のコダック写真の日付は「一九○○年~一九○三年頃」となっている。一九○四年米国に渡ったこの宣教師夫妻は、レオポルド二世の悪業をあばく講演会を全米四九の都市で行った。アリス夫人の写したセンセーショナルな写真が白日の下に曝されたのである。」

写真「兵士達によって切り落とされた腕先(『レオポルド王の幽霊』より)。

ベルギー国王の大量虐殺。下「」引用。

「ベルギー国王レオポルド二世は、一八八五年からのほぼ二○年間に、アフリカ大陸中央部のコンゴの「闇の奥」でコンゴ人の大量虐殺を行った。ヒトラーのユダヤ人大虐殺に先立つことわずかに三○余年、数百万人抹殺というその規模も同じである。コンゴでの大量殺人はナチ・ホロコーストの序幕であったとする歴史家もいる。-略-
 しかし、コンゴ人大虐殺の方はほとんど誰も知らない。現代人の記憶と意識から見事に拭い去られている。これは一体どういうことか? この奇怪な歴史の現実の奥に目を凝らせば、コロニアリズム(植民地主義)とは何か、帝国主義とは何か、そして「ヨーロッパ」とは何なのか、私の言葉で言えば、これらすべての現実を生み出してきた「ヨーロッパの心」(European Mind)とは何なのかが、やがてはっきりと見えてくるであろう。」

レオポルド二世がコンゴを私有植民地にしたころには、奴隷貿易は終わっていたという。

アフリカ分割争奪時代……。下「」引用。

「アフリカ分割争奪時代の幕開けである。そして、ヨーロッパの列強が互いに索制しあいながら争って大陸分割に殺到する間隙を見事に縫って、植民地経営無経験の弱小国ベルギー国王レオポルド二世は、アフリカのど真ん中で特大の“油揚げ”をまんまとせしめるのである。驚く狐の奸智だけがレオポルドの手の内の唯一のカードであり武器であった。」

恐怖のシンボル……。下「」引用。

「野生のゴムの樹液採取の奴隷労働の恐怖のシンボルであった「切り落とされた腕先」の蛮行の記憶が、ベトコンが自国の子供たちに対して行った異常な蛮行として歪曲移植されている。」

アラブ系奴隷商人とアメリカ人。下「」引用。

「米国内で解放されたアフリカ黒人の帰郷先としてレオポルド二世のコンゴ自由国に強い関心を抱いたウィリアムズは、一八八九年ヨーロッパに渡り、奴隷制度反対の国際会議が開かれていたベルギーの首都ブリュッセルを訪れた。当時ヨーロッパ諸国はすでにアフリカからの奴隷輸出の商売をおめていたが、アラブ系の奴隷商人は依然として大陸内部で活動を続けていた。」

アメリカ人、レオポルドを絶賛。
だけど、黒人ウイリアムズは実状をしり伝える。下「」引用。

「当時スタンリーは世紀最大の探検家としての名声をヨーロッパと北米でほしいままにしていたが、レオポルド二世のコンゴ私領獲得の手先としてのスタンリーの詐欺師的実像をウイリアムズは初めて世に明かした。先住民の首長と握手する際、電池を隠し持って相手に静電気ショックを与え、拡大鏡レンズで物に点火して太陽神との親密な関係を誇示するなどの詐術やアルコール飲料を用い、必要があれば暴力的手段に訴えることも躊躇しなかった。レオポルド/スタンリーが創設した公安軍の多数の駐屯地が消費する食糧は、その地域の住民から銃による威嚇の下で調達された。住民が不服従を示すと、懲罰として彼らの家が焼き払われた。駐屯地の牢獄に収容された“罪人”の取り扱いは陰惨を極めた。
 慈善家としてのレオポルド二世の公言に反して、コンゴ自由国には「馬も住めないような」わずかな数の仮小屋を除けば、先住民のための学校も診療所も作られてはいなかった。植民地の白人官僚で先住民の言語を解する物は皆無に近く、行われる裁判では先住民に対して極端に不公平で残酷な判決が下されていた。白人の役人や交易商人は先住民女性を拉致して性的目的のため同棲を強いた。公安車の白人将校は単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。」

ウイリアムズは王に抗議した。
レオポルド二世もスタンリーも組織的な反撃をしたという。

メアリー・キングスリー。下「」引用。

「モレルの『コンゴ・スキャンダル』の連載は、キングスリーの死の直後から始まった。わずか三年前の一八九七年にはデ無プスター社の大切な顧客レオポルド二世の自由貿易政策を褒め上げていたモレルの黒人観を一八○度転換させたのは、メアリー・キングスリーであったと言えよう。モレルのレオポルド糾弾の孤独な戦いを最後まで一貫して支えたリバプールの商人ジョーン・ハントをモレルにら引き合わせたのも、メアリー・キングスリーその人であった。」

イギリスの秘密外交。下「」引用。

「つまりイギリス国民に知らされていない密約が存在し、それがコンゴ改革運動の足をたびたび引っぱっていると以前から考えていたモレルは、そうしたイギリス政府の秘密外交がイギリスを不必要な戦争に引きずり込む日が来ることを予言していた。八月四日の対独開戦で自分の予言が的中したと考えたモレルは、直ちにイギリスの参戦に反対の声を上げたのである。」

オランダ人(ボーア人)も、先住民の黒人を駆逐し、奴隷化し1839年に、ナタール共和国を建設。

イギリス人はオランダ人を追い出す。

「同一種の生物としてこんな人間と一緒にされるのは絶対に御免こうむるという決心が生まれた。」

キプリング(最初のイギリス人ノーベル賞文学賞受賞者)=植民地主義者。

原爆の材料……。下「」引用。

「広島・長崎の原爆に使われたウラン原料の大部分がコンゴのカタンダガ地方にから運ばれた事情は、一般にはよく知られていない。ベルギーの首都ブリュッセルでは、一九一一年以来三年ごとに、通称「ソルベイ会議」で知られる物理学と科学の国際会議(招待者オンリー)が開かれている。その初期の数回は歴史的に最も誉れ高い国際会議シリーズとなった。中でも第五回のソルベイ会議は有名で、綺羅星のごとき二九名の参加者の記念写真の前列中央にアインシュタインが座っている。-略-
 ヨーロッパ時代、アインシュタインの弟子の一人であったハンガリー出身の物理学者レオ・シラードは、ヒトラー・ドイツが原子爆弾を製造する可能性を危惧し、コンゴのカタンガ地方のウランがヒトラーの手に落ちることを阻止する必要があると考え、アインシュタインとベルギー王室との関係を利用することを思い付いた。これが、結局、アインシュタインが原爆製造をルーズベルト大統領に進言する有名なアインシュタイン書簡を生むのである。その最初の書簡(一九三九年八月二日漬け)に「アメリカ合衆国にはごく低品質のウラン鉱石が少しあるだけです。カナダとかつてのチェコスロバキアには良質の鉱石が多少ありますが、ウランの最も重要な産地はベルギー領土コンゴです」と書かれている。シラードが起草した文章である。
 ところが、ここに奇態な事実である。アインシュタイン書簡が準備されつつあったその時に、その場所から程近いニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫内に大量のウラン精鉱がすでに貯蔵されていたのだ。その倉庫はコンゴのカタンダの採鉱を支配していたベルギーの会社ユニオン・ミニエール(VI-5参照)に属していた。-略-英米のカタンガのウラン資源の一方的独占収奪は、コンゴ共和国独立後の幾多のトラブルの震源地をシンボリックに予告するものであった。」

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裏表紙から








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