磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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焼け跡の子どもたち

2009年07月12日 | TOP【もくじ】
『焼け跡の子どもたち』
    戦争孤児を記録する会・編/クリエイティブ21 1997年

図書館の説明文。下「」引用。

「52年前の太平洋戦争時には、日本国内で約12万3千人が孤児となった。あの苦しい時代を、孤児たちはどのように生きてきたのか。逆境をバネに精一杯の努力を重ね、ようやく人並みの生活が送れるようになった人々の証言集。」



「はじめに」 下「」引用。

「いつの時代でも、親を亡くした子どもは苦労します。五十二年前の太平洋戦争時には、日本国内で約十二万三千人が孤児となりました。《全国孤児一斉調査結果・十二頁参照》敗戦のショックで人々の心は荒廃し、食糧も極端に不足していたあの時代に、孤児たちはどのように生きてきたのでしょうか。
 私も一九四五年の空襲で家族が全滅、孤児になった一人として同じ孤児たちの様子が知りたく、約十年前から孤児調査を始めました。
 戦後五十年目の一九九五年三月に、初めて「戦争孤児の集い」に十五名が集まり、話し合いの場をもつことができました。案内状をお送りした、海老名葉子さん(故三平師匠奥様)からもお手紙が寄せられました。-略-」

こんな委員もあるんですね。下「」引用。

「現在、海老名さんは東京都平和委員として、平和の礎になった死者たちの霊を祀り、手を合わせお参りのできるところ、平和祈念館の建立を訴えつづけてむおられます。-略-」

やはり、いじめはあったようですね。下「」引用。

「当時は疎開者というだけで、いじめの対象になった。あまり腹が立ったので、ガキ大将を校舎の裏に呼び出して、得意だった柔道で思い切り投げ飛ばしたことがあった。いじめはそれから一層ひどくなり授業の内容も全くつまらなかったので、その年のうちに退学してしまった。」

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戦後も苦しむ……。下「」引用。

「兄は自分だけが助かってしまったことに、ずっと苦しめにれていたようです。母の遺体は黒焦げになったのか、崩れた壕の下に埋められてしまったのか、とうとう見つかりませんでした。-略-」

防衛大には行かない……。下「」引用。

「いざ就職となると、孤児というのは大きなハンディだった。担当の先生から新設された防衛大に進んではどうかという助言もあった。ただ、親兄弟を戦争で亡くした自分に防衛大に進む気にはとてもなれず、公務員試験を受け、裁判所に勤めることになった。」

ペスタロッチ司祭……。下「」引用。

「第一次世界大戦の後、欧州各地には戦乱で家族を失ったたくさんの孤児が放浪していました。ペスタロッチ司祭は、街や村々を歩いて募金を集め、施設を作り、孤児を救い育て始めました。司祭はこの時の無理がたたり、亡くなってしまいます。」







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