磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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赤瓦の家-朝鮮から来た従軍慰安婦-

2009年01月28日 | 読書日記など
『赤瓦の家-朝鮮から来た従軍慰安婦-』
   川田文子・著/筑摩書房1987年

「あとがき」に書かれてある……。下「」引用。

「朝鮮から従軍慰安婦として戦地に連行された女性は五~七万とも二十万人ともいわれる。そのうち何割かは、戦時、すでに死亡しているだろうが、生き残った女たちが、ポンギさんやカズコやケイコのような戦後の生きたのだとしたら……。ポンギさんのように、時として噴きあげてくる、首筋を掻き切りたい衝動を辛うじておしとどめをつつ、生きながらえているのだとしたら……。」



ケースワーカーはこんなことを言ったそうだ……。下「」引用。

「福祉事務所のケース・ワーカーが、訪ねて来る度(たび)、「ここは人間の住むところじゃないんですねえ」と言うその小屋の、住居としての不備の数々を、確かにポンギさんは託(かこ)った。だが、限られた生活保護費の枠の中でケース・ワーカーが探してくれる部屋には、決して移ろうとはしなかった。」

沖縄の人は親切とはいうが……。下「」引用。

「「沖縄の人は親切よ」とポンギさんはいう。
 日本の敗戦によって故国朝鮮が解放された時、たてまえとしては“皇国の臣民”であったポンギさんは、沖縄の焼野原に放り出された。そして、言葉も分らない、知る人もいない、土地勘もない、住む所も食べるものさえなく、着のみ着のまま、地元の人々でさえ生活することが困難であった敗戦直後の沖縄で生きなければならなかった。」

なぜ、朝鮮女性だったのか……。下「」引用。

「日本の芸娼妓は性病罹病者も少なくなく、戦争当時国の中国女性は諜報行為がおそれられた。日本軍が慰安婦として求めたのは、性病罹病者でない、いいかえれば、売春経験のない健康な娘たちであった。日本国内から赤紙一枚で兵隊を召集するように若い娘を狩り出すわけにはいかなかった。“国”を守る、という大義名分は、個々の兵士には、生れ育った故郷、親きょうだい、そして、妻子を守ることとして了解されたはずである。日本の女たちを軍隊の慰み者として狩り出すことは、軍隊の戦闘の目的そのものを根底からつき崩すことにもなりかねない。そこで目をつけられたのが、植民地朝鮮の女たちであった。」

だけど、もちろん朝鮮の女性だけではない……。

赤瓦の家……。下「」引用。

「将兵の間で最も人気のあったのは、ハルコである。ハルコは片言だが、日本語が話せ、容姿も美しい一目を惹いた。日本語が多少わりか、愛嬌のあったスズランも人気があった。若かったミッちゃんとアイコは、その若さの故に可愛いがられた。大柄な身体と太い声で目立つ存在であったキクマルは、渡嘉敷(とかしき)に来る前にも慰安婦として働いたようで、開けっぴろげに、「中国では一日九十人の兵隊の相手をした」と言い放ち、周囲の者を驚かせていた。おとなしい性格のカズコは、七人の中ではあまり目立たなかった。一番の年長者であるポンギさんも、赤瓦の家でひっそりと暮らし、兵隊にもてはやされることはなかった。」

検査もあったという……。下「」引用。

「山第三四七五部隊の規定では、“業婦”らの検査は十日に一度であったが、赤瓦の家では一週間に一度行なわれた。
 海上挺進第三戦隊の衛生兵であった若山正三によれば、基地隊と戦隊にはあわせて三名の軍医と三名の衛生下士官がいた。はじめのうちは基地隊の軍医が検査にあたっていた。衛生士官一名も、検査日には軍医に随行した。基地隊が沖縄本島へ移動して後は、戦隊の浮田堅太郎軍医について若山衛生兵も赤瓦の家を訪れた。検査は女たちを一人一人台の上に乗せて行なわれた。一人二分程度ですむ、簡単な検査であった。慰安所開設中、不合格となった者はいない。」

戦後は酌婦として……。下「」引用。

「移動の周囲は緩慢になりはしたが、ポンギさんは、やはり、ひとところにとどまることができず、沖縄の飲み屋を転々とする。飲み屋といっても、ポンギさんの歩いた多くの飲み屋では、酌婦としての収入は皆無である。そこで働く女たちの収入源は、酒を飲みに来る男たちに性を売る、その報酬である。しかも、男たちから得た全額が自分の収入になるわけではない。店によっては比率は異なるが、およそ半額を“部屋代”として主人に収めなければならない。店では稼ぎの多い女を置けば、それだけ“部屋代”もあがる。もちろん、客の支払う飲み代は全部主人の方へ行ってしまう。」

もくじ

こんなこともあったという……。下「」引用。

「フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混じっていた。いつの頃であったか、慰安所の親方(カネコ)が第三戦隊に泣きついてきて、女たちともども部隊本部に潜り込んでいたから、慰安所の女であろう、と曾根氏は思った。戦闘状態に入らないうちは、外出日に性病予防用のサックが手渡されていたが、曾根氏は慰安所へ一度も足を踏み入れたことがなかった。そのため、女たちとは面識はなかった。どのように調達してきたのか、女たちは軍夫用の軍服、軍帽を身につけていた。」







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