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悪夢の遺産-毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国-

2009年07月17日 | 読書日記など
『悪夢の遺産-毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国-』
    尾崎祈美子・著/常石敬一・解説/学陽書房1997年

戦後もパニックになったことがあったようだ……。
--戦争とは本当に困ったものだ……。



1994年1月20日、日中の研究者による民間調査チームの一員として、中国東北部の哈爾巴嶺(ハルパリン)を訪れたという。下「」引用。

「この村のはずれには、大量の毒ガス弾が埋められているといわれていた。それは日中戦争時、海を越えて日本から運び込まれ、戦後もずっと中国に残されていたものだという。その数は一八○万発にものぼるとされていた。地元の村人はそこを「廃弾溝」と呼び、決して近寄らないようにしているという。」

毒ガス(化学兵器)の保有国……。下「」引用。

「現在、毒ガス(化学兵器)の保有が確認されているのはアメリカ、ロシアなど四か国、保有の可能性がある国は一二か国、保有計画の疑惑がある国は九か国に及ぶとされる。アメリカの場合は三、四万トン、ロシアは四万トンを保有しており、各国はそれぞれ膨大な量の毒ガスの廃棄処理を迫られている。そして、なかでも最も困難な処理を課せられているのが、実は日本であることはあまり知られていない。」

証言「霧社事件」。下「」引用。

「霧社事件で日本軍が毒ガスを使ったのは間違いないのです。もっと早く調査がなされていたら、事実をとどめておくことができたのにと思うと残念です。日本人は、あれは涙がでるだけのガス(催涙ガス)だといっていますが、そうじゃない。もっとひどい毒ガスを使ったはずです。皮膚がただれてね。毒ガスを吸いこんで苦しみのあまり死にたくなる。首吊ったり、銃を持っている人はそれで自殺したと……。こういう話を、死んでいった人が生き残った人に言い残してね。山の人から私も聞いたことがあります。この耳で、本当に聞いたんです。でも、もう事件から六○年も経ってしまった。私たちは実際に現場で体験したわけではないし、証明しろといわれても証明することはできないんですよ」

台湾大学、許介鱗教授。下「」引用。

「今度台湾に取材に来るときは、霧社事件のような昔のことだけでなく、現在日本企業が台湾にもたらしている公害問題を取り上げてほしい」

現実とは異なったという……。下「」引用。

「当時の宇垣陸軍大臣は、たとえ「蕃人」といえども「陛下の赤子」、すなわち日本人であるから残酷なことはできないといっていた。だが、植民地の少数民族は、残酷なことをするのに最も都合のよい存在だったのである。」

大久野島の毒ガス工場の従業員ガンで死亡。下「」引用。

「解剖の結果、やはり肺結核ではないことが判明した。気管が両肺に分かれる部分の粘膜に、赤ちゃんほどのこぶしほどのがんが発生していたのである。」

一日一円の高給だったという。下「」引用。

「当時一六歳だった谷菅静夫さんも、人夫として工事に駆り出された。谷菅さんら地元の若者たちは、「忠海製造所」に勤めることにあこがれた。「大久野島の火工廠で働くと一日一円じゃけん」「危険手当もあるそうな」といった噂でもちきりだったという。」

中国で使われた理由……。下「」引用。

「当初、毒ガスは慎重に使われていたが、やがて中国軍の化学戦力が低く、報復の恐れがないことがわかると、催涙ガスだけでなく、くしゃみ性、嘔吐性の「あか」や糜爛(びらん)性の「きい」も頻繁に使われた。その使用回数は中国全土で二○○○回を越え、民間人を含めて少なくとも九万四○○○人の中国人が死傷したとされている(一九九五年七月一九日北京発共同電)。」

「防護服(タコ)」。下「」引用。

「防護服(タコ)を脱ぐ前にいちおう中和水を浴びましたが、夏の暑いときなんか、汗にほんの少しでもイペリットの液が溶けると、たちまち水ぶくれになりましたよ」



「住民も巻き込んだ毒ガス事故」 下「」引用。

曽根製造所では毒ガス事故が頻発した。
 一九四二年八月、九州北部に台風が上陸した際、堤防が決壊して工場のなかに海水が流れ込み、野外に集積してあった毒ガス原料の塩酸ガスが漏れだした。工場一帯に充満し、従業員は全員高台に避難している。
 四三年夏、青酸ガスを充填中、工員が意識不明になる。
 同じ年、検査室で青酸とホスゲンを混合中、検査掛員が仮死状態になる。
 その他、弾頭の溶接部から黄リンが漏れる事故や、ホスゲン投下爆弾の集積所で発火事故がたびたび起きている。-略-
 工員たち二○人近くが意識を失った窒息性のホスゲン事故では、風下の農家で飼われていた鶏が全滅する被害を出している。
「爆発するたびに駆けつけて、民家をまわって『避難してください』と叫んだ。住民たちは毒ガスの恐ろしさを知らされていないから、『この飯時になんだ』ってもんで、なかなか避難してくれない。こっちは慌てましたよ」-略-」

広島でパニックがあったという。下「」引用。

「中国の遺棄毒ガス弾を取材した翌九五年二月のことだ。広島市内の公演に戦争中の毒ガス原料が埋設されており、それが地中に漏れだして、住民がパニックに陥る騒ぎがあった。
 毒ガス原料はドラム缶で一○一七本分高濃度の砒素化合物で、公園内の土壌三か所から、国の環境基準の三五○倍もの猛毒・砒素が検出されたのである。」







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