龍の声

龍の声は、天の声

「寄り添う心」

2014-01-18 07:53:18 | 日本

菅家一比古さんから、新年の「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。




御皇室は良識と良心の府であう。いくら日本人が日本を忘れても、御皇室は最後の日本人を貫かれている。

いかがわしい職業やいかがわしい生き方をする日本人が多くても、御皇室はいかがわしくなったりしない。国民は日頃意識しなくとも潜在意識でそれを知っている。だから昭和天皇が病いに臥せられた時、吉原のソープランドや六本木のマハラジャ等は営業を休止した。

とうとうお蔭(かく)れになられた時もそうだった。その時テレビで、風俗で働いている若い女の子が泣きながら「あの人(昭和天皇)は私たちのことをずっと思っててくれたんだ」とインタビューに答えていた。

昭和天皇の国民を愛し祈り続けてきた愛の復元力が働いているのである。日本人がどんなに俗に流されようとも皇室だけは聖なる一点として存在し続ける。これがどれだけ有難いことであり、凄いことかご存知か。

昨年十二月二十三日の天皇誕生日の朝刊に陛下のお言葉が掲載されていた。その中に「皇后が私にしっかりと寄り添ってくれたお蔭で今日まで・・・」とあった。私は涙が溢れた。「寄り添う」とは何と素晴らしい言葉だろう。

日本人の伝統的精神性にこの「寄り添う」がある。夫婦ばかりではなく、お年寄りに寄り添う、病人に寄り添う、お客様に寄り添う。天皇、皇后両陛下は被災地に必ず出かけられ、膝をつき被災者とお言葉を交わしておられる。

被災者は一同に「ああ、陛下は我々に寄り添ってくれているのだ」と直感する。それは親の愛そのものをお示し下さるからである。そしてそれはやがて愛の復元力となって我々の中に生き、少しでもまともな人間性や人生を生きたいと願う想いや力の源泉となる。

今日、元旦禊(みそぎ)もそのような想いで、日の本の民として陛下の赤児としてさせていただいた。「寄り添う心」これを決して死語にしてはならない。

今年も一年、よろしくお願いします。








「凡人と天才」

2014-01-17 07:27:31 | 日本

柳田繁吉さんのブログ「百姓雑感」に、「「凡人と天才」について書かれてある。
実に面白いので、以下、要約し記す。



「凡人は天才を知り、天才は凡人を知らず!」

凡人は天才の底知れぬ凄さを感じるが、天才は凡人の愚さを知らない。
天才は真理の世界に触れるからより純粋になるが、凡人は真実の世界が見えないから見えたふりをして嘘つきになり不純になりがちである。
天才には人や金が集まって来るが、凡才は人も金も寄って来ず、むしろ逃げて行くからいっそう欲が深くなる。
天才は天命により、天よりの秀でた科学技術を世に広め生かさなければ、天命を果たさず人生を無駄に終える事になるのである。
 
問題は天才が凡人に如何に学ばせ、その技術を伝えるかである。それが旨くいかなければ世の中を変え人類救済も果たせず、この世に生まれた意味も無い事になるのである。

天才の発明発見も凡人が学問を学ぶとことも、全ては閃きと腑に落ちる得心である。いきなり最高技術を身に着けさせようとしても無理であり、例えその技術の装置をあてがわられても時間の問題でその人のレベルのところに落ち着くだろう。

学ぶとは梯子段であり失敗を重ねながらガッカリして小さな絶望の中、閃きが起きてその人にピタリあった教えが天から降りてくるのである。ある意味絶望は心が空になるのであり、空の中から閃きが降りてくるのである。 

技術の研鑽は精神も同時に高めるのであり、心と技術の進化は車の両輪である。







「ジョセフ・ティテル2014年の予言」

2014-01-16 08:23:32 | 日本

滝沢泰平さんのブログ「天下泰平」の中に、アメリカのメジャー予言者“ジョセフ・ティテル”の「その年に起きる世界の出来事」の2014年版が記されてあった。
実に面白いので以下、要約して記す。


ジョセフ・ティテルの予言の的中率は30%以上もあるといわれており、それが業界(?)の中で高いのか低いのかわからないが、年々こういったサイキック能力の中でも“予知能力”に関しては当たらない人々が多くなってきているので、その中で大胆に数多くの予想をして“打率3割”があるのは当たっている方なのかもしれない。

とはいえ、そもそも予言された時点で未来は変わる可能性もあり、そういった意味では予言そのものの内容の意味はあまりないのかもしれまないので、まずは毎年恒例のエンターテイメントの1つとして気楽にご覧頂けたらと思う。


1.ネズミ類が都市に侵入。かなりの数で、隙間が見えないくらい。アメリカ以外でたぶん中国。彼らは何かから逃げている。

2.これらのネズミから新しい病気が広がる。日本、中国で。これに対処する方法について大きな国際的な議論になる。

3.獄中のトロント市長。彼は先導する光の機嫌を伺うが、めった打ちにされる。地球にはもう時間は残っていない。

4.フクシマの真実が明らかになる。地球にとって破滅的なこと。有毒な水が魚や植物に影響する。ニガヨモギ?

5.2014年の中後半にマグニチュード9.0より大きな地震が発生する。それがさらなるフクシマの問題を引き起こす。

6.記録破りの地震が中国で発生。旅行を3つの大きな火山が妨げる。

7.水、洪水、暴風雨、今までの記録にないような天候に関する問題。日本、中国、韓国、そしてさらにロシアで。恐らく気象テクノロジーがそのエリアで使用された。

8.破壊されたダム。壊滅状態となりそうなエリアでは前もって避難させられる。よく知られているダムだ。

9.ロシアから、パキスタン、中国、カザフスタンに渡る大地震。それは中国とフィリピンの海岸に多大な津波をもたらす可能性がある。

10.世界は日本の2011年の津波よりもさらにひどい津波を経験する。

11.ニュージーランドの新聞の見出し。多くの鯨が海岸に打ち寄せる。魚の洗浄。ソナー?

12.人魚たちが腹を立てている。2014年の嵐は今後の10年に経験するものを垣間見せる。期待する場所に準備すること。準備が鍵。

13.アメリカで6つか7つの竜巻が同時に発生する。それはあらゆる場所で起こる。今まで起こらなかった場所でも。

14.これまでに経験のない暴風雨、アリゾナ、カリフォルニアで洪水。橋や道路は流される。強い流れで助けを呼ぶ声はかき消される。メルボルン、タスマニア、ニュージーランド、フィリピンがこのことに言及する。

15.サマータイムの時期に3-4の州で起こる熱乾燥、森林火災。多くのキャンパーの姿が見える。

16.オーストラリアの極、南極、ポールシフトが起こっている。温暖化と寒冷化が同じ場所で起こる。奇妙な問題。亀裂は私には感じられない。

17.アフリカの問題、暴動、政権交代

18.今後数年間、世界の指導者たちの権力乱用についての論争や暴動を多く目にすることになる。それは否定的な意見を上回り地球にとってはよい方向へシフトする。人口は電力を盗む。独立戦争の始まり2014年から2015年。

19.2014年後半の北朝鮮論争。おかしな新聞の見出し。アドルフ•ヒトラーに近い考え方。人質を取っている。戦争を望んでいる。そのエネルギーはHitleryを感じる。(※Hitleryはヒラリー・クリントンのことだと思うが、正しくはHillary。この後のヒラリーについても全てこの綴りとなっている。)

20.誰かが公共のニュースで首を切られる。北朝鮮か中東アルカイダかもしれない。

21.22.に関しては記載なし

23.ヒラリー・クリントンに関する何か

24.時期アメリカの大統領、ヒラリー・クリントン。イルミナティ、NWOでその役割を担う。だがジョーはクリントンはかっこよくてNWOの一員ではないと言う。笑わすなよジョセフ・ティテル。彼は、リーダーとして彼女を受け入れるが米国とその他の国に利益をもたらすと言っている。ジョーは彼女が好きなようだ。ジョーはイルミナティは彼女を許可しないと言っている。
(※この項目はほとんどが書き取った人の感想のようである。ジョーはティテルのことを指す。)

25.精製プラントの爆発。alaska californiaの近く。(※アラスカとカリフォルニアは離れているのでちょっと意味不明)

26.南極の掘削に関する論争。神よ地球をあわれみ給え。

27.昨年の予言で言ったように、政府が長い間隠してきた他の惑星の他の生命についてのことがいよいよ明るみに出る。彼らは地球のことも地球に高度な生命体が存在していることもしっている。彼らは友好的だ。

28.ワシントンDCでは地震による火災のリングのニュースがずっと新聞の見出しを飾るのが見える。

29.金価格の低下。株式市場でもいくつかの銘柄が急落。それは夏の6月7月。心配なことではあるが、買いのタイミングとしては悪くはない。しかし、アメリカは他の国に遅れることとなる。

30.新年は新しBANG bang とともに始まる。アメリカの雪と嵐。異常気象による食糧や作物の価格の上昇。

31.2014年には極めて重要な宇宙探査。ロシアと中国の宇宙ステーションで立ち往生。生命の危機。衛星の爆発、宇宙デブリの問題。

32.学校やショッピングモールに潜在するもの。番号32か23に関するもの。おそらく11月中に、ふたをひっくり返す人々。イギリスかロシアの可能性。これら悲劇により多くの人々がおかしくなる。自殺も2014年に増加。

33.1月11日という早い時期に大きな地震。3つから4つの破滅的な地震。2つの大きな津波。
(※ end of march というのが最初にあるのだが、この意味が不明。3月の終わりだとすると1月11日との関連がわからない。marchは国境の意味?あるいは何かのスペル間違い?)

34.アラスカが見える。海岸線。ジョーはそれが石油会社でなければよいがと言っている。

35.数千の死んだ魚が浮いて、腐臭を発している。ジョーは瞑想で臭いを感じることが出来るようだ。暖かく、暑い地域。化学物質の流出が原因の可能性。


以上








「人類の良識と国際社会の常識」

2014-01-15 07:01:05 | 日本

アゴラの長谷川 良さんの指摘が面白い。
以下、要約し記す。


中国の王毅外相は1月9日、アルジャジーラのインタビューで日本の安倍晋三首相の靖国神社参拝に言及し、「日本は人類の良識と国際社会の常識を尊重すべきだ」と述べ、安倍首相を批判したという。日本メディアのこの記事を読んだ時、冷戦時代の旧ソ連・東欧諸国共産政権のプロパガンダを想起した。

それにしてもよく言えたものだ。その腰の据わったプロパガンダ戦略には驚きを禁じ得ない。

中国共産党政権の実態はどうだろうか。

まず「人類の良識」というが、法輪功信者の臓器を生きたまま取り出して必要とする党幹部に移植してきたのはどの国だったか。不法な臓器移植問題を法輪功の信者から聞いた時、当方は信じられなかった。なぜならば、旧ソ連・東欧共産政権下でも聞いたことがない内容だったからだ。

欧州議会は昨年12月12日、中国の人体臓器の奪取(臓器狩り問題)について、即刻止めるよう中国政府に求める決議を可決している。

大紀元によると、決議案には「宗教・信条を理由に投獄された多数の法輪功学習者や少数民族を含む収監者から、中国政府の指示で組織的な人体の臓器奪取が行われていることについて、信頼できる報告書が継続的に出されていることに強い懸念を示す」と記されている。

「中国政府は死刑囚の臓器を移植用に摘出することについて、2015年までに段階的に廃止すると2013年8月発表しているが、欧州議会はこれを受け入れられないとし、即刻停止を要求している」(大紀元昨年12月15日付)というのだ。

不法な臓器売買、移植は明らかに「人類の良識」とは一致しないばかりか、残虐な犯罪行為だ。

次に、「国際社会の常識」はどうだろうか。チベット自治州への弾圧と同化政策は、国際社会の常識である「人権」と「少数民族の権利」とは一致しない。「信教の自由」はどうか。官製の聖職者組織「愛国協会」は存在するが、ローマ法王に信仰の中心を置くカトリック教徒は弾圧され、地下教会の聖職者は拘束されたり、刑務所に送られている。

中国共産党政権は市場経済を導入して国民経済を発展させてきたが、「国際社会の常識」の「人権」の現状は依然後進国と言わざるを得ない。ちなみに、欧州連合(EU)は中国の国民経済を「市場経済国」とは認知していない。

その中国が安倍首相の靖国神社参拝を「人類の良識と国際社会の常識」に反しているとして批判したのだ。このような批判は共産党政権しかできない政治文化だ。実際は、中国ほど「人類の良識と国際社会の常識」からほど遠い国はないのだ。











「中韓の崩壊を招く靖国非難」

2014-01-14 07:09:30 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。



知性、品性、霊性の三本柱のバランスが取れた人格が素晴らしいのは言うまでもない。

私はいつも人財教育の目標にしている。この三本柱で最も尊ぶべきものは「霊性」だと確信している。

日本人として人間としてそうであるように、国家全体についても同じことが言える。国家の霊性が問われるのである。この霊性とは魂の領域である。霊性が美しく輝いてこそ知性も品性も豊かに輝く。

それでは、この霊性はどのように形成されるか。

個人に於いては日々の祈り、祭祀、禊を通して霊魂(みたま)の岩戸開きがなされ、霊性が発揮される。国家に於いてもそうである。天皇の宮中祭祀、全国の神社、仏閣での大祭、供養、法要行事、庶民に至っては数々の年中行事。

そして最も忘れてはならない大切な霊的行事は、国家の為に亡くなった護国の霊魂、即ち英霊たちの鎮魂祭祀なのである。これらを日々執り行うことにより、国家及び人々の霊性は高まる。

安倍首相が昨年末、靖國神社を参拜された。また毎度のように中韓が吠えまくっている。今回は米国まで同調している。そして結論的に思ったことは、中韓米の霊性があまりにも低いということであった。

日本は神道の力で霊性を高めて来た。しかし中、韓にはそのような土台がまるで無い。儒教は霊性を保証してくれない。霊性が低いから平氣で嘘を言うし、他人のモノを盗むし、人も殺すのである。靖国神社に土足のままで踏み込んでくる様は、まさにそれを物語っている。

彼らは知るべきである。靖國神社及び参拝を非難すればするほど霊性は増々低下し、知性も品性も落ち、国運は下がり続け、いずれは国家の崩壊を招くことを。反対に我が国では参拝すればするほど国運は上がり、逆に世界平和に貢献できる。

安倍首相、負けないで欲しい。今年は十回ぐらいお参りしたらいい。








「靖国参拝で日本が孤立か?」

2014-01-13 10:01:17 | 日本


古森義久さんが、「靖国参拝で日本が孤立かは歪曲報道だ。むしろ日本を擁護する東南アジア諸国の声を報道すべし」と題した論文を出した。
以下、要約し記す。


2013年末から2014年の冒頭にかけて、安倍晋三首相の靖国神社参拝が内外に大きな波紋を広げた。この参拝を中国と韓国の政府が公式に激しく非難した。米国のオバマ政権も「失望」を表明した。ロシアやEUも政府や議会のレベルで批判の声明を出した。

日本の主要メディアでは、こうした「点」をつないで、「日本は安倍首相の靖国参拝のために世界で孤立した」(朝日新聞の再三の論調)と断じるような論調が多い。
だが本当にそうだろうか。

太平洋戦争の激戦地、東南アジア諸国の反応はどうであろうか?

靖国神社と一体化して語られる日本の軍事行動の肝心の舞台となった東南アジア諸国はどうだろうか。靖国神社が日本の対外的な軍事行動を象徴すると言うのならば、東南アジアこそ日本の首相の靖国参拝に最も激しく反発するはずだ。ところがそうではないのである。東南アジア諸国からは、政府レベルでの今回の首相の参拝への非難は1月7日の現在にいたるまでまったく出ていない。

中国や韓国のように政府の公式声明として糾弾した国は東南アジアでは皆無なのだ。民間でも安倍参拝非難はほとんど出ていない。この事実は日本側としても正確に認識しておくべきである。
アジアの多数の国家の中でも、歴史問題を理由に日本を糾弾し、特に靖国問題で政府として日本を非難し続ける国は中国と韓国だけである。そんな実態が今回の動きでも立証されたと言えるのだ。

繰り返しとなるが、安倍首相の参拝の12月26日から10日以上が過ぎた1月7日までに、政府が公式の声明や言明でこの参拝を非難したアジアの国家というのは東南アジアでは皆無である。インドやパキスタンを含む南西アジアでも同様なのだ。

この事実こそ大ニュースだろう。「日本が世界で孤立」などといった断定はとんでもない間違いだということだ。
ただし、東南アジアでも民間レベル、つまり報道機関がその国の識者の論評を伝えるという実例はある。だがその論評も日本への理解や同情を見せるケースが多いのである。

そのような最新の動きとして、フィリピンのフィデル・ラモス元大統領が1月4日に発表した見解がある。

ラモス氏はフィリピンの大手紙「マニラ・ブレティン」へ「アジア・太平洋の冷戦」という論文を寄稿し、中国などが安倍首相の靖国参拝を非難していることを踏まえたうえでの見解を示した。論文では、中国の政府や官営メディアの安倍首相への非難を紹介したうえで、次のように述べている。

「第2次世界大戦での日本の占領下で苦しんだ国民として、フィリピン人も最近の中国人たちと同じように(日本への)憤怒や敵意を爆発させるべきではないのか? 確かに私たちも過去には苦い思いを抱いている。しかし私たちは今後のより良き将来を怒りの継続によって危うくしたり台無しにしたりすることは決して望んでいない」
つまり、日本の首相の靖国参拝に対して、中国のような「憤怒や敵意を爆発」させはしない、と述べている。ラモス氏は、「よりよき将来のために」過去の戦争の歴史からくる怒りなどを保ち続けることはもうしないのだ、と強調する。だから日本の首相の靖国参拝も特に糾弾はしないというラモス氏の姿勢は明確な「未来志向」である。

ちなみに第2次大戦ではフィリピンは全アジアでも最激戦の地となった。「戦争の苦しみ」を日本側にぶつけるのならば、最もその理由があるはずの国なのだ。

ラモス元大統領は論文の冒頭で以下のようにも書いていた。
「中国と日本との間での激しい言葉と挑発的な行動の戦いは、なお緩むことなく続いている。もちろん私たちはアジアのこの強大な2国の身構えを外交筋や一般メディアの伝える範囲内でのみ見ているに過ぎない」

「竹のカーテンの内側で起きていることは普通の観察者には分からないが、たぶん地域の政治影響力の争いで、相手の立場を骨抜きにしようとする試みがあるのだろう」
だから靖国問題も表面の動きだけを見ず、その背後や水面下にある政治の戦い、相手の政治力を弱体化しようとする意図を見抜かなければならない、というのである。中国が靖国非難をする際の「戦争美化」や「軍国主義復活」といった糾弾の言葉だけでなく、背後の政治的な意図や戦略を読め、とも強調するわけだ。

日本を擁護するインドネシア、シンガポールの報道は如何に?

東南アジア諸国の安倍首相の靖国参拝への反応が中韓両国とは異なり冷静であることは、1月4日付の「産経新聞」でも詳しく報道されていた

読売新聞記者としてインドネシアやインド、米国などの駐在特派員を務め、2013年12月に産経新聞に移ったばかりのベテラン記者、黒瀬悦成氏による報道は、ベトナム、インド、インドネシアなどでも政府レベルでの靖国参拝批判はまったくないことを伝えていた。

産経新聞の同報道によると、注目されたのはインドネシアで最も影響力のある新聞の「コンパス」が12月28日の社説で「靖国問題で自らを被害者と位置づける中国と韓国の主張は一面的な見解だ」として日本への理解を示したことだった。

コンパス紙の社説は、東シナ海での日中間の緊張が高まっているこの時期の参拝は「適切なタイミングではなかった」としながらも、今回の参拝は、戦死者の霊に祈りを捧げ、日本国民が再び戦争の惨禍に苦しむことのないように取り組む決意を伝えたものだとする「安倍首相の見解」を紹介していたという。

産経新聞の同報道によると、コンバス紙の社説は「靖国神社には、現在は戦争犯罪者と見なされている数百人だけでなく、戦争の犠牲となった約250万人の霊も祀られている」と指摘し、国に命を捧げた人々のために参拝することは日本の指導者として当然だとする安倍首相の立場にも言及した。

さらに黒瀬記者はシンガポールの「ストレート・タイムズ」紙の論調を伝えていた。それは以下のような骨子のものだった。
「安倍首相が参拝に踏み切ったのは、これまで摩擦を避けようと終戦記念日や春秋の例大祭で参拝を見送ったにもかかわらず、中韓両国が強硬姿勢を崩さず、冷え切った中韓との関係に改善の見込みは少ないと見切ったためだ」

つまりストレート・タイムズは、中韓の日本敵視政策が逆に参拝の呼び水になったという見方をしているのである。

以上のように、アジア諸国の安倍首相の靖国参拝への反応は中国、韓国とは異なることを我々日本人は知っておくべきだろう。








「日本は“追従外交”から脱皮せよ」

2014-01-12 08:12:49 | 日本

アゴラの長谷川良さんの「日本は“追従外交”から脱皮せよ」の論文は実にとそ通りである。
以下、要約し記す。


ヘンリー・キッシンジャー氏(米元国務長官)が「外交は国益を守ることだ」と端的に述べている。その通りである。国際平和実現を憲章とする国連の外交舞台も加盟国間の国益外交の場である点では何も変わらない。国益を無視、ないしは犠牲にして他国のために行動する外交官はほぼ皆無である。

安倍晋三首相の靖国神社参拝では、中国、韓国、そして米国から批判の声が届いている。中韓の批判は想定内だろう。両国の批判は自国の国益を露わに表現したものである。特に、中国の反日は国内問題への批判をかわすため国民の愛国心を鼓舞する狙いがあるはずである。日本人国民にとって、少し驚いたのは同盟国と信頼してきた米国がケネデイー駐日大使を通じて「失望した」というメッセージを発信してきたことである。しかしそれは逆に、日本国民こそ米国の姿勢に少なからず「失望」したのである。

ただし、米国の参拝批判も国益主導外交の例外ではない。アジア地域で覇権拡大する中国を刺激したくない、といったオバマ政権の対中政策に基づくものである。ただし、小泉純一郎首相が靖国神社を参拝した時、米国は黙認していた。その意味で米国の靖国神社への立場は一貫性がない。誤解を恐れずに言えば、「靖国神社の参拝など米国にとってどうでもいい」わけである。時の政情次第でその対応を変えるのはそのためだろう。

首相の靖国神社参拝を批判する日本のメディアや知識人たちは「首相の靖国神社参拝は日本の国益に反する。国際社会から孤立させる」と批判するが、ここで考えてもらいたいのは、外交は決して国際社会の総意に同調することが即、国益を守るわけではない、ということである。なぜならば、国際社会は自国の国益堅持を最優先する加盟国が集まった集団に過ぎない。状況が変われば、彼らの政策も変わるのである。

もちろん、国際社会の総意に反する政策や行動はしんどいことだが、日本は戦後、大国・米国の外交の後ろにあって、米国に従えば良かった。だから、独自外交を開発するチャンスもなかった。安全な岸に立って、「平和外交」「平和憲法」と叫んでいれば良かった。しかし、いつまでもそれでいいということはない。冷戦時代は終わり、グローバルな世界で、米国の国益がいつも日本の国益と一致する保証はなくなってきたからだ。

そこで戦後から続いてきた米追従外交から脱皮し、独自の日本の国益に合致した外交が求められてきた。その意味で、安倍首相の靖国神社参拝は絶好の機会である。靖国神社参拝後、日本が不戦の決意、国際社会への協調などを述べた安倍首相の談話を世界に発信、伝達すべである。これこそ現在、求められている日本の外交である。すなわち、世界に日本の考えを積極的に発表し、その同意を求めることが重要である。

独自外交を展開するなかで相手国の真意を把握、必要ならば修正するなど試行錯誤はあるだろう。しかし、日本がいつまでも追従外交を続けている限り、日本が国際社会から真の認知を受けることは難しい。安倍首相の靖国神社参拝を日本外交のパラダイム・シフトの時として利用すべき時が来た。









「首相が国のために戦死した兵士に敬意を表して何故悪い!」

2014-01-11 06:59:48 | 日本

アゴラの北村隆さんが、「首相が国のために戦死した兵士に敬意を表して何故悪い!」の論陣を張った。その通りである。
以下、要約し記す。


何処の国でも常識とされている「国の為に倒れた戦死者へ敬意を表する」事を、安倍首相が行なうと内外からとんでもない事だと批判される理由は誠に不可解である。

冷戦時代のソ連当局は共産主義とその社会を賛美する日本の進歩的文化人の様子を歓迎しつつも、内心ではその愚かさを軽蔑し「役に立つ馬鹿(useful idiots)」と呼んで冷笑的に利用してきた。

歴史は繰り返す。朝日や毎日に代表される「リベラル派」のマスコミや「進歩的文化人」の生き残りグループは、今や「中韓両国」にとって格好の「役に立つ馬鹿(useful idiots)」に成り下がっている。

それぞれの信奉する外国の思想を賛美し「それを可能にしたのは何故か?」と解説する事を生業とする戦後日本のインテリグループが、「進歩的(良心的)文化人」と称された集団であり「役に立つ馬鹿(useful idiots)」であった。

その集団には、戦後政治思想の世界で神格化された丸山真男教授を含む、人格、識見並々ならぬ人々がいたが、このグループが決定プロセスの是非を延々と論議する為に「日本の優柔不断風潮」を招く大きな原因ともなった。

現在でも、一部の医者、弁護士、大学教授らが声高に唱える「平和主義」や「九条の会」「非武装中立」「武器三原則」「集団的自衛権拒否」などはこの係累に属し、この人たちが安倍首相の靖国参拝に拒否反応を起こし、参拝を巡って国内が感情的に対立する一因になっている。

靖国参拝を巡って日本を世界の孤児、そして侮蔑的国家に仕立て上げてきたのも、実はこれら進歩的文化人なるものの「自虐史観」であって、安倍首相の責任ではない。

「靖国で会おう」と言って、国家の為に倒れた戦士の意思を無視して千鳥ヶ淵に行けば良いと言う人もいるが、これは戦死者に対して誠に無礼な要求で、千鳥ヶ淵に行くのは阻止しないが、だからと言って靖国に御参りに行ってはならないということにはならない。

それこそ「進歩的文化人」が「金科玉条」の如く掲げる思想信条の自由を束縛するものである。

国民は寧ろ、首相とともに靖国神社に参拝し、犠牲になった方々に祈りをささげ不戦を誓いそのことを諸外国に伝えるべきで、諸外国から批判される筋合いはない。

A級戦犯の合祀については、戦犯のA級・B級・C級という区分は、「C級よりA級の方が重大」という意味ではなく、ナチス断罪の関係もあり、A級の「平和に対する罪」を「人道に関する罪」のC級犯罪より重視した検察の主張が前面に出て、「C級よりA級の方が重大」だと言う印象を与えてしまったにすぎない。

その証拠に「C級戦犯」で死刑判決を受けた人がいる一方、「A級戦犯」でも比較的短い有期刑で終った人もいる。海外からの批判には、この間の事情と日本の立場を辛抱強く誠意を持って説明していくと言う安倍首相の説明は正しく、日本人が首相の脚を引っ張るなどはもっての他である。

決して靖国参拝支持者ではない池田信夫博士までが「東京裁判は敗戦国の指導者を殺すための儀式であり、公平もへったくれもない。国際法には、法の支配はないのだ。」と書いている。

韓国が日本批判のモデルとするドイツでも、ナチスの不法体制を専門的に支えた官僚や知識人、ナチス党の財政的後ろ盾となった銀行家やコンツェルンの代表者等々は、ナチスの主要戦争犯罪人被告がニュルンベルグ裁判で追放された後に、続々復権している。

この事実からも、日本だけが狂っていると言う主張には根拠がない。

謝罪外交はマイナスしかない。言うべきことを言う。当たり前のことを、当たり前と主張し相手を辛抱強く説得するしか道はない。

そもそも海外では経済以外に日本に興味がなく、毅然とした態度を取らずに損得勘定による判断で過ごせば、日本は益々海外からの尊厳は得られない。

以上、自説に拘らす「安倍首相靖国参拝支持論」を出来るだけ客観的に代弁したつもりだが、このまとめで問題があるだろうか?









「安倍総理の参拝が意味するもの ⑤」

2014-01-10 07:11:20 | 日本

・国柄を破損する暴力性

日本では、神道・仏教・儒教がそれぞれ混然と発展しながら、政治と分ちがたく結びついてきた。そうした我が国の伝統的な政教の絡み合い、睦み合いの中心に天皇という伊勢神宮の祭神の末裔がおられ、今日でも天皇の御務めの最も主要な部分は祭祀である。もし「政教分離」を芦部氏や最近の判例のように厳格に規定するならば、そもそも天皇の御存在そのものが「政教分離」違反の違憲になるではないか。天皇の御存在と、世界でも類のない厳格な政教分離規定は、そもそも矛盾するのである。その天皇伝統と、時々の政治権力とが複雑に絡み合い、それが、日本人の末端に至る政治生活、宗教生活、習俗と様々に交叉し、共鳴し、日本社会の精神生活は形成されてきた。一筋縄ではくくれない無限に複雑な歴史的現実がある。そうした複雑な歴史的現実と近代国家としての骨格をどう調整するか、憲法は本来ならその観点から制定されなければならない筈であった。憲法制定については、GHQ民生局の法律の素人が10日で作ったことがしばしば難じられるが、現実問題として遥かに深刻なのは、彼らアメリカ人が、日本の国柄=constitutionを全く知らずに条文を作成したことの方である。その上、この20条は、彼らが戦前の国家神道を誤解した上でその壊滅を含意して作った条文だ。本来のconstitutionの原義に立ち返れば、憲法の条文そのものが明らかに「違憲」なのである。

そして、本来の我が国の国柄から導かれたのではない条文、我が国の歴史的現実と近代国家とを調整する意図を最初から持たない条文が、独り歩きして、我が国で続いてきた政教伝統や習俗を逆に裁く。いや、先ほど見た通り、実際には裁判官や憲法学者の恣意が、我が国の伝統や習俗、国柄そのものをさえ裁くことになる。70年近くも、司法と法学の最高権威者らが、そんなことを真面目で丁寧な議論をしている振りをして、続けてきた。その知的腐敗は眼を覆うべく、その司法権力や学界の権威としての、国柄を破損する暴力性は、穏便で客観的な学問上の権威で偽装されているだけに、眼に見える革命政権の暴力などよりも遥かに国民を欺くものと言わねばならない。何とたちの悪い話だろうか。


・祀られた神々との対話

しかし、こうした司法の横暴とは別個に、政治の世界では、三木の後、歴代総理が、私的参拝と言いながらも、8月15日の参拝を続けた。今当時の新聞紙面を振り返ると、その不快たるや言語に絶する。首相が参拝する度に、公式だ、私的だ、どっちにしたって政教分離違反だ、軍国主義の復活だと一面五段ぶち抜きの大見出しで、靖国そのものを祀られている230万の英霊を冒涜し続けてきた。

こうした法曹界とマスコミの挟み撃ちに業を煮やしたのが中曽根康弘氏であった。中曽根氏は首相の公式参拝を有無を言わせぬ形で定着させようとした。その為に「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」を設置し、公式参拝を是とする報告を纏めた上で、昭和60年の8月15日に、「内閣総理大臣としての資格」で参拝した。ところが、その後にとんでもないことをしでかす。中国の抗議を受けて、参拝を取り止めてしまったのである。中曽根氏の他の全ての実績が吹き飛ぶ、万死に値する腰砕けであった。

ご本人はいまだにしれつとした顔で、「家族ぐるみの付きいのあった耀邦主席から参拝を遠慮してくれないと中国の収まりがつかないと懇願されたから取り止めた。親日政権をつぶすわけにはゆかない。これが大人の外交だ」と言ってのける。日本の首相の靖国参拝で中国の政治家が本当に失脚するならば、これは見物と言うのだろう。騙されたのか、開き直っているだけか知らないが、この中曽根氏の言いぐさには全く言葉を失う他ない。以後、靖国参拝は、日中間の最大の問題、それも日本が屈服し続けるという常軌を逸した外交問題であり続けることになってしまったのである。

だが私は今ここで氏を改めて断罪しようとは思わない。中曽根康弘個人が駄目だというよりも、戦後日本人の精神的、霊的な不感症が、中曽根氏という政治家において露呈したに過ぎないからである。日本人の死生観の深さ、霊的感受性と敬虔さ、靖国の英霊への真の祈り(戦後日本のそうした精神生活の不在が、法曹界の政教分離解釈や一連の靖国判決となり、マスコミの売国騒ぎとなり、三木氏、中曽根氏らの腰砕けとして現れた。それが、今や外国からの干渉に振り回され、日本の政府と皇室は完全に自由な言動を奪はれ、そんな異常な屈辱を、国民の多くはどれ位異常かさえ感じられなくなっている)

我々が帰るべきはただ一つ、「靖国の神学」であり、英霊の御霊との霊的な交流への強い信仰である。そこがしっかり取り戻せない限り、靖国は問題であり続け、屈辱的な敗北を重ね続ける。

我々は靖国で何に出会うのか。英霊の御霊である。つまり、靖国に御参りするとは、祀られた神々との対話である。祀られた英霊に対して国安かれと祈る。霊的な国の加護を祈る。靖国の神力を深く信じて祈る。そしてまた、一方で、今生きている、生者の側として責任をもつて国を安泰にし、発展させ守ってゆくことを神々に御誓い申し上げる。捲土重来の意味をどう我々が受け止めるかを、本当に我々の国作りの一番根本に据えて自問自答し続ける。これが靖国という場の意味である。
だからこそ、日本の政治リーダーである総理大臣が靖国に公式参拝して、国民に率先してそれを示すべきなのである。それも春秋例大祭と並び、どうしても8月15日の参拝を習はしとしなければならない。ここまで書いてきたように、靖国の在り方を完成させたのは大東亜戦争だからである。

「爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも」
言うまでもなく、昭和天皇の御製である。大東亜戦争に賭けられた英霊たちの思いと、それを受けながら、ついに御決断された終戦……。その交点が8月15日である。この日の正午に玉音放送を国民が共有した、この瞬間を、総理が、そして近い将来には天皇陛下御自身が、靖国で祈られる、それが「靖国の神学」の継承であり、日本が本当の意味で己を取り戻す第一歩なのである。


・保守の最優先課題

最後に、総理大臣による靖国参拝を現実化する上で、具体的にどうするのか。
以下、私案を述べる。

一つ目。中曽根内閣の靖国懇の報告を、中曽根氏自身が無効にしてしまったことは既に述べた。その後の、靖国神社を巡る蹉跌の歴史は悲惨の一語に尽きる。が、これだけ敗北し、糞味噌にされ続けてきただけに、反撃の方針を立て易いとも言える。その強い決意のもとで、安倍内閣は新たな靖国懇を立ち上げ、改めて、特に「政教分離」についての司法界のいびつな靖国バッシングを厳に退け、世界の常識と、我が習俗・国柄の双方に則つた正常な解釈を示し、外交的圧力に一切屈しない方法論まで含めた報告を纏めるべきではないか。


・二つ目は靖国参拝の国民運動化である。

総理に参拝を要求する以上に、私たち一人一人がもつと靖国に真剣に参拝することである。それを保守の最優先課題にしたらどうか。毎日何万人もの保守愛国者が陸続と靖国参拝を続けたら、靖国の英霊が応えない筈がない。更に、例えば、この運動の簡略な会員化を図る。現在推計約600万人とされる年間参拝者の1000万人突破などを目標に運動を展開する。更に、『英霊の言乃葉』の学校教材での採用、総理大臣の8月15日参拝の法制化、及び「政教分離」に関する司法の判断への国民の側からの従来にない独自の異議申し立て、外国の圧力に政府が毅然とした態度を示さないならば、民間で激しい不買運動や国交義絶運動を展開するなど、やろうと思えばできることは色々ある。政府には大人の外交を求めるが、民間はもつと乱暴でなければならない。公家の姫様みたいな穏当な調子で、国辱を跳ね除けることなどできる訳がないではないか。

一方、我々言論人は外に向かって勇敢であるだけではなく、内面に向かって問い続ける思想の営みにおいても勇敢でなければならない。すなはち、「靖国の神学」の構築に本格的に挑むべきだと私は思っている。これこそは、「戦後」とは何かという今日までどうしても終止符を打てないできた問いに終止符を打つ為の必須の作業だ、英霊の言葉に耳を澄まさずして、「戦後」など、本来あり得なかつた筈なのである。




<了>








「安倍総理の参拝が意味するもの ④」

2014-01-09 08:26:42 | 日本

◎第三の論点、歪められた日本人としての記憶

戦後、久しい間、実は、靖国神社には、昭和天皇も繰り返し御親拝され、また、吉田茂首相以来、歴代首相の参拝も何の滞りもなく行われてきた。従って靖国を巡る状況だけを見れば、昭和40年代は、今よりノーマルだったとも言える。しかし、日本国全体としてはどうだったのか。マスコミや学界は、総出で、戦前の日本を軍国主義と決め付け、全否定し、記憶を歪め続けた。教育は自虐史観とマルクス史観のごった煮、国民は、ひたすら経済成長と個人の幸福追求だけに励み、日本人としての記憶を全面的に失ってしまった。その中で、靖国の祈りも、靖国という神学も、要するにまるで顧みられなかった。たった数年前、10年前、20年前に230万の英霊が国の為に命を擲ったその覚悟、その誓い、生者に託された祈りを、我々はまるで見ないやうにして、生を盗んできた。 かうして、ついに、記憶と誇りを失ってまで手に入れた繁栄にうつつを抜かしてきた戦後日本人の心の腐食が、「靖国の神学」ではなく、「靖国問題」として大々的に表面化する時が来る。

昭和50(1975)年、三木武夫氏が歴代首相で初めて8月15日に靖国に参拝した時に、それは端を発する。それまで歴代首相の参拝は春秋例大祭が中心でした。三木氏はわざわざそうした慣習を覆して8月15日に参拝した。靖国の本来の面目は、大東亜戦争によって明らかになったと言ってよい。とりわけこの戦争の時に英霊たちが靖国で相会することを誓いあって散華したのだから、例大祭と別に8月15日に参拝することには本質的な意味がある、三木の英断だと言いたい。

ところが、三木は、せっかく8月15日に参拝しておきながら「参拝は、公人としてか、私人としてか」という記者団の質問に、「総理大臣としてではなく、私人としての参拝だ」と答へてしまう。総理たる者が、総理以外の資格で国の為に命を落とした御霊の慰霊に訪れるなどといふ非常識な話が世界中であるわけがない。


・曖昧且つ極端な憲法の規定

もちろん、こんなくだらないやり取りが出て来るのは、ここに政教分離の問題が絡んでくるからだということになる。これから一応、論破はしておくが、そもそも、行政の長が伝統的な慰霊施設に、憲法が障害となって自由に参拝できないなら、そんな憲法は憲法として成立していない、これ以上言うことは本当はない。風呂屋の看板に男湯と書いてあるが、中を覗くと全員女が入っている。これは間抜けな看板屋(GHQ憲法草案作成者)が看板を掛け間違えたからだ。ところが、この偽看板を直せないと思い込み、中の女を男とみなすと言ってみたり、既に何十人も入っている女を追い出して、男湯と入替へようとしたりして、混乱の上に混乱を重ねてきたのが、戦後日本の風呂屋の番台(東大憲法学)である。要するに、日本国憲法というのは間違いだらけの風呂屋の看板である。

政教分離とは何か。憲法20条と89条が法的な根拠となっているのはよく知られている。

(憲法20条)
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

(憲法89条)
「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため(略)これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

これらの条文に基づく「政教分離」規定について、東大憲法学のバイブル、芦部信喜『憲法』第四版には次のような三つの主要形態があると書いてある。

(1)国教制度を建前としつつ国教以外の宗教に対して広汎な宗教的寛容を認めるイギリス型。
(2)国家と宗教団体とを分離させながら、国家と教会とは各々その固有の領域において独立であることを認め、競合する事項については政教条約を締結し、それに基づいて処理すべきものとするイタリア・ドイツ型。
(3)国家と宗教とを厳格に分離し、相互に干渉しないことを主義とするアメリカ型。

かう書いた上で、芦部は実にさらりとかう言ってのける。

日本国憲法における政教分離原則は、アメリカ型に属し、国家と宗教との厳格な分離を定めている。

芦部は、この一文に何一つ注釈をつけず、話を前に進めてしまう。信じ難い事である。

第一、条文そのものが、アメリカと日本では全く違う。日本国憲法は先に紹介したが、アメリカ合衆国憲法の政教分離規定は、次の修正第一条である。
合衆国議会は、国教を樹立する法律もしくは自由な宗教活動を禁止する法律(略)を制定してはならない。

アメリカ憲法のこの条文は、簡潔で誤解の余地はない。個人の信教の自由を定めたものに過ぎない。ただ、アメリカの政教分離が他のヨーロッパ諸国より厳格だというのは、建国後の不安定な情勢下、宗派争いの確執を防ぐため、国教の樹立を否定した点を指すのではないのか。少なくとも芦部氏の三種の分類を見る限り、そうとしか読めない。にも関わらず、芦部氏はこの後「国家と宗教との厳格な分離」という言葉を欧米キリスト教社会から独り歩きさせ、いつの間にか、アメリカの憲法が禁止してもいない水準の「厳格な分離」を日本国憲法に要求していく。

それには都合のよい事実がある。日本国憲法の規定が、実に複雑、曖昧且つ極端だという事である。日本国憲法の内、アメリカ憲法に該当するのは、20条1項の前半と、2項だけである。日本社会は、様々な宗教が混然と政治と関係しながら成熟してきた。欧米同様、政治と宗教とを完全に峻別などできる筈はない。「国及びその機関」は「いかなる宗教的活動もしてはならない」とあるが、これを厳密に適用したら、政治から精神生活や伝統をすべて排除せよという、日本の国柄そのものの否定になってしまう。逆に、「宗教活動」とは何かを問い始めれば、これ又きりがなくなってしまう。その上、「特権」とは何か、「宗教団体」とはどこまでを指すべきか、その「宗教団体」が行使する「政治権力」とは何を意味するかなど、概念が全般に余りにも曖昧である。これでは、政治と宗教の関係という国の骨組みに当たる部分で、裁判官の政治信条や不当な個人的裁量が幅を利かせる原因になる。

事実、現在まで何件も提訴されてきた靖国裁判は、実にナンセンスな判例の山である。例へば、愛媛県知事が靖国神社に玉串料を支出した件について、最高裁判決は「特定宗教への関心を呼び起こす効果を及ぼした」とし、「宗教活動」に当たると判示した(芦部前掲書157頁)。こんな事まで「宗教活動」にされたら、宗教団体への表敬訪問も全て駄目、宗教団体が経営する学校で式辞を述べるのも駄目、行政や立法関係者がブログや著書で宗教的な内容の記述をするのも駄目になる。

また、天皇陛下と総理大臣の靖国神社公式参拝を違憲とした大阪高裁判決に至っては、判決理由の中に、「国民の圧倒的合意」が出来ていないこと、更にはアジア諸国から反発と疑念が表明されたことが挙げられている。裁判は法的根拠を示すのが職分で、世論調査の数字や外国の意向などが判決の根拠になってよい筈がないではないか。
要するに日本国憲法の政教分離の条文はアメリカとは全く別物である。後者が個人の信教の保障であるのに対して、前者は政治への曖昧且つ極端な禁止を持ち込んでいるため、司法関係者が問題を複雑化しようとすればどんな結論でも引っ張り出せる非常に危険な条文なのである。

第二に、そもそも芦部の挙げた三つの分類は全て根っからのキリスト教社会である。キリスト教社会における政教分離規定は、社会に深く根を下ろしたキリスト教と近代の政治機構との調整を図るもので、両者の厳格な分離などではない。よく知られているように、アメリカ大統領はキリスト教徒である限り聖書に手を置き宣誓する。演説には、しばしば神の加護を祈り、神の栄光を称へる文言が登場する。アメリカ議会は聖職者の説法で開会する。議会と軍隊にはプロテスタント、カトリック、ユダヤ教の専属の聖職者がいる。

ただし、他宗教の者が祈りを強制されることはない。要するに政治が個人に宗教を強制しない、ただし、宗教伝統が政治に曖昧且つ深く関与している事態を否定などしない

それを、芦部氏は、アメリカの実情に全く触れず、アメリカでは「国家と宗教の厳格な分離」が行われているなどと実にあっさり嘘をつく。それどころかアメリカにおける判例の方が日本での判例よりも「厳格」だと思はせるような記述をもぐりこませる。その上で、日本国憲法の条文を最も厳格に解釈しようとする。
極端な本末転倒がここに生じる。









「安倍総理の参拝が意味するもの ③」

2014-01-08 07:22:47 | 日本

◎第二の論点は、靖国は近代日本の中核価値としての本質を顕わにした。


・国民の側が身を捧げて応答した言葉

靖国神社が発行している『英霊の言乃葉』つまり英霊たちの遺書がそれである。今、九集を数えるこの本を静かに通読してゆくと、どの頁にも、現代日本人よりもずっとしなやかで多様な精神の自由、国と己の運命への批評の自由を確保した人達の言葉を見出して驚かざるを得ない。自由な精神を少しも失っていないのに、一様に、自然に静かに清らに、国のための死を受容しているその言葉の佇まいに打たれざるを得ない。

政府とマスコミ挙げての戦意高揚と、これらの遺書に見られる静かな調子とは、むしろ対極にあると言っていい。これら英霊のどの遺書も、肩肘ばったあの硬直を微塵も示していない。そこには一貫して、全く不思議なほど、自由な精神、温かい人間性、正直な言葉だけが並んでいる。

この『言乃葉』を読むと人は泣く。私も涙なくして読めた例がない。しかし、何故我々はこんなにも心打たれるのか。古来世界中には、無数の戦争文学が存在する。しかし、こんなに胸から溢れる共感と嗚咽で、我々を満たし続ける戦争文学など、『オデュッセイア』であれ『平家物語』であれ、実際にあるものではない。

この力は何なのか。死にゆく者の実際の言葉だからと言うこともあるが、単にそれだけで、もちろん人はこんな風に心打たれるものではない。

英霊の遺書は、多く、国の為に死ぬと言うことは、天皇の為に死ぬことであり、それは大義の為だと語っている。が、天皇の為というのが洗脳の結果としての個人崇拝であるような遺書は見られない。狂信的なものはない。なさ過ぎると言えるほどである。矯激な、我一人真理を告げんと言わんばかりの調子のものも全くない。

そして、家族への感謝、先立つ親不孝への詫びの中に、しばしば「日本一の父上、母上だ」「君は僕にとつて日本一の妻だった」という家族への誇りが語られる。

もちろん葛藤はある。時に赤裸々な葛藤がある。あるいは葛藤を克服した後の晴朗さだけを家族に語っている者もたくさんいる。どちらも本当の言葉である。彼らは死を前に、名誉を語らない。近代的な戦争遂行システムとしての「顕彰」を胸に死にいく者はないようである。力みもなく嘘もなく、彼らは一様に、素直に自分を差し出す。ほとんど自然な笑顔で死を迎える彼ら。無限の慈しみ、無限の悲しみ……。どれ程後ろ髪引かれながらも、彼らは晴朗に死んでゆく。

何故それが出来るのだろう。一つ確かなことがある。どの英霊の言葉からも共通して浮かび上がるのが、一言で言えば、日本への一杯の愛情だという事である。それも私が今、冷房のきいた部屋で、完備された書籍と機械に取り囲まれながら「日本への一杯の愛情」などと書けば、それだけで汚してしまうような、言葉に置き換えにくい、余りにも微妙で透明、死を見据えた人だけの智慧と力に溢れた、日本への愛情である。

この迸る愛にこそ、おそらく人は打たれ、涙する。それは、「玉砕」とか「国威」、「神州の尊、神州の美」とか「悠久の大義」、「大君と愛する日本の山河」などと、彼らが使う単語やフレーズだけ抜き出してしまえば、消えてしまう。ところが、これらの言葉が遺書の中に戻ると、何と確かな他に置き換へやうのない絶唱として響く。

ある英霊は言う。

「玉砕してその事によって祖国の人達が少しでも生を楽しむことが出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事ができればと切に祈るのみ。遠い祖国の若き男よ、強くたくましく朗らかであれ。なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ」(言乃葉一、50頁)

また、別の英霊は、特攻の出撃前の遺書に言う。

「この日本の国は、数多くの私達の尽きざる悲しみと嘆きを積み重ねてこそ立派に輝かしい栄えを得て来たし、又今後もこれあればこそ栄えて行く国なのです。私の母上はこの悲しみに立派に堪へて、日本の国を立派に栄えさせてゆく強い母の一人である事を信じたればこそ、私は何の憂いもなしにこの光栄ある道を進み取る事が出来ました。」

硫黄島玉砕の栗林忠道中将の最後の電報も引こう。

「特に本島を奪還せざるかぎり皇土永遠に安からざるを思う、たとえ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。今や弾丸尽き、水涸れ、戦い残れる者全員愈々最後の敢闘を行わんとするに方り、熟々皇恩の忝さを思い粉骨砕身亦悔ゆる所あらず。」

英霊たちは皆、こういう死を死んだ。しかし、何故かういふ死を、皆が皆、きっぱりと死ねたのか。それは、残された者が、生き残って者としての全力で、日本の国柄を、死力を尽くして守ってくれることを信じきっていたが故ではなかったか。たとい敗戦になって(戦争末期の遺書は、その予感を強く感じさせるものが多くなるが)その後、光栄ある祖国の再建、東亜の解放という戦争の大義、そして何よりも日本人が引き続き立派な美しく強い日本人であり続けることを、信じたからではなかったか。「魂魄となっても」「護国の鬼と化さん」というようなことは、残って生者らが、生者として、捲土重来を期すことを信じ切っていなければ、書ける言葉ではない。

無数の遺書の自由な声が、共通してそのような調べを深く響かせているとすれば、これは確かな一つの思想と呼ぶべきではないか。いや、思想というよりも、神学と呼ぶべきではないか。

客観的に見るならば、歴史過程におけるすべての戦争は、正しいのでも悪いのでもない、ただ端的な戦争である。すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言ってもよい。

しかし、その「普通の戦争」のただなかに、或る「絶対的なもの」が、たちあらわれてくることがある。それは、おそらく世界の歴史を見わたしても、めったにあることではない。また、それは、そこに居合はせたすべての人に見えるものでもない。むしろ、ほんの少数の人の目にしか映らないと言えるかも知れない。けれども、それは何らかの形で、その同時代の人々、あるいはその後の人々にまで感知されうるものであつて、大東亜戦争のうちには、確かに、さうした「絶対的なもの」が含まれていたのである。(長谷川三千子『神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午』29頁)

明治初期、戦死した無名の民(おほみたから)を天皇政府が、神様としてお祀りしたのに対し、国民の側から進んで身を捧げて応答したのが、正にこれらの英霊たちだった。近代日本創建時に顕された国柄に、国民の側が死をもつて応答した時の言葉が英霊の遺文となった、ここに、民族の魂の神話的な相聞が成立する。靖国神社とは、このような相聞の場所である。大東亜戦争を通じて、靖国の本質が現れたと私が言うのは、そのことを指してである。







「安倍総理の参拝が意味するもの ②」

2014-01-07 07:36:57 | 日本

◎第一の論点「靖国神社創建の意義とは何だったのか」

靖国神社創建は明治維新に遡る。東京招魂社という名での仮宮での最初の祭祀は、明治2(1869)年6月、社殿の正式な落成が明治5年5月、靖国神社と改称されたのは明治12年6月の事である。しかし、明治天皇による創建御意向の表明は新政府発足の直後にさかのぼる。慶應3(1867)年12月9日に王政復古の大号令、翌年36月14日に五ヶ条の御誓文が公示され、新政府の政治方針が明らかにされた。その直後の5月10日、太政官府から発せられた「癸丑以来殉難者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」との布告に、既に明治天皇の御意向が示されている。「唱義精忠天下に魁して国事に斃れ候諸子及草莽有志の輩」を幕府側による「冤枉罹禍」から名誉回復し、「国家に大いに勲労ある者」の名が「湮滅」せぬよう、これら死者の「志操を天下に表し、其忠魂を慰められたく、今般東山の佳域に祠宇を設け、右等の霊魂を永く合祀致さるべき旨仰せ出された。」

癸丑は嘉永6(1853)年、黒船来航の年である。それまでさかのぼっての慰霊となれば、「国事」が、列強からの日本防衛の意味を当初から帯びていたのは明らかである。また「草莽有志」という表現から、元々は正式な皇軍のみならず、在野で志に斃れた人々をも祀ろうとされた事、また、志操の顕彰と慰霊という二つの目的も当初から明示されている。そして、実際に各藩に戦死者の名簿提出を求め、それに基づき、合祀と慰霊が始まる。

武家政権から天皇に権力が「奉還」されるのは700年振り、天皇ご自身が政治権力を握っていた時となると、更に500年さかのぼらなければならず、近代的な王政復古の先例はない。だから、正統性の根拠を求めるために、王政復古の大号令は「神武創業」まで戻って語られねばならなかった。その上、明治天皇は17歳の幼帝、おまけに政府中枢は公家と西郷や大久保ら下級武士である。天皇の権威に国家が帰趨するか、全く分からない極端に不安定な状況だったと言うべきである。新政府のやる事は、当初、全てが博打だったと言っていい。

そんな状況下で、明治国家は、政権掌握と同時に無名戦士たちの慰霊の社を創ると発想し、それを天皇の御心として布告した。しかも大きな労の掛かる慰霊・神社創建を、当事者らが必要を全く疑うこともなく着々と進めた。戦死者の顕彰は古今東西見られるが、懇ろな神事としての慰霊から国肇めをする例は余りない。

そして、それが仏式でもなく、国家による無宗教の慰霊でもなく、神社の形をとったこと。新政権発足時におけるこの判断は、恐らく、当事者が考へていた以上に近代日本という新しい国のその後の形を暗示している。祭政一致を理念とする御皇室の民を思う祈りと、亡くなられた御霊を神祀る日本人の心の習俗と、近代的な意味での政府による無名戦士追悼とが、期せずして合一したのが靖国神社だと言えるからである。如何にも日本らしい重層的な場である。様々な慰霊の伝統と近代国家としての兵士顕彰とが混然と一つになって違和感を生じないところに、日本の国柄がよく表れている。


・空想的な国立追悼施設の議論

梅原猛氏などは「靖国神道は自国の犠牲者のみ祀り、敵を祀ろうとしない。これは靖国神道が欧米の国家主義に影響された、伝統を大きく逸脱する新しい神道」だからだ。怪しからんと言う。そんな簡単な話ではない。伝統的な習俗となっていた自然神道、神社神道はもちろん素晴らしい。だが、それらの信仰、世界観だけではあの時、日本は持たなかった。天皇の為に死ぬ、この気魄を直接に受け止める場が必要だった。そうした神道が「伝統を大きく逸脱する」かは記紀万葉をひもとけば大いに疑問としなければならないが、仮にそうだとしても、それも無理はなかった。「伝統を大きく逸脱した」恐ろしい現実が海の向こうからやつてきていた、新しい信仰、新しい力、新しい求心力が必要だったのである。それがもし歪みならば、そうした近代日本の定めの悲しみや歪みを含めての靖国神社である。何故それをこの人は居丈高に断罪しようとするのか。

また、小泉首相の参拝が問題になっていたころ書かれた高橋哲哉氏の『靖国問題』、私には元々「靖国問題」は存在しないので、今回初めて読んだが、いや、驚いた。紙幅の都合で氏の詐欺論法の数々を紹介できないのが残念だが、結論だけ言えば、氏は、靖国神社は戦死者顕彰=再度国民を戦争に駆り出すシステムである。そのようなものは戦後の平和憲法の趣旨に反するから、国家とは完全に切り離すべきである。その上で「非戦の意志と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を断つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法9条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある」という。靖国という怪しからん追悼施設の代わりに、氏の理想とする国立追悼施設を作るために、日本は軍事力を廃棄せよという訳である。倒錯しきっている。「国立追悼施設が、真に戦争との回路を断つことができるためには」、世界中の国と人類の思考の中の「戦争との回路を断つ」以外、一つも方法はない。「追悼施設」が「戦争との回路」になるのは、施設がシステムに力を与えているからではない。日本が第9条通りの完全軍備撤廃をしないからでもない。エピグラフに出した小林秀雄の言う通り「戦は好戦派という様な人間が居るから起るのではない。人生がもともと戦だから起るのである。」

両氏に共通するのは、靖国を断罪し、無い物ねだりしながら、文体や論法に、靖国の祭神のみならず、戦死者全般への慰霊の心情が、嫌になるほど感じられないことである。高橋氏の追悼施設の議論が、ここまで空想的になるのは、そんなものには本来氏が何の関心もないからに他ならない。事実氏は本書の中でポロリとこんなことを書いている。「集団的な追悼や哀悼の行為が、それ自体として『悪いこと』だとは私は思わない。」こんな文章を平気で書ける人間が、靖国に限らず、戦争や戦死者について論じる事自体わいせつだと思う。


・徐々に強まっていた英霊への意識

維新の後、近代日本は戦争に継ぐ戦争であった。靖国神社も、この後、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦など、内外での戦争の度に、戦死者を祀っていく。そして、天皇の御親拝も度々のこととなる。その祈りの御心は、例えば次のような御製に示されていると言える。


<招魂社にもうずる時よめる>
「わが國の ためをつくせる ひとびとの 名を武蔵野に とむる玉垣」(明治7年)

「たたかひに身をすつる人多きかな 老いたる親を 家にのこして」(明治37年)


<暁寝覚>
「あかつきの ねざめねざめに思ふかな 國に盡くしし人のいさをを」(明治44年)

しかし、この間、慰霊と顕彰の場として、特に国民に広く靖国神社が浸透していたかというと、必ずしもそういうわけではない。むしろ靖国は、長らく招魂社という、当初付けられた名前で東京の庶民に親しまれる公園の側面が強かったようだ。明治期の各種の東京名所案内にも、境内の木々花々の美しさが繰り返し紹介されている。祭りのにぎわいは大変なものだったらしい。川端康成の文壇的処女作と言へる『招魂祭一景』は靖国神社秋の例大祭での境内の祭りを描いているが、曲馬団による馬の火潜り、八木節の小屋、魔術小屋などが並び、「靖国神社の境内だけが気違いじみて騒がしい」と言う程のにぎわいだったという。ちなみにこれは大正10(1921)年の作品である。

もちろん日露戦争では8万人の戦死者が出、川端の作品の数年前に終結した第一次世界大戦でも5000人近い戦死者が出ている。そうした中、靖国の英霊への国民の意識が徐々に強まっていくのは自然なことであった。

だが、靖国神社を靖国神社たらしめる強い求心力はまだ発生していない。

では、靖国神社が大きく変質し始めるのはいつ、どのようにしてか。それは支那事変を通じて戦局が泥沼化し、戦死者数が急増する過程、そして何と言っても大東亜戦争を通じてである。戦地に行くだけで命を捨てる覚悟をせねばならない、そしてまた、それが国運と日本の国柄を賭けた戦いだという自覚が国民に浸透していく。徐々に「皇軍兵は散華したら靖国に戻り、天皇を始めとして生き残った者はその英霊を祀り、顕彰する」という「靖国の思想」が、国民の間に強く共有されてゆく。

この過程を、先に紹介した高橋氏の議論のように、戦争に国民を駆り立てるシステムと見て、当時のおおげさな慰霊祭や軍国教育やマスコミの軍国プロパガンダから、その「証拠」を集めてくることは容易である。戦意高揚も軍国教育も、あの厳しい国際環境の中での日本の異常な孤独を考えれば必然であった。私は後知恵で、それを軽蔑したり裁いたりするつもりはない。だが、どんな時代も、その時代の最も深い精神が、そうしたプロパガンダに宿っていることは決してない。「靖国の思想」の中核は、そんなところには全くない。







「安倍総理の靖国神社参拝が意味するもの ①」

2014-01-06 08:24:43 | 日本

文藝評論家の小川榮太郎さんが、靖国神社に関する実にいい論文「靖国の神学・私論 ~安倍総理の参拝が意味するもの~」を出された。
以下、要約し以下、5回にわたり記す。


「戦は好戦派といふ様な人間が居るから起るのではない。人生がもともと戦だから起るのである。」(小林秀雄「戦争と平和」)

安倍政権は、アベノミクスによる日本経済の応急処置に成功し、安倍ドクトリンとも言うべき独自の外交「日米同盟、対中包囲網、資源外交を基軸にしつつ、アメリカからの自立に向けて徐々に重心を置き換へる。」により、崩壊寸前だった日本の土台の補修に成功した。たった半年である。その上で、今般は参議院選挙にも大勝し、衆参のねじれを解消した。これだけでも既に、安倍首相は戦後でも稀有な名宰相と言っていい。

しかし、安倍政権の掲げる「日本を取り戻す」は、単なる経済の復活ではない。目先の日本復活だけではないはずである。安倍首相が、状況を見つつ、発言を微妙に修正しつつも、従来のどんな首相も敢へて語らなかった歴史認識問題や憲法改正を、タブー視せずに語り続けてきた事から明らかなやうに、安倍氏にとつて、この取り戻すべき「日本」の本丸が、第一次安倍政権時の「戦後レジームからの脱却」であるのは明らかである。
であるならば、これからが戦いの正念場となる。

今の日本の崩れは容易ならざるものがる。経済や安全保障の危機はいはば表面的な症状に過ぎない。内側に病気の原因があるから、こうした症状が出る。この内なる病因をこれ以上放置すると、日本はある日突然死しかない、それほど、内側からの崩れは深刻である。その内側の病因と靖国問題は深く関係している。一言で言えば、自分の国を先の大戦で敗れた相手に守っててもらって、自分たちは金儲けにうつつを抜かしてきた。人々は口を揃へて平和と繁栄が尊いと言う。しかし、道徳的腐敗の上に永続的な平和も繁栄もあり得ない。こんなことをちらっとも恥じと思はないで70年もやっていれば、国民の心はバラバラに荒廃し、国家としての求心力はどんどん失はれるに決まっている。

もちろん政治家である安倍氏は最終的な行動については慎重であらねばならない。だが、逆に我々国民は傍観者であってはならない。心ある国民は、国辱に対してもっと激しく強く怒らねばならない。そもそも我が国の為に戦場に散った功労者への鎮魂・顕彰を、諸外国に遠慮して自粛するという国辱を許す位なら、もう一度一億玉砕した方がずっとましではないか。230万人もの方々が日本の為に命を捧げたのが、たった70年前のことである。その人たちが命を捨てて国を守ってくれたお蔭で、今日の日本がある。その230万人もの御霊を日陰者にしてまで、マスコミの反応がどうの、外国の顔色がどうのと、事なかれを期する国があれば、そんな国は腰抜けどころか、精神の腐りきつたドブである。

かう言う常識をまず日本国民全体で取り戻さなくて、アベノミクスで「日本を取り戻す」もへったくれもない。日本国民が、国論として、靖国神社の深い意義を理解し、守り、外国からの不当な干渉を断乎許さぬと言う、強い共同意志を持たねばならない。安倍首相が堂々と公式参拝をできるだけの強力な国民の総意を形成する努力をしなければならない。外国の不当な干渉という戦場に、安倍政権を裸で放り出してどうするか。我々一人一人の愛国心、国の安寧を祈る深い祈り、それが安倍政権を正しい選択に向けて動かす。安倍政権を外側から論評するのではなく、我々の祈りで安倍氏が本来なすべきことをなせるよう、ささえ押し上げねばならない。


◎靖国神社創建の意義

第一の論点は、靖国神社は明治維新、新政府発足とほぼ同時に創建されたが、この靖国創建にはどのような意義があったのか。
第二の論点は、靖国が、日本人にとつて、ある絶対的な場になったのは大東亜戦争を通じてである。「靖国で会おう」を合言葉に無数の先人が戦場で散った。このことを通じて靖国は近代日本の中核価値としての本質を顕わにしたとの考えである。
第三の論点は、こうして余りにも大きな犠牲と引き換えに靖国神社の本質が現れたというのに、戦後、それは言語に絶するひどい侮辱に汚され続けてきたことである。つまり、この靖国の現状と、その克服への方針の私案である。






「安倍総理の靖国参拝 本当のアジアとアメリカの声」

2014-01-04 21:16:26 | 日本

「なでしこりん」から、いい報告書がきた。
以下、要約し記す。



アメリカでも国内から、「アメリカは日本に干渉すべきではない」という声明が出されている。オバマ政権は、中国や韓国による「政治目的の靖国攻撃」に利用された己の無知さに遅かれ早かれ気づかされることになる。でも今は、日本の「マスゴミ」の「捏造情報」を上回る量を、私たちは拡散しなければならない。まずはあなたのブログやフェイスブック、ツイッターにこの資料を貼って欲しい。どうか日本を守るためにあなたの力を貸してください!みんなの力で日本を守りましょう!


マスゴミが隠蔽する、中韓以外のアジア諸国及びアメリカの声

◎シンガポール
リー元首相:「靖国問題も中国が心理的なプレッシャーをかけているだけ」

◎台湾
李登輝元総統:「国のために命を亡くした英霊をお参りするのは当たり前の事。外国が口を差し挟むべきことではない」

◎カンボジア
フン・セン首相:「戦没者の霊を弔うことは当然のこと」首相の靖国参拝に理解

◎インドネシア
ユドヨノ大統領:「国のために戦った兵士のためにお参り、当然」靖国参拝に理解

◎ベトナム
「我々は中国や韓国のような卑怯な外交手法をとるつもりはない」

◎マレーシア
外相:「過去は過去である」

◎タイ
「参拝を支持」

◎インド
「参拝を支持する」

◎パラオ
レメンゲサウ大統領:靖国参拝に「すべての人のために祈るのは正しいこと」と支持を表明

◎ソロモン諸島
ケマケザ首相:「日本とソロモン諸島の共通の文化は先祖に感謝すること。英霊が祭られている場所を拝見したい」

◎ここからはアメリカの声

★マイケル・オースリン氏
「日本が対処すべき問題で、在日米大使館はあのような声明を出すべきではなかった。米政府は関係国の解決に向けた努力を促すべきで非難すべきではない」

★米ジョージタウン大 ケビン・ドーク教授
「靖国参拝は日本国民と、民主的な選挙で国民から選ばれた安倍首相ら国会議員が自身で決める、日本のすこぶる国内問題だ。中国と韓国がなぜ、この日本の国内問題に首を突っ込むのか、いまだに理解できない」

★シーファー元駐日大使
「アメリカ政府は、日本の靖国参拝に干渉することはない」

★ウォーツェル米中経済安保調査委員長
「『歴史認識非難』は単なる対日攻撃手段、靖国参拝、中止すべきでない」

★トーマス・スニッチ氏
「中国には日本の戦没者追悼に対し一定の方法を命令する権利はない 」

★アーサー・ウォルドロン氏
「事の核心は日本に対し覇権を確立したいという中国の野望だ」






「私たちの提唱する7つの改憲テーマ⑦」

2014-01-01 09:50:23 | 日本

【7】国民自らが憲法への意思表示をするための憲法改正要件の緩和 (96条改正)



(1)改憲に対する厳しい縛りがあり事実上の改憲阻止条項と化している96条は是正すべ 木であ。

日本国憲法の起草にたずさわったアメリカ占領軍将校に対するインタビューを行なった西修駒澤大学名誉教授は『日本国憲法の誕生を検証する』の中に次のように書いています。「1984年7月、GHQ(連合国聡司令部)で現行憲法の起草に携わったリチャード・A・プール氏にインタビユーした際、プール氏は「私が読んだ報告書に『日本はまだ完全な民主主義の運用に慣れる用意がなく、憲法の自由で民主的な規定を逆行させることから守らなければならない』と書かれていました。私はこの報告書を興味深く読み、そのようなことが基本的人権の改正に関し、厳しい制約を課そうと努めた理由になりました」
このように考えたプール力が作成した憲法改正条項は、下記のようになりました。

『96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。こお承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。憲法改正について前項の承認を経た時には、天皇は、国民の名で、この憲法と一体をなすものとして、直ちにこれを布告する。』

このことは、アメリカ占領軍が憲法草案をつくるときに、容易に改正されることのないような条項を入れたということを意味します。そう考えると、憲法は国民が為政者を縛るためのル--ルであり、 改正条項の緩和は、為政者が自らを縛る縄を緩めるようなものだ、といった話とはまったく様相が異なってきます。96条は改正阻止条項といってもいいくらいです。そういう不幸な生い立ちから憲法を取り戻す、というのが96条改正の趣旨です。

(2)改憲の民意を少数派(参院で81名)が阻止できる国民軽視の条項を改める。

最近の各種の世論調査をみても、国民の多くは、憲法を現実に合うように改正すべきだと考えています。ところが、それが現実にはなっていません。その結果、今では日本憲法は取り残され、世界でもっとも古い憲法の一つになっています。その大きな原因は、憲法改正の手続きが難しい点にあります。憲法96条によれば、憲法改正は①各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、さらに②国民投票で過半数の賛成を得なければならない、とあります。この意味は、国民の6割前後が憲法改正に賛成し、衆議院で3分の2以上の国会議員が賛成しても、参議院のわずか3分の1つまり81人が反対したら、改憲の発議さえできないということなのです。
96条を見直すとどうして立憲主義が破壊されてしまうという反対論がありますが、憲法改正は最終的に国民が判断するものである以上、国民が自ら判断することもできないようにしている憲法改正条項は、国民軽視の規定と言わざるを得ません。96条を改正することで、憲法を国民の手に取り戻すことが可能になります。



<了>