龍の声

龍の声は、天の声

「緑十字機 決死の飛行①」

2016-08-27 09:36:46 | 日本

~誰も知らない"空白の7日間"~


勅使・随員の寺井義守海軍中佐(海兵54期)の女婿 佐藤守元空将(防大7期)も出演されるとの由、楽しみにしていましたのに、
近畿地方では、その放映時間には全国高校野球大会の実況中継のため、見ることができません。

日本で終戦記念日とされる8月15日。しかし、それはあくまでポツダム宣言受諾を国民に知らせる玉音放送が放送された日であって、太平洋戦争が終わったわけではなかった。 実は、日本の存続に関わる本当の危機は8月16日から始まる。

対応を誤れば、再びアメリカと交戦状態となり、ソ連の北海道侵攻を招きかねなかった。
真の終戦に導いた“太平洋戦争ラストミッション”、それは戦争を1日も早く終結させるための生きて帰る保証が全くない旅。“平和の白い鳩”緑十字機の決死の飛行だった。

しかし、日本の未来を託された緑十字機は、連合国との交渉後、その帰路で謎の不時着を遂げる。一体なぜ、国家存亡の危機に直結する、このハプニングは起こったのか?

日本政府からもGHQからも公表されず、国民の誰も知らなかった空白の7日間に一体何が?戦後日本の命運を分けた運命の飛行機は、今も鮫島海岸沖で静かに眠っている。

「願わくは、我々が生還しえないという悲愴な覚悟で飛び立ち、大変な苦労をして果たした、あの降伏軍使の飛行が、後世に語り継がれんことを切望する」(緑十字機搭乗員の手記)


(1) 国体の護持をめざして

終戦時の日本軍は、七百万人を数えた。
国内だけでも二百五十万人余りの兵力があったとされている。

この巨大な軍隊が、天皇の玉音放送によって、なんら抵抗する事なく武器を置いたのである。
これ程の軍隊が降伏に応じた事は、歴史的にも前例のない事であった。

そして、緑十字機によって派遣された降伏軍使と交わした、進駐日程に関する約束を日本は完全に遂行した。

進駐軍先遣隊百五十名が厚木に進駐した時も、何らかの抵抗があるものと覚悟して乗り込んで来たが、一発の発砲も受けなかった。

マッカーサー到着後も、日本は粛々と進駐軍を受け入れた。

この背景には、日本が戦争に疲れ、一日も早い平和を望んでいた所によるものが大きいが、その根底には「国体の護持」、すなわち天皇の戦争責任回避の目的があった。

昭和二十年八月、日本は最後まで「国体の護持」にこだわり、無条件降伏であるポツダム宣言の受諾に抵抗した。

その結果として、広島と長崎に原爆が投下され、ついにはポツダム宣言を受諾するに至ったのである。

しかし、日本は決しては「国体の護持」を断念する事は無かった。

当時の世界の世論は、天皇の戦争責任を追及する意見が多数を占めていた。

天皇の戦争責任追及を避けるために日本が残された唯一の手段は、天皇の命令があれば、天皇の臣下である日本軍はその命令に従い武器を置くという事であった。

この事実は、逆に、もし天皇が退位させられたり、戦争犯罪者として処刑されれば、日本国民は死を賭して再び立ち上がると言う事を意味していた。

天皇による玉音放送があったあの日、皇居前に集まった人々は皇居に向かってひざまずいた。そして、自分たちの努力が不足していたために戦争に負けたことを謝ったのである。


民主的な教育を受けた現代に生きる我々には理解しがたい部分もあるが、当時はこれが多くの国民に共通した認識であった。

八月三十日、マッカーサーと共に厚木に到着したスタッフの中に米国陸軍准将ボーナー・フェラーズがいた。
彼は、マッカーサーが最も信頼した部下の一人で、対日心理作戦の責任者であった。

フェラーズは、奇跡とも言える無血進駐を目の当たりにして、天皇を罰せずに逆にその力を利用して統治政策を進める事こそが、最善の方法であると確信した。

フェラーズは天皇とマッカーサーの会談を準備した。
九月二十七日、それは天皇がアメリカ大使館のマッカーサーを訪問する形で実現した。

この天皇とマッカーサーの会談に立ち会った通訳官のバワーズ少佐は、インタビューに答えて次の様に証言している。

「天皇が元帥を訪問した時、元帥は天皇が命乞いに来たとものと思っていました。しかし、天皇のお申し出は身代わりになりたいというものでした。私はどうなってもいいが、天皇の名のもとに戦った人々を救ってほしいと天皇は言いました。元帥は非常に驚き、日本の将来に天皇は欠かせないと確信しました。」

昭和二十一年一月一日、天皇の詔書が発布された。いわゆる「人間宣言」である。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

マッカーサーの天皇の処遇問題に関する回答は、翌年の昭和二十一年一月二十五日のワシントンにあてた電報に記されている。

「天皇を戦犯とみなすに足る確実な証拠は発見できなかった。天皇を破滅させれば、国家が崩壊するであろう。混乱を抑えるためには、最低100万人の兵力を必要とし、予測できない長期間の駐留が必要となるだろう。」

この報告を受けて、ワシントンの天皇訴追論は終止符を打つことになる。
ここに、緑十字機の飛行から始まった「国体の護持」に関する戦いは終わった。

これら戦後処理の、すべての始まりが緑十字機によって派遣された降伏軍使であった。
そして、その最初で最大の危機が、磐田市の鮫島海岸への不時着であった。

  
降伏軍使の主席随員としてマニラに派遣され、ミズーリ号の降伏文書調印式にも出席し、戦後処理を見続けた海軍の横山一郎少将は、昭和五十五年に出版した回顧録「海へ帰る」の中で、次の様に述べている。

「もし、私達の運が悪く、不時着で死亡していたならば、進駐がうまくいったかどうか、考えると慄然たるを覚える。」











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