龍の声

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「太平記 櫻井の分かれとその後②」

2020-11-10 07:53:09 | 日本

◎四條畷の戦い

南北朝時代に河内国讃良郡野崎から北四条にかけて行われた楠木正行・実弟正時と高師直・佐々木導誉との間の戦い
四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)にかけて行われた、南朝河内守で楠木氏棟梁の楠木正行・実弟正時と、北朝室町幕府執事高師直・引付方頭人佐々木導誉との間の戦い 。

圧倒的に兵力で勝る師直軍に対し、正行から攻撃を仕掛け熾烈な戦いとなった。師直が野営地を築いていた野崎周辺は、当時は東を飯盛山などの生駒山地に、西を深野池に囲まれた狭い地であり、かつ湿地帯でもあった。そのため、大軍の騎馬兵の運用には不利であり、正行はそこを突いたという説がある。史料に乏しく戦闘経過には諸説あるが、いずれにせよ、少なくとも正行が師直を本陣である野崎から後退させ、北四条もしくはそれ以北までに押し込んだことは確実である。しかし、正行は北四条でついに力尽き、結果としては南朝側は正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

楠木兄弟の戦死によって、南朝側は同月末に臨時首都吉野行宮を喪失し、賀名生へ逃れた。一方、この戦いの勝利と吉野行宮攻略によって執事師直の名声が高まったことで、幕府の事実上の最高権力者である足利直義(将軍尊氏の弟)との政治力の均衡が崩れ、幕府最大の内部抗争の一つである観応の擾乱(1350年 - 1352年)が発生することになった。
なお、史実での戦闘発生地に基づけば「野崎・北四条の戦い」とでもなるはずだが、軍記物語『太平記』により「四條縄手の戦い」(『太平記』流布本による表記)あるいは「四條畷の戦い」(現在の四條畷市という自治体名に基づく表記)の呼称が著名である。


◎背景

延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、楠木氏の棟梁楠木正成が湊川の戦いで敗死したため、しばらく楠木氏は宗家ではなく同族大塚氏の和泉守護代大塚惟正(楠木惟正)らが指揮をとって南朝方として戦っていた。
やがて、正成の子楠木正行が成長して延元5年/暦応3年(1340年)ごろから棟梁としての活動を始め、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄えた。河内守となって7年間は一切戦いをしなかった正行だが、正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)に挙兵し、紀伊国を攻めた。
その後は摂河泉まで進出し、足利方を脅かすようになった。同年9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。


◎戦闘準備

正行の怒涛の攻勢に、室町幕府は本格的な南朝攻撃を決意し、執事高師直を総大将、その弟の高師泰を第二軍の大将とする大軍を編成して河内に派遣することを決定した。

正平2年/貞和3年(1347年)12月14日、まずは第二軍の高師泰(執事高師直の弟)が先に出陣し(『師守記』『田代文書』)、和泉国堺浦(現在の大阪府堺市)に向かい、同地で待機(『淡輪文書』)。11月から幕将淡輪助重が南朝からの攻撃に対し和泉井山城(現在の大阪府阪南市箱作に所在)に立てこもっていたが、師泰の出陣を待って合流した(『淡輪文書』)。
総大将高師直の出発は初め18日夜と噂されていたが(『園太暦』)、なぜかそれより遅れ、25日(『東金堂細々要記』『建武三年以来期』)もしくは26日(『師守記』)に京を立ち、八幡に到着、諸国の兵の到着を待った。
この月、南朝・北朝・幕府の三勢力とも国家の存亡を決める決戦の気配を感じたのか、盛んに戦勝祈願を行った。例を挙げれば、17日、南朝の後村上天皇は、東寺に対し、後宇多天皇・後醍醐天皇の遺志を継いで「天下一統」を達成できた暁には、この寺を取り立てると約束して、戦勝祈願をさせた(『東寺文書』)。24日、北朝の光厳上皇は院宣を発して、醍醐寺に天下静謐を祈らせた(『醍醐地蔵院日記』)。26日、幕府の将軍弟足利直義は、天下静謐のため、東寺と神護寺に大般若経を37日間転読するように要請した(『東寺文書』『神護寺文書』)。
年が明けて正平3年/貞和4年1月1日、諏訪部扶直ら幕府の諸将が八幡に到着(『三刀屋文書』)。他の有力武将としては、引付方頭人でバサラ大名として著名な佐々木導誉や(『三刀屋文書』)、足利氏支流佐野氏の武将佐野氏綱がいた(『古今消息集』)。


◎経過

山城国(京都府)から河内国(大阪府東部)へ入る手前で年を越した幕府軍は、正平3年/貞和4年(1348年)1月2日、ついに総大将の師直の第一軍が国境を越えて河内守正行の領国である河内国に入り、同国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)の辺りに逗留した(『醍醐地蔵院日記』同日条)。
それから3日後、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、讃良郡北四条(大阪府大東市北条)で正行と師直は激突した(『園太暦』同日条)。
しかし、この戦いに関する史料は極めて乏しい。戦闘経過について確実にわかっていることは、以下の程度である。
・師直が讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)に陣を敷いていたこと(『醍醐地蔵院日記』)。
・正行率いる南朝軍の方から攻撃を仕掛けたこと(『園太暦』)。
・主戦場および正行が討ち取られた場所は讃良郡北四条(大阪府大東市北条)であったこと(『薩藩旧記』「足利直義書状」等)。なお、ここで注意すべきは、主戦場となった北四条は、師直の陣がある野崎の「北隣の」地域である、言い換えれば南征を試みる師直の進行方向とは、逆方向なことである。
・熾烈な戦いになったこと(『園太暦』「合戦頗火出程事成」)。

生駒孝臣によれば、師直の勝因は兵数だけではなく、戦術でも正行に比べ一枚も二枚も上手であったためという。まず野崎に本陣を敷いた師直は、その東部から北東部にある飯盛山も占拠した。それに対し正行の行動は一歩遅れたため、東を飯盛山に、西を深野池(ふこうのいけ)に挟まれた東高野街道を一直線に進まざるを得ず、正面の師直本軍と右手の飯盛山支軍を同時に相手にすることになってしまった。必然的に、正行は正面の師直本陣に切り込むしかなかったのである。その一方、藤田精一は、正行があえてここで開戦に踏み切ったのは、当時の野崎から北四条(北条)は西方に深野池が流れる湿地帯であったため、大軍の運用に余り適しておらず、少数の手勢で奇襲すれば師直を討ち取れると考えたのではないかと指摘する。また、『太平記』では、南朝軍は最初騎兵だったのが途中から馬を降りて歩兵になったと描かれているが、藤田は正行は最初から歩兵を運用していたものとして説明し、また『太平記』の正行が南朝軍を三部隊に分けたとする描写とは違い、実際は前軍と後軍の二部隊に分けたのだろうとしている。

藤田・生駒ともに、圧倒的な兵力差でもなお一時的には正行が優勢であったとする。しかし、藤田によれば、東の飯盛山から降りてきた師直軍支隊に挟撃される格好となってしまい、南朝軍の後軍がそれによって機能しなくなってしまったという。それでもなお、正行率いる前軍は正面に攻撃を続けた。藤田によれば、四條畷の戦いの主戦場が北四条となっており、師直の本陣である野崎から北にずれているのは、正行の猛攻によって師直が撤退したからだという。湿地帯であるため、騎兵である師直の後退速度が遅いのも正行の作戦の範疇であり、南朝軍は追撃を続けた。しかし、ついに決定打を与えることが出来ないまま、幕府軍大将の師直は戦域からの離脱を完了した上に、南朝軍の戦線が伸びきってしまい、時刻も夕方を迎えて、正行らは力尽きてしまった。











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