3月11日
あの日、私は地震がおさまった時すぐに車で高台に逃げた。ここまでは、津波は来ないといわれていたところに。
しかし、誰かが下のほうで つなみだ と叫んだ。
え、なに。避難していた友達の家の二階に駆け上がった。
気づいたときは、私は瓦礫に囲まれ、海の上にいた。幸い胸から上が、海の上にあった。友達の名前を叫んでも答えず、姿も見えない。
必死で、瓦礫から逃げ出そうとするも一つも動かない。ここで死んでしまうのか。
いや、波は必ず引く。そのとき、瓦礫も動くかもしれない。それにかけようと、自分をひたすら冷静にした。
グググという音がしたら、瓦礫が少し動いた。その瞬間、私は無我夢中で瓦礫の中を抜け出し、目の前にあった鉄骨に飛び乗った。
助かったと思った瞬間、引き波に呑まれ、また、海に落ちた。もうだめか、どうしようと思ったら、本当に天の助けか、網が見え、それにすがりついた。
でも、下は海。鉄骨にあがることができない。何とかしなければと、もがいても もがいてもどうにもならず、ああ、こんな形で死にたくないと一心に天に祈ったとき、
何かが私の足元に流れてきて、それに足をかけ鉄骨に上がれた。
あとは、声を限りに山に向かって助けを呼び続けた。山で声を聞きつけて人が姿を見せるまで、何分くらい立ったのか覚えていないが、男の人たちが見つけてくれた。
「自力であがってこいと」、叫ばれても、もうつかれきっていてそれもままならず。
やっと一人の男性が、ほかの人が危ないからやめろというのを振り切って、駆け下りてきて私を背負ってくれた。
本当に、本当にありがとうございました。
志津川の写真館の方が津波の様子を撮られていたのをお借りしました。
あの日から、2ヶ月が過ぎ、何もする気になれなかったけれども・・・しかし、あの場所で助かったのは私一人。亡くなられた人のことを思うと、泣いてばかりいられない。
南三陸町が復興に向かって生きようとする姿を、私なりに語りつないでいかなければとおもい、やっとブログを書き始めた。亡くなった友のためにも。
あの日、私は地震がおさまった時すぐに車で高台に逃げた。ここまでは、津波は来ないといわれていたところに。
しかし、誰かが下のほうで つなみだ と叫んだ。
え、なに。避難していた友達の家の二階に駆け上がった。
気づいたときは、私は瓦礫に囲まれ、海の上にいた。幸い胸から上が、海の上にあった。友達の名前を叫んでも答えず、姿も見えない。
必死で、瓦礫から逃げ出そうとするも一つも動かない。ここで死んでしまうのか。
いや、波は必ず引く。そのとき、瓦礫も動くかもしれない。それにかけようと、自分をひたすら冷静にした。
グググという音がしたら、瓦礫が少し動いた。その瞬間、私は無我夢中で瓦礫の中を抜け出し、目の前にあった鉄骨に飛び乗った。
助かったと思った瞬間、引き波に呑まれ、また、海に落ちた。もうだめか、どうしようと思ったら、本当に天の助けか、網が見え、それにすがりついた。
でも、下は海。鉄骨にあがることができない。何とかしなければと、もがいても もがいてもどうにもならず、ああ、こんな形で死にたくないと一心に天に祈ったとき、
何かが私の足元に流れてきて、それに足をかけ鉄骨に上がれた。
あとは、声を限りに山に向かって助けを呼び続けた。山で声を聞きつけて人が姿を見せるまで、何分くらい立ったのか覚えていないが、男の人たちが見つけてくれた。
「自力であがってこいと」、叫ばれても、もうつかれきっていてそれもままならず。
やっと一人の男性が、ほかの人が危ないからやめろというのを振り切って、駆け下りてきて私を背負ってくれた。
本当に、本当にありがとうございました。

あの日から、2ヶ月が過ぎ、何もする気になれなかったけれども・・・しかし、あの場所で助かったのは私一人。亡くなられた人のことを思うと、泣いてばかりいられない。
南三陸町が復興に向かって生きようとする姿を、私なりに語りつないでいかなければとおもい、やっとブログを書き始めた。亡くなった友のためにも。