お散歩日記 復興の日目指して

写真付きで見たことや日々感じたこと、震災に遭い今感じていることなど、記録にとどめたい。

デジブック 『小説の原風景を求めて』 内田康夫 【不等辺三角形】

2010-10-28 12:10:37 | 日記
デジブック 『小説の原風景を求めて』


内田康夫氏の「不等辺三角形」を読んで、自分の住んでいる近くにすばしい過去の遺産があることを知りました。また、浅見光彦ファンとしては、事件が起きた現場を自分の目で見てみたいという長年の夢も叶えるため、さっそく奥松島の旅に出かけました。

東松島市の野蒜海岸には、なんども行っていましたが、その近くに『野蒜築港』という明治時代の築港跡があるとは知りませんでした。

これは、小説の一節から説明を借りると、(1882年に日本最大の貿易港として、第一次工事が完成した。この工事には時の内務卿 大久保利通が力を注いだといわれ、・・・実際に明治9年 この地を視察している。野蒜海岸には、内陸から、鳴瀬川と吉田川という二本の川が流入している。・・・野蒜に港を作り、その二流を活用し、さらに、北上川、名取川、阿武隈川までを運河で結ぶ、壮大な水運計画が立案された。)  ななんとすごい。もしこれが、実現していたら宮城県は、日本一の貿易港として発展していたかもしれない。東北地方の発展もめざましいものがあったかもしれない。しかし、現実は明治17年に起きた台風により、突堤の三分の一が流失し、着港以来7年をもって野蒜築港事業は頓挫した。

実際に現地を訪れてみると、兵どもが夢の跡 という感じで写真のような煉瓦造りの橋の跡や石のローラなどが残っているだけである。しかし、奥松島の景色は美しく、もし港ができていたらこんなのんびりとした、美しい風景は残されなかったかもしれないと思う。 なにが幸いするか世の中わからないものである。 

しかし、内田氏はなぜここを殺人現場に選んだのでしょう。その後に展開するさいり屋敷や名古屋の揚輝荘との関連からかなあと考えてみたり、明治初めの西洋に追いつけ追い越せとしていた人々の夢の跡からかなあと考えてみたり。

次はさいり屋敷と揚輝荘に行ってみたいものだと思っています。
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