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マリオ・ジョアン・ピリス(続編)

2009-05-10 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
 
  リー・ヘイズルウッドと共に、ピリスのことも《つづく》と書いてつづけていませんでした。前回のブログでは、4月22日にピリスの演奏会があったこと、プログラムはショパン晩年の作が中心、そしてピリスは観客と静寂を共有した…というところまででした。

  今回の来日に際して、ピリスは朝日新聞のインタビューにこたえているのですが、この中で、いくつかの言葉が印象に残りました。

  ポルトガルに生まれ、現在はブラジルに住んでいるピリスは、いわゆる商業主義的な世界とは一線を画した存在だと言えます。『演奏家である前に、人として健康に生きていきたい』という言葉には、偏狭な芸術至上主義への反発を感じます。『誰もがみな、芸術的な世界を内に持っている。それを外に表現して世界と結びつこうとする人をアーティストと呼ぶだけのこと。アーティストは特別な人間ではない』。芸術家という特別な存在ではなく、一人の人間としてどう生きているか、この言葉は本当に深い。

  さらに若い世代へ向けては、はっきりと次のように語りかけます。『商業的なオファーに対しては<ノー>と言える勇気を持つこと』『すべてのレパートリーを弾けなければならないと思う必要はない』。そして、極めつけはコンクールに対しての見解。『勝ちたいと思うことは、誰かの負けを望むということ。その考え自体はもう芸術家のものではない。芸術は闘いではなく、自由からしか生まれ得ない』。

  来年はショパン生誕200年、そして5年に一度のショパン国際ピアノ・コンクールがワルシャワで開催されます。この世界最大規模のコンクールも、1924年の第一回開催から、じつに86年の月日が流れたわけです。

  そんな中で、『芸術は闘いではなく、自由からしか生まれ得ない』と語るピリスのような存在は、新しい時代の芸術家のひとつの在り方を示しているように思えます。

  NHKのスーパーピアノレッスンを見ればわかるとおり、ピリスは旋律の細部に宿る歌を大切にします。しかし、その歌は過剰な歌わせ方によって表現されるものではなく、作曲家の心への共鳴といった形で、静かに、控え目に表わされます。

  この日の演奏会の核となったロ短調ソナタは、まさしくショパンの歌が次から次へと重層的に絡み合い、それが螺旋の軌跡を描いて天に昇っていくように聞こえました。

  この歌を聴くために、この日のこの場所は、完璧な静寂が必要だったのです。拍手を制するという、一般のコンサートとは異なる雰囲気で始まった演奏会でしたが、静寂の中で聴衆に要求された「音楽を聴くための集中」によって、私たちは「音楽を聴くことの本質」を思い出したように感じました。

  「演奏家である前に、人として健康的に生きていきたい」と語るひとりの女性と1800人の聴衆が心を共有し、ショパンの音楽の魂に共鳴していく…、私は一生に何度あるか分からないと思えるほど深く強い音楽的な感動を体験しました。

    

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