長雨がつづいたあとに大気が冷たくなり、街路樹の色が変わる。
思い出すのは、ヴェルレーヌの秋の歌=落ち葉である。
秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて うら悲し
鐘のおとに 胸ふたぎ 色かえて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや
げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落ち葉かな
青春時代、幾度も幾度も暗唱したこの詩の訳は上田敏。「海潮音」という詩集の中に収められている。
一見、すでに充分に年老いた詩人の作と思いきや、これはヴェルレーヌ20歳のときの作品である。何と言う感性!
ヴェルレーヌの処女詩集「サルチュルニアン」が出版されたのは1866年、ロシアではドストエフスキーの「罪と罰」が世に出た年。フランスにサティが生まれ、ドイツでは、ワグナーが19世紀ロマン派オペラの完成に向けて筆をふるっていた時代のことである。
ヴィオロンとはヴァイオリンのこと。ヴェルレーヌが心に聞いた秋の日のヴァイオリンのため息とは…。
無駄な想像はやめよう。彼ほどの大詩人ともなれば、すでに世にある音楽に触発されなくとも、彼の心の中に、彼自身の音楽を聞くことができるのだろう。それどころか、彼の言葉そのものが、ドビュッシーやフォーレなど、作曲家たちの感性を激しく揺さぶったのだ。
「水彩画」の中にある「グリーン」という詩。ドビュッシーもフォーレもこの詩に曲を書いた。そしてもうひとり、武満徹は「ノヴェンバー・ステップス第2番」に「グリーン」というサブタイトルをつけた。
このレコードがRCAから発売されたとき、秋山邦晴氏はライナー・ノートにヴェルレーヌの詩を引用していた。この一節も、いまだに私の頭から離れない。「グリーン」、これは春の歌だと思う。
受け給え、ここに果物と花と葉と枝こそあれ…。
(写真は、レイモン・ペイネの「秋の日のヴィオロン」)