ひろむしの知りたがり日記

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八雲、講道館流柔術との遭遇 《第5部・完》 東の国から

2016年07月17日 | 日記
話題を、ラフカディオ・ハーンのエッセイ「柔術」に戻しましょう。

ハーンはこの、日本が生んだ驚異の格闘技と出合った衝撃を、率直に語ります。
「相手の力を使って、(中略)敵を打ち負かすというような、奇妙な教えを考え出したものが、これまで西洋にいたでしょうか。たしかに、一人もいません」(上田保訳「柔術」より。引用文は以下同)

それは、単なる護身術ではなく、「哲学であり、経済学であり、倫理学」であるといいます。そして、「柔術のほんとうのすばらしさは、その道の達人がみせてくれる最高の技術ではなくて、そのわざ全体にみられる東洋独特の考えかたにある」と、ついに彼が最も語りたかった本題へと入っていきます。

「西欧の精神の働きが、直線的であるのに対して、東洋の精神は、ふしぎな曲線や円を描いて進むようです。しかも、野蛮な暴力の裏をかく手段として、なんとすばらしい知性のひらめきを象徴しているではありませんか」
こう前置きして綴られていくその内容はというと、私たちから見れば、いささかこそばゆくなるほど日本人を褒めちぎったものでした。

西洋人たちはかつて、日本は服装をはじめとする風俗や習慣、それに交通、運輸、建築理論、産業、応用科学、形而上学や宗教に至るまで、欧米のあらゆるものを採用するようになるだろうと予想していました。さらには外国の植民地となり、やがて勅令が発せられて、全国民がキリスト教に改宗させられるだろうと本気で信じている者さえあったのです。
しかしそれは、日本人が古来より柔術を稽古してきたことを知らなかったためだとハーンは論じます。
実際のところ、彼が力説するほど柔術が日本人の民族性の形成に影響を与えてきたとは思えませんが、逆に日本人が伝統的に培ってきた精神が、柔術を生み出したのだとはいえるかもしれません。いずれにしろ、彼が「万事が柔術のやりかただった」とする方法で、日本は急速に西洋技術を吸収していきます。

日本はフランスやドイツの優れた経験にもとづく軍事制度を採用した結果として、強力な砲兵に援護された250,000の精鋭を召集することが可能になりましたし、イギリスやフランスを模範として世界で最も優秀な巡洋艦隊を含む強大な海軍を擁するに至りました。
またフランス人の指導のもとに造船所を設け、自国の産物を朝鮮や中国、マニラ、メキシコ、インド、南洋方面などに運ぶため、汽船を買うばかりでなく、自ら作ることもできるようになりました。
軍事ならびに商業上の目的のために、およそ2,000マイル(約3,219キロ)に及ぶ鉄道も敷設しました。
アメリカとイギリスの援助を受けて、当時としては最も料金が安く、最も効率的な電信や郵便の制度も作り上げました。
日本の海岸線には、東西両半球のうちで一番照明が行き届いているといわれるほど多数の灯台が建てられましたし、アメリカに劣らない信号設備も構築しました。
さらにアメリカから電話や電灯の設備も輸入し、ドイツやフランス、アメリカのものを十分に研究した上で公立学校制度を、またフランスに範をとって警察制度を設立しましたが、それらを自分の国のさまざまな事情と調和するように改めて採用したのです。


明治4(1871)年、新式郵便制度の発足時に駅逓局と東京の郵便役所が置かれた「郵便発祥の地」。碑の上に据えられた胸像は、日本近代郵便の父・前島密(日本橋郵便局。東京都中央区日本橋1-18-1)

初めのうちは、それらの導入のために外国から機械類を買い、大勢の技師を雇い入れましたが、このエッセイが書かれた頃には、そうした指導者たちをみな解雇しつつありました。

ハーンはいいます。
日本は「西洋の産業や、西洋の応用科学や、西洋の経済的、財政的、立法的な経験によって明らかとなった第一線のものをすべて、選び出して採用し、どの場合でも、最上の結果だけを利用しながら、しかも自分の手にいれたものを、かならず、自分の要素にぴったり合うようにつくりかえています」と。

日本は自国の力を増強するのに必要なものだけを選んで、それらを採用しました。
「日本には鉄道や定期船の航路、電報や電話、郵便や通運会社、大砲や機関銃、大学や専門学校がたくさんありながら、千年まえと同じように、いまもって東洋的であります。自分はすこしも変わらないでいながら、日本は敵の力を最大限度まで利用してきたのです」

そして、この日本のやり方の背後には、柔術の原理があるとハーンは結論づけます。
「日本は、かつてその例をみないほどりこうな、あの驚くべき自衛手段たる、すばらしい国技の柔術によって、自分の国を守ってきましたし、いまも守りつづけています」


わたしたちはこれまで、ラフカディオ・ハーンが熊本の地で柔術(柔道)と出合い、その原理の中に見い出した近代日本発展の秘密についての論考を、こちらもまた「そんな見方もあるのか」と、驚きの念を抱きながら追いかけてきました。
エッセイの中では、この後も日本の着物と洋服のことや、キリスト教受け入れの問題などについてさらに深く言及していくのですが、彼の主張の大略にはあらかた触れることができたと思いますので、このあたりで筆を置くことにしましょう。

ハーンに柔術への目を開かせた嘉納治五郎は、明治26(1893)年2月、文部省参事官兼文部大臣官房図書課長に任じられて東京へ帰りました。同年6月19日には、文部省参事官は兼務したまま第一高等中学校(東京大学教養学部の前身)の校長に就任します。
一方のハーンは、翌年の10月まで五高に在任していました。忙しい学務の合間をぬってまとめ上げられた「柔術」は、明治28年にアメリカのボストンでハウトン・ミフリン社から出版されたエッセイ集『東の国から 新しい日本の幻想と研究』(“Out of the East, Reveries and Studies in New Japan”)に収められました。

ハーンはその後、「神戸クロニクル」紙の記者を経て、東京帝国大学や東京専門学校(早稲田大学の前身)で英語や英文学の教授にあたりました。
『東の国から』が出版された翌明治29年には日本に帰化し、小泉八雲となります。そして数々の著作によって古き良き時代の日本の姿を広く世界に紹介し続けた彼は、明治37(1904)年9月26日、東京新宿の大久保で亡くなりました。54歳でした。


小泉八雲終焉の地(新宿区立大久保小学校。東京都新宿区大久保1-1-21。下は旧居の古写真である)
  

彼が柔術の教えの中に見た日本精神は、果たして現在も健在なのでしょうか?
確かに、海外の先端技術や文化を採り入れ、それを自国流にアレンジし、国内のみならず世界に発信することは、今日でも日本のお家芸といってよいでしょう。
しかし、ハーンが賞賛したような、どのようなものを受け入れても少しも変わらない、確固たるわが国独自の核があるかといえば、なんとも心許ない気がします。
わたしたちは今一度、日本とは何なのか、日本人とは何者なのか、ラフカディオ・ハーンや嘉納治五郎のように、その本質を問い直してみる必要があるのかもしれません。


【参考文献】
小泉八雲著、平井呈一訳『東の国から・心』恒文社、1975年
L・ハーン著、上田保訳「東の国から 新しい日本の幻想と研究」『世界教養選集9』平凡社、1975年
熊本大学小泉八雲研究会編『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』恒文社、1993年
嘉納治五郎著『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
工藤美代子著『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯[日本編]』集英社、2003年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年

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