常楽寺には、実はもう1人、一刀流の剣客が眠っています。
7月1日の日記でちょっとだけ触れた小野忠喜<ただよし>の、向かって右隣に立つのが小野派一刀流中西派の浅利又七郎義信<あさりまたしちろうよしのぶ>の墓です。
彼はもともと武士の出ではなく、松戸の貧しい農家の生まれです。
幼い頃には、アサリを売って廻りました。浅利又七郎という名も、「浅蜊<あさり>売り」の又七をもじったものです。小野派一刀流中西派3代中西忠太子啓<つぐひろ>の道場を何度も覗き見しているうちに、その熱心さを買われて住み込みの内弟子となりました。
突きの名手として知られ、若狭(福井県)小浜藩酒井家の剣術師範に抜擢されます。元アサリ売りが駕籠に乗り、供を連れて出仕する身分となったのです。夢ではないかと疑って、「これは本当だろうか」と自分の頬をつねったといいます。
素朴な人柄がうかがわれる、微笑ましいエピソードですね。
浅利又七郎義信の墓。左端にわずかに見えるのが小野忠喜の墓(常楽寺。東京都新宿区原町2)
北辰一刀流の創始者千葉周作成政<なりまさ>に、最初に一刀流を教えたのが、この浅利又七郎です。文化6(1809)年、16歳の時に周作は松戸にあった又七郎の道場に入門しました。
数年たつと、浅利門下では周作に敵う者がいなくなりました。23歳になった周作に、又七郎は免許皆伝を与え、師家の4代目中西忠兵衛子正<つぐまさ、または、たねまさ>の道場に預けます。
当時、中西道場には俗に「三羽烏」とうたわれた強豪たちがいました。
決して相手の竹刀を自分の竹刀に触れさせず、竹刀が音をたてることがなかった「音無しの構え」の高柳又四郎、組太刀(一刀流では、形のことをこう呼びます)の名人で、その剣尖から火を吹くと称した寺田五郎右衛門宗有<むねあり>、その弟子で、これまた剣尖から輪が出るといっていた白井亨<とおる>の3人です。
火炎を吹き出す剣と、光り輝くリングを発する剣の激突なんて、CGで描いたら「スター・ウォーズ」のライトセーバーさながらの、迫力あるシーンになるでしょうね。
周作は組太刀を寺田宗有に、竹刀打ちを中西忠兵衛に学び、わずか3年で免許皆伝を授けられました。浅利道場に戻った彼に、又七郎は自分の後継者とすべく姪を嫁がせます。
しかし周作は、剣術に対する考えの違いから又七郎と衝突するようになりました。
千葉家にはもともと北辰夢想流という家伝の剣法があり、周作はその組太刀の形も取り入れ、一刀流に斬新な改革をもたらそうという野心に燃えていました。それに対して又七郎は、師より受け継いだ技と形を固く守り続けることを求めたのです。両者の考えはどこまで行っても平行線、決して交わることはありませんでした。話し合いはついに決裂し、周作は流儀の伝書・系譜一切を返上し、妻を連れて浅利の家を出ました。そして新たに、北辰一刀流を打ち立てたのです。
アサリ売りから身を起こし、営々と努力を積み重ねて大名家の剣術師範にまで上り詰めた苦労人の又七郎にとって、自分を拾ってくれた中西家への恩義はそれこそ海よりも深く(アサリだけに・・・)、自派に対する思い入れも、人一倍強かったことでしょう。同じように目をかけてやった周作が、自分と中西派を捨てたことは、許し難い裏切り行為と感じたかもしれません。
そうは言っても、去って行った者にいつまでもこだわっているわけにはいきません。やがて又七郎は、忠兵衛の二男を養子に迎えます。彼は養父の名を受け継ぎ、浅利又七郎義明<よしあき>と名乗りました。
又七郎義信に見込まれただけあって、義明も優秀な剣士でした。明治維新後には、徳川宗家を継いで静岡藩知事となった徳川家達<いえさと>の撃剣指南役を務めたりしています。
その維新に活躍した英傑山岡鉄舟高歩<やまおかてっしゅうたかゆき>は、北辰一刀流を学び一流の域に達しますが、何か満たされないものを感じていました。そんな時に義明と立ち合い、彼の人物と小野派一刀流の奥深さに感嘆し、すぐに入門します。そして日夜研鑽を重ね、ついに一刀正伝無刀流を創始するのです。
小野派一刀流の古さに飽き足らず、より合理的な北辰一刀流を興した千葉周作、逆に伝統がもたらす技術を超えた高みを求めて小野派一刀流に回帰していった山岡鉄舟。2人の生き方は対照的ですが、どこまでも理想を追い求める姿がどちらも格好いいな、男が惚れる男とは、こういう人たちなんだろうな、と思いました。
でも、不器用ながらも実直で、一途に自分の信ずるものを守り通そうとした浅利又七郎義信のひたむきさも、なんかいいな、と感じます。
【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
戸部新十郎著『日本剣豪譚<幕末編>』光文社、1993年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
早乙女貢他著『人物日本剣豪伝<4>』学陽書房、2001年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年
7月1日の日記でちょっとだけ触れた小野忠喜<ただよし>の、向かって右隣に立つのが小野派一刀流中西派の浅利又七郎義信<あさりまたしちろうよしのぶ>の墓です。
彼はもともと武士の出ではなく、松戸の貧しい農家の生まれです。
幼い頃には、アサリを売って廻りました。浅利又七郎という名も、「浅蜊<あさり>売り」の又七をもじったものです。小野派一刀流中西派3代中西忠太子啓<つぐひろ>の道場を何度も覗き見しているうちに、その熱心さを買われて住み込みの内弟子となりました。
突きの名手として知られ、若狭(福井県)小浜藩酒井家の剣術師範に抜擢されます。元アサリ売りが駕籠に乗り、供を連れて出仕する身分となったのです。夢ではないかと疑って、「これは本当だろうか」と自分の頬をつねったといいます。
素朴な人柄がうかがわれる、微笑ましいエピソードですね。
浅利又七郎義信の墓。左端にわずかに見えるのが小野忠喜の墓(常楽寺。東京都新宿区原町2)
北辰一刀流の創始者千葉周作成政<なりまさ>に、最初に一刀流を教えたのが、この浅利又七郎です。文化6(1809)年、16歳の時に周作は松戸にあった又七郎の道場に入門しました。
数年たつと、浅利門下では周作に敵う者がいなくなりました。23歳になった周作に、又七郎は免許皆伝を与え、師家の4代目中西忠兵衛子正<つぐまさ、または、たねまさ>の道場に預けます。
当時、中西道場には俗に「三羽烏」とうたわれた強豪たちがいました。
決して相手の竹刀を自分の竹刀に触れさせず、竹刀が音をたてることがなかった「音無しの構え」の高柳又四郎、組太刀(一刀流では、形のことをこう呼びます)の名人で、その剣尖から火を吹くと称した寺田五郎右衛門宗有<むねあり>、その弟子で、これまた剣尖から輪が出るといっていた白井亨<とおる>の3人です。
火炎を吹き出す剣と、光り輝くリングを発する剣の激突なんて、CGで描いたら「スター・ウォーズ」のライトセーバーさながらの、迫力あるシーンになるでしょうね。
周作は組太刀を寺田宗有に、竹刀打ちを中西忠兵衛に学び、わずか3年で免許皆伝を授けられました。浅利道場に戻った彼に、又七郎は自分の後継者とすべく姪を嫁がせます。
しかし周作は、剣術に対する考えの違いから又七郎と衝突するようになりました。
千葉家にはもともと北辰夢想流という家伝の剣法があり、周作はその組太刀の形も取り入れ、一刀流に斬新な改革をもたらそうという野心に燃えていました。それに対して又七郎は、師より受け継いだ技と形を固く守り続けることを求めたのです。両者の考えはどこまで行っても平行線、決して交わることはありませんでした。話し合いはついに決裂し、周作は流儀の伝書・系譜一切を返上し、妻を連れて浅利の家を出ました。そして新たに、北辰一刀流を打ち立てたのです。
アサリ売りから身を起こし、営々と努力を積み重ねて大名家の剣術師範にまで上り詰めた苦労人の又七郎にとって、自分を拾ってくれた中西家への恩義はそれこそ海よりも深く(アサリだけに・・・)、自派に対する思い入れも、人一倍強かったことでしょう。同じように目をかけてやった周作が、自分と中西派を捨てたことは、許し難い裏切り行為と感じたかもしれません。
そうは言っても、去って行った者にいつまでもこだわっているわけにはいきません。やがて又七郎は、忠兵衛の二男を養子に迎えます。彼は養父の名を受け継ぎ、浅利又七郎義明<よしあき>と名乗りました。
又七郎義信に見込まれただけあって、義明も優秀な剣士でした。明治維新後には、徳川宗家を継いで静岡藩知事となった徳川家達<いえさと>の撃剣指南役を務めたりしています。
その維新に活躍した英傑山岡鉄舟高歩<やまおかてっしゅうたかゆき>は、北辰一刀流を学び一流の域に達しますが、何か満たされないものを感じていました。そんな時に義明と立ち合い、彼の人物と小野派一刀流の奥深さに感嘆し、すぐに入門します。そして日夜研鑽を重ね、ついに一刀正伝無刀流を創始するのです。
小野派一刀流の古さに飽き足らず、より合理的な北辰一刀流を興した千葉周作、逆に伝統がもたらす技術を超えた高みを求めて小野派一刀流に回帰していった山岡鉄舟。2人の生き方は対照的ですが、どこまでも理想を追い求める姿がどちらも格好いいな、男が惚れる男とは、こういう人たちなんだろうな、と思いました。
でも、不器用ながらも実直で、一途に自分の信ずるものを守り通そうとした浅利又七郎義信のひたむきさも、なんかいいな、と感じます。
【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
戸部新十郎著『日本剣豪譚<幕末編>』光文社、1993年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
早乙女貢他著『人物日本剣豪伝<4>』学陽書房、2001年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年
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