ひろむしの知りたがり日記

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築地に生まれた海のサムライ養成学校 ─ 軍艦操練所跡

2012年11月24日 | 日記
幕末三舟のうち、高橋泥舟と山岡鉄舟が深く関わっていたのが講武所なら、最初築地に設けられていた講武所の地を譲り受けた軍艦操練所に縁があるのが勝海舟です。
幕府はペリー艦隊来航後、西洋式海軍建設の必要性に迫られ、安政2(1855)年、オランダ海軍の将兵を招いて肥前長崎に海軍伝習所を開きました。やがてこれを江戸に移そうということになり、安政4年3月、永井尚志<なおゆき>・矢田堀鴻<やたぼりこう>らが伝習を終えた学生を連れて、もとスンビンといいオランダから寄贈された軍艦観光丸を回航して江戸に帰り、4月11日に軍艦教授所が築地の幕府講武所内に作られました。海軍教授所、軍艦操練教授所とも呼ばれ、これが軍艦操練所の起こりとなります。

操練所があったのは、今日では中央卸売市場となっている一帯です。東京メトロ日比谷線の築地駅を出て新大橋通りを南西に進み、築地4丁目交差点で交わる晴海通りを隅田川に架かる勝鬨橋<かちどきばし>方面に向かって行くと、築地6丁目交差点の南東角に、平成21(2009)年3月に中央区教育委員会が設置した「軍艦操練所跡」の説明板(東京都中央区築地6-20)が、歩道の植え込みの中に立っています。


晴海通り沿いに立つ軍艦操練所跡の説明板
 
永井たちが江戸へ戻るに際して、長崎の伝習所ではちょっとした問題が起こります。この年はオランダ人教官交代の年にも当たっていたため、彼らは教官・伝習生双方が全て入れ替わってしまっては不便だと主張したのです。そこで伝習生の1人だった海舟は、4、5名の仲間とともに長崎に留まりました。
このことが海舟にとってはかなり不満だったようで、始終癇癪を起こしては周囲を困らせていました。ところが如才のない彼は、新任のオランダ人教官たちにはいたって親切で面倒見がよく、評判すこぶる良好だったので、伝習所随一の実力者となりました。
一方、築地の操練所では永井が総督、矢田堀が教授方頭取に就任し、佐々倉桐太郎・鈴藤勇次郎・中浜万次郎ら多数の教授・教授手伝などを置き、測量・算術・造船・蒸気機関・船具運用・帆前調練・海上砲術・大小砲船打調練・水泳水馬などを、旗本御家人はもちろん諸藩の藩士にも教授しました。
こうして一時は江戸・長崎両地で海軍教育が併行して行われましたが、安政5年にオランダ将兵による長崎の伝習は終了しました。翌年1月15日、海舟は3年ぶりに江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に任じられます。いまや押しも押されぬ海軍のスペシャリストとなった海舟が、咸臨丸に乗り込んで日本人の手による初めての太平洋横断航海に旅立つのは、それから1年後の万延元(1860)年1月のことでした。そして同年同月、軍艦操練所に土地を明け渡した講武所は、神田小川町(千代田区三崎町2)に移転していきます。
やがて、操練所を度重なる災厄が襲います。元治元(1864)年3月に焼失し、南隣りに仮稽古所が置かれました。慶應2(1866)年7月19日には海軍所と名を改めましたが、同じ年の11月、再び類焼して浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に移りました。

維新後、わが国の海軍教育を引き継いだのは、明治2(1869)年9月18日に新政府が海軍用地となった築地の芸州藩邸跡に創設した海軍操練所でした。これが後に海軍兵学寮、そして海軍兵学校となります。
中央卸売市場の一角に鎮座する魚河岸水神社<すいじんしゃ>(中央区築地5-2)の境内には、入ってすぐ左手隅に「旗山」の文字が彫られた山形の石碑があります。これは明治5年に海軍省が設立された後、海軍卿旗を掲げた場所だということを示すもので、わずかながら当時の面影を偲ばせています。

水神社の「旗山」碑

【参考文献】
石井孝著『勝海舟』吉川弘文館、1974年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第4巻他、吉川弘文館、1984年他
日本歴史大辞典編集委員会編『日本歴史大辞典』第4巻、河出書房新社、1985年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
一坂太郎著『エコ旅ニッポン5 東京幕末維新を歩く旅』山と溪谷社、2008年

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