ひろむしの知りたがり日記

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SAMURAI、アメリカへ ─ 万延元年遣米使節記念碑

2012年09月23日 | 日記
都営三田線・芝公園駅のA3出口から、日比谷通りを御成門方面に向かって3分ほど歩くと、芝公園の一角(10号地)に「万延元年 遣米使節記念碑」(東京都港区芝公園2-1)があります。これは昭和35(1960)年6月、日本の外交使節団が初めて太平洋を渡って以来100年になるのを記念して、日米修好通商百年記念行事運営会によって立てられたものです。
万延元(1860)年2月13日(陽暦。和暦では1月22日)、日米修好通商条約の批准書交換のために、正使新見正興<しんみまさおき>、副使村垣範正<むらがきのりまさ>、目付小栗忠順<おぐりただまさ>らの使節団が、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜を出航しました。
余談ですが、ポーハタン号は安政元(1854)年のマシュー・カルブレイス・ペリー提督2回目の来航時の旗艦です。そしてさらに余談ですが、芝公園の遣米使節記念碑の向かいには、ペリーの出生地である米国ロード・アイランド州ニューポートから東京都に贈られたペリーの胸像(「ペルリ提督の像」)が立っています。

使節団は上記の3人のほかに、役人17名、従者51名、賄方<まかないかた>6名の計77名でした。太平洋に乗り出した一行は、ハワイに寄港し、現地時間の3月29日にサンフランシスコへ到着しました。4月7日に同地を出発して南下、パナマ地峡を汽車で横断して大西洋側に出、アメリカ軍艦ロアノーク号に乗って北上し、小蒸気船に乗り換えてポトマック河を遡り、5月14日、ワシントンに到着しました。
そして同月17日にはホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領と謁見します。新見たちは狩衣<かりぎぬ>や鞘巻太刀<さやまきたち>など最高の礼装で会見に臨みましたが、将軍には徳川家の人間しかなれない日本に生まれ育った副使の村垣は、大統領は4年毎に行われる国中の入札(選挙)で決められるため国君ではないとし、上下の別も、礼儀もない連中だから、狩衣を着たのも無益だったと日記に書いています。

批准書の交換は、5月22日に国務省で行われました。一行はさらに国会議事堂や海軍造船所・天文台・博物館などを見学、20日間あまりをワシントンで過ごした後、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどを歴訪して盛大な歓迎を受けました。6月30日、ナイアガラ号に乗ってニューヨーク港を出帆、大西洋から喜望峰を回り、バタビア(ジャカルタ)、香港に寄港して、11月9日(和暦9月27日)品川沖に到着しました。

使節団が留守にしていた9ヵ月の間に、日本の情勢は大きく変わっていました。3月3日に大老井伊直弼<いいなおすけ>が桜田門外で暗殺され、攘夷熱が高まっていたのです。そのため、一行はせっかくアメリカで吸収した新知識を活かすことができませんでした。


芝公園内にある万延元年遣米使節記念碑。背後に見える赤い建造物は増上寺三解脱門

遣米使節記念碑と向かい合うペルリ提督の像

使節一行の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが咸臨丸<かんりんまる>です。
咸臨丸は幕府の注文によって、オランダのホップ・スミット造船所で建造されました。原名をヤパン(日本)号といいます。全長48.8メートル、全幅8.74メートル、100馬力の蒸気機関を備えた3本マストの木造スクリュー蒸気艦です。満載排水量625トン、速力6ノット、30ポンドカロネード砲8門、12ポンド長カノン砲4門の計12門のほかに、6門の補助砲を備えていました。

咸臨丸に乗り込んだのは、最高責任者として木村喜毅<よしたけ>、その補佐官で実質上の艦長である勝海舟、それに木村の付き人として福沢諭吉、通訳として中濱(ジョン)万次郎もいました。彼ら96名の日本人のほかに、日本近海で遭難したジョン・マーサー・ブルック大尉ら11名のアメリカ人が乗船していたのですが、これがトラブルの種となります。日本人だけでは不安なので、アメリカ人士官を付けられたと憤慨した海舟は、彼らの手助けしようという申し出を拒絶しました。怒ったアメリカ人たちは船室に引き籠り、日米の乗組員間の空気は険悪になってしまいました。
海舟はまた、自分より能力の劣る木村が上司に収まっていることにも不満を露<あらわ>にし、始終部屋に引っ込んでいたといいます。なんとも困った艦長です。
ちなみに咸臨丸の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうですから、海舟はそれとは真逆の行動をしていたことになります。
ところがこの日米冷戦は、暴風雨によって文字通り吹き飛ばされてしまいます。艦は大揺れに揺れ、ほとんどの日本人乗組員は、船酔いで作業どころではありません。その時ブルックたちアメリカ人は、海舟の意向に逆らって独断で船を操り、危機を脱したのです。このような事態に、船酔いで自ら指揮を執れなかった海舟は、彼らの協力を受け入れざるをえませんでした。

ポーハタン号に先立つこと3日の2月10日(和暦1月19日)に浦賀を出航した咸臨丸は、日米両国の乗組員が力を合わせた結果、3月17日、サンフランシスコに到着しました。
後から来た使節団を迎え、ワシントンに向けて出発するのを見送った後、咸臨丸は帰国の途に着きます。ホノルルを経由して6月23日(和暦5月5日)、無事浦賀に帰り着くことができました。苦難に満ちた往路で航海技術をしっかりと身につけた乗組員たちは、今度こそアメリカ人の手を借りることなく、完全に日本人の力だけで太平洋を横断することに成功したのです。
海舟はアメリカで砲台・ガス灯・病院・印刷・劇場・製鉄所・武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けました。それは、能力がありながら、固定化された階級社会の中で、なかなか頭角をあらわすことができなかった彼にとって、まさしく理想の体制でした。そして江戸城で帰国の挨拶をした時、老中たちに「アメリカでは、政治の高い地位につく者は国民によって選ばれます。日本のように、どんなボンクラでも身分や家格が高いだけで自動的に偉くなれるなんてことはありません」と言って彼らを怒らせたそうです。先に書いた村垣が、同じ政治体制を見て否定的に受け止めたのとは対照的で、興味深いものがあります。

このように、制度硬直を起こしている幕府に見切りをつけつつも、海舟は日本の未来を見据えて近代海軍を建設する仕事にとりかかります。軍艦奉行並となった彼は、元治元(1864)年、神戸に海軍操練所を設けました。幕臣や諸藩士ばかりでなく、併設した私塾には土佐脱藩浪人の坂本龍馬や、彼に誘われた志士たちも受け入れるなど、身分の別に関係なく幅広く人材を集め、育成しようとしたのです。しかし9月9日の日記でも書いたとおり、激動する時代の渦に呑み込まれるように、海舟の突然の罷免によって操練所が閉鎖されて、彼の近代海軍建設の夢がもろくも崩れ去るのは、それからわずか1年足らず後のことでした。



【参考文献】
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
石川榮吉著『海を渡った侍たち─万延元年の遣米使節は何を見たか』読売新聞社、1997年
NHK取材班編『その時歴史が動いた 7』KTC中央出版、2001年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
船の科学館編『船の科学館資料ガイド7 咸臨丸』船の科学館、2007年

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