ひろむしの知りたがり日記

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幕末維新最強の義兄弟 高橋泥舟と山岡鉄舟 ─ 長昌山大雄寺

2012年11月04日 | 日記
勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の3人を称して「幕末三舟」といいます。ともに幕臣で、「知の海舟、気の泥舟、情の鉄舟」と讃えられました。そのうち鉄舟は、母方の高橋家に養子入りした泥舟の妹英子<ふさこ>と結婚して泥舟の実家山岡家を継いだので、彼らは義理の兄弟ということになります。泥舟は天下第一といわれた槍術家山岡静山<せいざん>の実弟で、自らも槍の名手でした。剣の技を磨きながら静山から槍も学んでいた鉄舟とは、共に武術に情熱を燃やす者同士です。天保6(1835)年2月17日生まれの泥舟の方が、鉄舟より一歳上と年齢も近かったので、実の兄弟以上に気心の通じる仲だったのではないでしょうか。

慶應4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、江戸城中には主戦論を唱える者が多くいましたが、泥舟は恭順を主張し、徳川慶喜にも言上しています。慶喜は朝命に逆らうつもりがないことを示すため、城を出て上野寛永寺子院の大慈院に入って謹慎しますが、勢いに乗る新政府軍は江戸を総攻撃すべく駿府にまで進撃して来ました。
陸軍総裁となった海舟が、慶喜の赤心を新政府側に伝える使者として、大総督府参謀西郷隆盛のもとへ送ろうと最初に考えたのは、当時精鋭隊頭として慶喜の身辺警護の任にあたっていた泥舟でした。しかし彼をあつく信頼する慶喜は、泥舟が自分のそばを離れることを許しません。そこで泥舟が、自分の代わりにと推薦したのが、同じ精鋭隊頭を務める義弟の鉄舟でした。
ただしこの経緯には異説もあります。はじめに泥舟を使者にと考えたのは慶喜自身だったのですが、すぐに思い直して代わりの者はいないかと泥舟に問います。そこで彼が推したのが鉄舟で、慶喜から直接命を受けた鉄舟は、軍事責任者である海舟を訪ねて仔細を相談し、決行に至ったというのです。
言い出しっぺが誰であるかはともかく、鉄舟は見事に大役を果たし、泥舟の期待に答えました。

鉄舟が幕臣として果たした最も重要な役割のきっかけを作った泥舟は、鉄舟の剣術家としての転機にもまた、大きく関わっています。
文久3(1863)年、鉄舟が浅利又七郎義明<あさりまたしちろうよしあき>と試合をした時のことです。小半日もの激戦の末、鉄舟は巨体に物を言わせて足をからめ、中背の浅利を押し倒しました。勝ち誇る鉄舟に、浅利は「倒れる時に打った胴は、確かに手応えがありました」と告げます。鉄舟が竹の上になめし革を張った胴を外して見てみると、右の方の竹が3本ほど折れていました。負けず嫌いの鉄舟は、「私が貧乏で、虫の喰った胴を使っていたからひとりでに折れたのです」と言い張って、敗北を認めませんでした。しかし浅利の道場からの帰りがけに立ち寄った泥舟の家で、事の顛末<てんまつ>を聞いた義兄から「浅利は本物だ」と諭されて反省し、翌日再び浅利を訪ねて無礼を詫び、彼に入門しました。
ここから鉄舟の打倒浅利を目指す長い苦闘の日々が始まります。血のにじむような努力の末、鉄舟はついに剣の極意に達し、一刀正伝無刀流を開くことになるのです。

泥舟は維新後、徳川家に殉じて新政府には一切仕えず隠棲しました。鉄舟もそうしたかったようですが、東京を救ってもらった恩義のある西郷に再三頼まれ、明治天皇の侍従となりました。しかしその俸給はほとんど困った人にあげてしまっていたので、明治20(1887)年には子爵にまで叙されていながら、その翌年に彼が死んだ後には多額の借金が残るありさまでした。その処理を任されたのが泥舟です。かと言って、隠居して書を楽しみ、清貧の中で暮らしていた彼に、当然のことながらお金などありません。何せ、彼の生活費の面倒を見ていたのも鉄舟だったのです。
門人の親戚が質屋をやっていたので、泥舟は1,500円の借用を申し込みました。質屋の主人に「抵当の品は?」と問われた彼は、ニコニコしながら顔を突き出して、「これが抵当です。もっとも私は返済するつもりでいますが、死生は測り難い。もしもの時には、熨斗<のし>を付けて、私にくれることをお願いできませんか」と答えたといいます。これには主人も驚きましたが、その言奇なることに感心し、融資を承諾したそうです。

泥舟は明治36(1903)年2月13日に永眠します。享年69でした。墓は鉄舟の眠る全生庵からほど近い、長昌山大雄寺<だいおうじ>(東京都台東区谷中6-1-26)にあります。大雄寺はJR・京成電鉄日暮里駅の南口から紅葉坂を上り、谷中霊園の中を五重塔跡などに面したさくら通りを抜けた先にある日蓮宗のお寺です。
泥舟の墓は山門をくぐってすぐ、正面に見える本堂手前左手にあり、傍らには東京都の保存樹林に指定されているクスノキが聳えています。樹齢200~300年、幹周6.2メートル、樹高13メートルという見事な巨木です。大きく枝葉を広げたその姿は、まるで根元に寄り添って立つ泥舟の墓を見守っているかのようでした。

 

大雄寺境内にあるクスノキの巨木(上)と、その根元に立つ高橋泥舟の墓

【参考文献】
森銑三編『明治人物逸話辞典』下巻、東京堂出版、1965年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第9巻、吉川弘文館、1988年
児玉幸多監修『知ってるようで意外と知らない日本史人物事典』講談社、1995年
岬龍一郎著『新・武士道 いま、気概とモラルを取り戻す』講談社、2001年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
佐江衆一著『剣と禅の心』新潮社、2006年
黒澤雄太著『真剣』光文社、2008年

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