ひろむしの知りたがり日記

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嘉納治五郎の柔術修行(2) ─ 天神真楊流福田道場

2013年03月17日 | 日記
明治10(1877)年、18歳になった嘉納治五郎は、その年に創立された東京大学文学部に入学します。日本の最高学府の学生となり、知的エリートへの道を順調にスタートさせた治五郎ですが、相も変わらず自らの虚弱な肉体に対するコンプレックスを拭い去ることができませんでした。それを克服するために、柔術の師を探し求めていた治五郎は、整骨をする者の中に元柔術家がいるという話を聞き込んで、看板を見つけてはそこを訪れるということを繰り返していました。そんなある日、治五郎はついに彼を柔術の世界へと導いてくれる人物と出会います。その時の様子を、彼は後に次のように語っています。

「人形町通りのせせこましい路地の内に接骨医の看板を発見して、飛び込んで見たら、白髪を総髪にした、いかにも柔術でもやりそうなお医者さんがいた。早速志望を述べると、『今時神妙な願いだ。自分は出来ないが、友人を紹介して上げよう』とのことで、添書を書いてくれた」(東京日日新聞社編『戊辰物語』所収。森銑三編『明治人物逸話辞典』より引用)

聞くに、八木は天神真楊流<てんじんしんようりゅう>の開祖磯又右衛門正足<いそまたえもんまさたり>の直門で、免許を取った腕前であり、昔は柔術を専門にやっていたといいます。しかし、時勢柄柔術はやめてしまい、今は整骨のみで暮らしを立てているという現状で、8畳間1つしかない自分の部屋では稽古ができないということでした。しばらく考えていた八木は、日本橋元大工町で整骨院兼柔術道場を開いている同門の福田八之助のことを思い出し、治五郎に彼を紹介します。福田はかつて幕府の武術学校である講武所で、世話心得という現在の大学でいえば助教授に当たるような職務をしていた人物です。
治五郎が福田道場を訪ねてみると、そこも決して広いとはいえず、道場のスペースは9畳しかありませんでしたが、なにはともあれ、これでようやく念願の柔術を学べることになったのです。
こんな狭い道場ですから門下生も少なく、たまに来る人が4、5人いて、毎日来るのが青木という者1人、隔日くらいに来るのが福島兼吉1人でした。この福島というのは魚河岸の親方ですが、体重が20貫(75kg)以上もあって力が強く、なかなかの猛者でした。

勢い込んで稽古を始めた治五郎ですが、初日から平素使い慣れない筋肉をどしどし使ったため、翌日は身体が痛くて動きません。朝便所に行ったところが、立ち上がることもできないという有様でした。
またこの頃の稽古着は、今と違って下履きは股までしかなく、上着は広袖だったので、肘や脛<すね>はいつも擦りむき通しで、万金膏<まんきんこう>の絶え間がありませんでした。万金膏というのは打ち身、捻挫、肩こり、神経痛などに効く膏薬ですが、この万金膏のべたばりのため、治五郎は大学の寄宿舎の友人からいつも冷やかされたといいます。
それでも治五郎は毎日道場に通い、福田からは形を習い、青木と乱取<らんどり>などをしました。時には青木が欠席し、福田が灸のあとがうんだなどということで稽古ができないことがありましたが、そうした時は、棒を振ったり、自分で転がって独稽古<ひとりげいこ>をするよう、福田から命じられました。これが数日続くこともありましたが、やはり治五郎は稽古を休みませんでした。

嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』

福田の教授法は理屈抜き、体で覚えさせるという主義でした。治五郎の述懐によれば、ある時福田からある技で投げられ、「今の手はどうしてしかけるのです?」と聞くと、福田は「おいでなさい」と言っていきなり投げ飛ばしました。治五郎は屈せず立ち向かって、「この手をどう、足をどういたします?」と聞き質します。すると福田はまた、「さあ、おいでなさい」と言ってまた投げ飛ばすのです。治五郎がなおも同じことを聞き返すと今度は、「なあに、おまえさん方がそんなことを聞いてもわかるものか。ただ数さえかければできるようになる。さあ、おいでなさい」とまたまた投げつけたといいます。その時は結局どんな技かわかりませんでしたが、後に治五郎は、隅返<すみがえし>であったろうと語っています(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。

明治12年8月5日、治五郎20歳の時にはアメリカ前大統領のグラント(18代)が来日したというので、渋沢栄一の依頼を受けた福田の師匠磯正智<まさとも>や福田らとともに、飛鳥山<あすかやま>にある渋沢の別荘に赴き、五代竜作と乱取をしてグラントに見せるという晴れ舞台を経験しています。五代は治五郎の学友で工学博士となった人物ですが、道場生が少ないために稽古相手に窮した治五郎に誘われて福田道場に入門しました。学問上の都合で横須賀に転居して柔術をやめてしまいますが、続けていたら大家になったに違いないと、治五郎は語っています。

さて、ここで話は戻ります。毎日道場に通い続けて熱心に修行した治五郎は、メキメキと強くなりますが、唯1人、どうしても勝てない相手がいました。それが先に述べた、福島兼吉です。彼を倒すために、治五郎はさまざまな工夫をこらします。しかしこれが、いかにも治五郎らしい、他の誰にも思いつかないようなやり方なのです。次回は、このエピソードについて、紹介することにしましょう。


【参考文献】
森銑三編『明治人物逸話辞典』上巻、東京堂出版、1965年
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年

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1 コメント

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MRA,Amnesty (世良 康雄)
2015-09-19 03:59:25
MRA渋沢は、グラント元大統領の借金噂で操ろうと画策ですか? グラント元大統領子孫は、MRA渋沢派か講道館嘉納派や講道館四天王派とどちらの付き合いでしょう?

【ameba blog Casshern】http://my.ameba.jp/menu.do?guid=ON【Gree RAMBO】http://m.gree.jp/?mode=home&act=top&from=footer&gree_mobile=f2d6927ff0720dbbd78ac1556a00b302
【mixi RAMBO】http://m.mixi.jp/home.pl?
【はてなyasuosera119】http://d.hatena.ne.jp/yasuosera119/archivemobile
横山光輝止め731作戦PX作戦(講道館四天王潰し)は細川伸二武論尊派。池口恵観派道上洋三(柔道道上伯統制噂)山本浩二や東孝や神和住純や小浦猛や福井烈や華頂尚隆や宮内洋と古谷徹と山岸舞彩や荻原一秀(真如苑や小沢一郎大前研一落合信彦弟子)や噂下村?達に病院送りされ、渡部昇一親戚渡部医師(能瀬姉妹、後藤真希)と平良医師(明石家さんま、森泉、山岸)のPX作戦餌食から復活中
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