ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (7) ─ “世紀の一戦”の背後で交わされた密約

2014年11月03日 | 日記
かつては力道山と木村政彦、大山倍達の3人が、よい関係を築いていた時期もありました。
彼らはよく一緒にトレーニングをし、酒を飲み、格闘技論を交し合ったといいます。しかし、プロレスでのスターの座と金に対する執着が、力道山を変えてしまったのでしょう。
彼らの間に亀裂が生まれ、それは徐々に深まっていきました。そしてついに、力道山と木村が全面対決し、倍達も木村陣営に加わって力道山に敵対するという、最悪の結末となりました。

決戦の日時は昭和29(1954)年12月22日夜、場所は蔵前国技館、プロレス実力日本一の座を争う選手権試合として行われることが決まりました。賞金150万円を勝者7分、敗者3分に配分するというものでした。つまり、勝者は105万円、敗者は45万円を手にするというわけです。

力道山とマット上で雌雄を決すると木村から聞いた倍達は、
「私はなにもいいません。しかし、兄貴、力道山はあなどりがたい相手ですよ。これは、よほど真剣になってかからなければいけませんよ」
と、くどいほど念を押しました(『大山倍達、世界制覇の道』)。
木村にもそれはわかっていたのでしょう、倍達に空手のコーチを依頼します。

これは倍達自身が語っているだけで傍証はないのですが、力道山はハワイでの修行時代に、空手チョップを強化するために倍達の教えを受けたとされています。
木村は学生時代から松濤館流の船越義珍に師事したり、義方会で剛柔流を学ぶなど、空手を経験してはいましたが、倍達直伝の空手チョップに対抗するためにも、実戦的な大山空手を身につけておく必要があると感じたのかもしれません。
一方、力道山の方では、“鬼の木村”育ての親である牛島辰熊を招いて柔道の指導を受けており、互いに一歩も譲らぬ気構えで、この世紀の一戦に臨んでいたのです。

              
          文庫『大山倍達、世界制覇の道』の原本『ケンカ空手 世界に勝つ』

倍達は木村に実戦空手を伝授しながら、彼が天賦の才能や腕力に恵まれているばかりでなく、訓練に対する姿勢もまた誠実な武道家であることを、改めて実感したと韓国の息子たちに語っています(『我が父、チェ・ペダル』)。
ところが試合前日、トレーニングのために故郷の九州へ行っていた木村は、信じられない姿で戻って来て、東京駅で出迎えた倍達を愕然とさせます。

なんと、木村は一目で水商売関係とわかる女性を両脇に引き連れ、その上、昼間から酒の匂いをプンプンさせているではありませんか!
何があったのか、と必死で問い詰める倍達に、木村は何も語ろうとはしませんでした。
新聞などでは力道山が好きな酒を断ち、猛特訓に励んでいると報道されており、倍達は勝負の行方に対して暗い予感に襲われます。この時の倍達には知る由もありませんでしたが、木村の醜態の裏には、驚くべき事実が隠されていたのです。

経緯が経緯なだけに、当初、本質的にはショーであるプロレスの例に外れ、この試合は真剣勝負という方向で決まっていました。ところがやはり、業界のしきたりに背くことはできなかったのです。
倍達もかつてアメリカ遠征の際に、プロモーターの意に逆らって本土で試合をすることができなくなり、ハワイに渡って、そこで力道山と出会っています。
力道山VS木村戦でもやはり、途中でさまざまな仲裁が入って、引き分けで収めるという裏約束が交わされました。木村は自伝で、「はじめに引分とし、もう一度引分をくりかえし、そのつぎに相手が勝ち、そしてこっちが勝つという取決をした」(『鬼の柔道』)と、密約の存在を明かしています。

筋書きの決まった猿芝居を演じるのに、猛特訓は必要ありません。
こうしてすっかりやる気を失った木村は、泥酔した姿を倍達の眼前に晒し、失望させます。
しかし、この油断が木村に、地獄を見させることになるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
大山倍達著『ケンカ空手 世界に勝つ』スポーツニッポン新聞社、1972年
大山倍達著『大山空手もし戦わば』池田書店、1979年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
ボム・ス・ファ著、金至子訳『我が父、チェ・ペダル 息子が語る大山倍達の真実』アドニス書房、2006年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年

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