GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

海軍入隊大塚新作さんへの慰問文 2 1943年6月頃

2009年09月14日 | 戦争体験

暫く御無沙汰致しました。
其の後お変り有りませんか僕も毎日元気にて学校に通って居りますから御安心下さい。
家の方はもう蚕も発生しました。さうして大変忙しくなりました。
此の頃は雨が降らないで井戸水に大変困って居ります。そうして苗代を作るにも一所にまとめて作る事になりました。此の間は内出(うちで)の中村勝君の家が焼けました。水がないので容易に消えませんでした。
此の間は新ちゃんの家の正市さん*1に手紙をもらひました。
元気で居るさうですから御安心下さい。
僕はスマトラと言ふ当て名を見る度に椰子(やし)が食べたくなります。
暑くなりますから伝染病や何かの病気にかからぬやうに気を付け一生懸命軍務に盡くして下さい。終りに新ちゃんの御健康をお祈り致します
          さようなら


拝啓長らく御無沙汰致しました私も元気で通学してをりますから御安心下さい。兵隊さんも元気で御奮闘の事と思ってゐます。苗代にはもう種を蒔いてしまひ、桑もすじょうよくのびてまひりました。蚕も大きくなって桑くれも間に合ない程大きくなりました。学校の学園の花も、家の花も、今年も此の夏を仰いでゐるやうに咲いてゐます。今は菜の花や麦の緑が黄になり始めました。たんぼを見ると苗代一面に種を蒔いた所が水にひたひたとなってゐます。私達は麦をよく育上げて、りっぱな麦や稲にしてお国の為に忠義を盡すつもりです。兵隊さんも一生けんめいに働いてお国の為にお盡し下さい。私達も精神を以てお国に御奉公をしたひと思ってゐます。では兵隊さん御身大切にしっかりお働き下さい。
          さようなら
兵隊さんへ
        比企郡七郷国民学校
             高一女 杉田キミ子

  *1:大塚正市。大塚新作の兄。


郡下学生傑作集 冬の朝 菅谷国民学校高等科1年生 1944年

2009年09月13日 | 戦争体験

  冬の朝
    菅谷国民学校高等科一年女子 M
 月日のたつのは、夢の様とはよく言つたもので私も十五回の冬を迎へたのだ。
心好い眠りからふとさめた。なんと窓のガラスが白くなつてゐる。ほゝがすーとつめたくなる。あゝ冬だ。冬がくれば、夏がこひしい、夏がくれば冬がこひしい。
となりの屋根も真白である。青白い月の光がさして光つてゐる。もう雀が起きてゐるのであろう。家の屋根で時々雀の足音の様なことことことと音がする。裏の桐の枯れ葉や何か落るのであらう。かさかさとして一そう冬らしく、又寒いやうな感じが身にしみる。店の時計が四つなつた。まだ四時である。冬の四時では、まだ一面星でうずまつてゐるが、夏ではもう東の方が白くなるであろう。どこかで戸をあける音がする。あつ-そうだ今日は十四日ではないかあすは小正月だ。母も起きた。私も起きようと思つたがあまり寒いので狸寝入をしてゐた。餅をつく音に、目をさまされた。うとうとしたのだなと感じ又家でも餅をついてゐるのに感じた。私も起きて手つだつた。六時半だつた。餅つきを終つてかたづけをしてゐた。すると前の通りを十人位ではあはあしながら通つた。町の工場へ行く人だなとすぐ感じた。下駄の音だの、息をはずませたり歌をうたつたりとても一時にぎやかになつた。あれこれしてゐる内に七時半になつてしまつた。「行つてまゐります」の声も元気よく兄弟三人家を出た。皆あつまつた霜柱をふみながら登校だ、皆のはく息が白く煙のやうにはつきりとわかる。北風が私たちのほゝを無断でなぜて行く。時々は畑の土をまぜてもつてくる。あゝいやな冬だ。早く裸で居られる夏がやつてくるのがまち遠しい。秩父山が西の方にうねうねとして、寒がつてゐる私達を笑つてゐるやうである。からりと晴れた日本晴の日だ。たゞ一点西の方から東にかけての雲が、今日も寒い風を吹かせてやらぞと言つてゐるやうである。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生傑作集 俳句 菅谷国民学校6年生 1944年

2009年09月12日 | 戦争体験

  俳句
    菅谷国民学校初等科六年男子
庭先にこうろぎ鳴いて夜露おり    K
涼み台北極星を見つけけり
稲を刈る頭上にとんぼ限りなし
奥山の紅葉にかゝる時雨かな     N
大霜に音なく落ちる木の葉かな
霜晴れや木から木へとぶ小鳥たち   Y
日あたりで拾ふ落葉や冬の山
年暮やマキンタラウに花と散り    N
元日や初日に浮ぶ大八州       Y
冬の夜や兄弟二人で縄なひり     N
田圃路一人で通る寒さかな      T
十二月 皇太子様 御誕辰      O
残月に露ある草を刈りにけり     G
大らかに初日は出でぬ大八州
明月や蟲鳴く声にひきづられ     S
冬の日や遠く見えるは雪の山     K
ゐろりばた泣き泣きあたる子供かな  T
南天の実をつゝきゐる雀かな     U
冬山の炭焼き煙昇り立つ
放課後やしんとしづまる校舎かな   O
冬小春汽車の笛聞く山の上
道ばたにぱさぱさ落ちる木の葉かな  T
霜晴れやくつきり見える赤城山    N
放課後に撃ちてし止まむの寒稽古
秋風にさそはれさうに使かな     N
初霜の寒さ知らるゝ長大根
雪の日や窓に飛び入る雀かな     F
月冴えて手桶の水にうつりけり    N
道端に青々と見る麦のさく
戸の穴にぼろをつゝこむ寒さかな   S
よその田も追つてやりたい村すずめ
あの山この山みんな淋しい冬木立   T
わらにゆのもみをつゝつく雀かな
北風に負けるな雀飛び廻れ      O
正月やイロハがるたの面白さ     M
寒稽古戦地を思へばなんのその
そよ風にゆられてこぼるすゝきのみ  Y
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生傑作集 元日の朝 鎌形国民学校5年生 1944年

2009年09月11日 | 戦争体験

  元日の朝
    鎌形国民学校初等科五年男子 N
紀元二千六百四年の元日の朝、僕は早く起きました。すぐ着物を着かへて顔を洗ふと、神だな、仏様、氏神様にお参りしました。それから、家中そろつておざうにをたべました。今年のお正月は決戦下のお正月ですから、配給になつた物きりありません。僕の家の方へは、数の子とますが配給になつたのでお正月にたべました。おざうにをたべてから学校へ行きました。学校で新年の拝賀式の列につらなりました。畏くも両陛下の御影を拝しまして此の日本の国の尊いことが深く深く感じられました。校長先生のお話しによりまして決戦下の私等少国民の行ふべきことを年の改まりと共に脳にきざみました。式が終りますと全校児童打ち揃つて鎮守八幡神社に行き神社の歳旦祭・祈願祭に参列致しました。先づ 天皇陛下の弥栄と皇軍将士の武運長久と必勝を祈りました。終つて通学団毎に列を正して家路につきました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生傑作集 麦蒔 七郷小学校4年生 1944年

2009年09月10日 | 戦争体験

  麦蒔
    七郷国民学校初等科四年男子 K
きのふは日曜なので一日麦蒔の手伝ひをした。僕のしごとはねえちやんとたいひ(堆肥)を畠へ運ぶことであつた。
お父さんはため(溜)を前の畠へ出すしおぢいさんはさくをこまんがで引きました。
おばあさんはたねまきをするし大きいねえちやんはさくへ肥料をひいてあるきました。
あ母さんは共同作業に出ました。
たいひをかごにいれてリヤカーにつんでは僕が引いて小さいねえちやんはおしてをしました。
僕が一生けんめいにしたので大きいねえちやんが「よくあきづにするなあ」といつたから僕は「大きいねえちやんだつてよくあきずにするではないか」といつたらおばあさんが「だつてねあちやんはおとなだもの」といつたのでみんなが笑つた。
夕はんの時「よく働いたね」とお母さんにもほめられた。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生作文傑作集 元日の朝 七郷小学校4年生 1944年

2009年09月09日 | 戦争体験

  元日の朝
    七郷国民学校初等科四年女子 T
 元日の朝はいつもより早く起きて国旗を立てました。その時は何とも言へないよい気持がしました。それから天じんやまへ廻文を持つて行きました。にはとりがわらの上で鳴いて居ました。池や堀にはうすい氷が張つて居ました。私はいかにもお正月らしい気がしました。
 家中そろつて宮城*1えうはい(遥拝)*2ときねん(祈念)をしてからおざうに(お雑煮)をいただきました。その時私はこのお餅を兵隊さんにあげたいなあと思ひました。
 もう神社参拝に行く頃だと思つて、みんなを待つて居ました。そのうちにみんなが来ました。私はみんなと一しょに神社へ行きました。神社にはまだ一人も来て居ませんでした。少したつと向ふから大澤先生が来られました。みんなそろつて「明けましておめでたうございます」と言ひました。そのうちに安藤先生も来られました。
 大澤先生が「みんなそろひましたからそろそろ始めませう」と言はれました。みんなそろつた宮城えうはいをしました。それから戦死された兵隊さん、マキン、タラワで戦死された兵隊さんに、かんしやのもくたう(黙祷)をささげました。その時目にあつい涙がいつぱいになりました。それからいろいろ先生のお話を聞きました。そのまま並んで学校へ来ました。ちやうどこうしん様(庚申様)の所へ来た時先生が「ここで、えうはい(遥拝)を致しませう」といはれたので、みんな宮城の方に向つてえうはい(遥拝)をしました。又並んで歩き出しました。
 学校へ来て式をしてから教室でいろいろ、先生のお話をを聞きました。
 家へ帰つて兵隊さんにあげるゐもん文(慰問文)を書きました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月
  *1:1888年(明治21)旧江戸城の皇居を宮城と称して以来、1946年(昭和21)までの皇居の称。戦後は皇居を使う。
  *2:遥拝(ようはい)。遠く隔たった所から神仏を拝むこと。宮城遥拝は皇居の方向を望み、頭を下げて敬礼をすること。
  *3:マキン・タラワ島の日本軍玉砕。1941年(昭和16)12月日本軍が占領したギルバート諸島のマキン島、タラワ環礁に、1943年(昭和18)11月米軍が上陸、24日日本軍マキン島守備隊が殲滅され、翌25日タラワ島守備隊も殲滅された。12月15日大本営は、「タラワ島およびマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は3千の寡兵(かへい)をもって5万余の敵上陸軍を邀撃(ようげき)、奮戦したが、11月25日最後の突撃を敢行、全員玉砕(ぎょくさい)した」という趣旨を発表した。

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生作文傑作集 新年を迎へて 鎌形小学校3年生 1944年

2009年09月08日 | 戦争体験

  新年をむかへて
    鎌形国民学校初等科三年男子 I
 初日の出もしずかなお正月です。雲一つありません。国旗を立ててからおぞうにをたべて学校へ新年祝賀しきに行きました。おしやしん*の前にしせいを正しくさいけいれいをしました。この時ぼくはしずかに考へました。私達は忠義をつくすことの、ほかに自分のつとめはないと思いました。しきがおはつて家にかへりました。あたたかい日なので何げなく梅を見ますと芽の出はじめたのや花のさいたのがいく枝かありました。友達がたこをあげてゐたので私は戦地の事を思ひ出しました。はげしい飛行機のたたかひや兵たいさんたちの事を思ふと私は一生けんめいべんきやうをしなければならないと思ひました。兵隊さんはお正月もなく戦かつてゐることを思ふとおもちをたべてしずかなお正月ができることをありがたく思いました。米英をやつつけてみんなたのしいお正月をするやうに氏神様にお祈りして家にかへりました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月
*:「御真影」のこと。

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


町村だより 菅谷村(現・嵐山町) 2 1944年

2009年09月07日 | 戦争体験

 第一線に日夜御活躍の兵隊さん明けましておめでとう御座居います。
 聖戦第三年の新春を迎へ皆さんますます張り切って居ることゝ存じます。こちら菅谷村民一同も皆様に負けぬ心持で増産に励んで居ります、御安心下さい。今日は本村の最近の景を片言集と題しお知せ致します。
 旧臘十二月十日、農業推進隊員に選ばれた松本利次(大字鎌形陸軍兵長)氏は本村の農家を代表し内原の訓練所に入所十九年の一月下旬まで全国より選ばれた若人と共に農業魂を養って来る。
 一月八日大詔奉戴してこゝに二度目【ママ】の日を迎へた。本村に於ては、聖戦達成、皇軍将兵の武運長久祈念其の他の記念行事を行ふ。この日、在郷軍人分会、壮年団青少年団青年学校(男女)国民学校等々各種団体は暁天動員を字神社で行ひ、次いで八時より郷社八幡神社に各団体集合荘厳な式を行ふ。一〇時に忠魂碑前に集合殉国の英霊に対し感謝の報告を行ひ一層敵米英撃滅、撃ちてし止まんの決意を新に致しました。
 決戦に休暇なし多忙を極めてゐる役場其の他諸官庁公所等々休暇返上し三十一日まで職務励行、次に役場内の景を、大東亜戦下人的資源の確保は絶対に必要なり、されば結婚適齢者を登録し之が確保に万全を期するやう係りの助役さん其の他一同大童で活躍してゐます。一ケ年の決算調査に目もまはる程忙しい収入役さんは、ソロバンと猛烈にとつくんでゐる。パチパチと気持よい音を立てゝ之又ソロバン玉が動いてゐる税務係りの机上。藁工品増産に関する件云々などの文字が墨痕鮮やかに残されてゆく農会技術員の机上。或は次の時代を背負ふ子供-出生届書には「征雄」などと命名されてある。戸籍係の机上電話のリンはうるさく鳴つて来た。調書らしきものを持ち県庁へ報告の統計係の姿等々、決戦下の有様が僅か○坪の役場内ではつきりわかる。
 一夜明ければ元日-昭和十九年の新春は明け離れた家毎に立てられてある国旗、言ひ知れぬ感が身体全体にみなぎるやうだ。
 青年学校新年式場-冷風に吹かれつゝ助役殿の祝詞を聴く、「徴兵年齢が本年は一年低下した。諸君の内上級生はことごとく本年内に晴の徴兵検査を受け第一線に馳るのである。諸君思ひを新にせよ」と力強い言葉が響いてゐる。農士学校検校の筆、菅谷青年学校の門札が厳としてゐる独立校として最初に向へるお正月だ。
 ヨイショ、ヨイショと元気一ぱいな声が聞へる。こゝは菅谷国民学校の校庭だ。一年生より高学年二年生まで全員、上半身裸体になつて乾布摩擦をしてゐる。可愛い一年生の身体、チヽがポツンとゴマ粒程だ、ニコニコしながら上級生に負けるものかとやつてゐる、実にたのもしい景だ。(関根記)

   前線慰問誌『比企』第1号 1944年(昭和19)5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


町村だより 菅谷村(現・嵐山町) 1 1944年

2009年09月06日 | 戦争体験

 御国の為に出兵の皆様方に御便りを私も乱文乍ら御仲間入させていただきます。決戦の新しき年を迎へまして銃は執らなくとも我が菅谷村民は職域奉公に邁進しつゝ朝な夕なに皆様方の武運長久を祈り毎日を送って居ります。多事なりし昭和十八年も夢の如く過ぎ去り戦局は日を遂うて凄愴苛烈を加へつゝあるこの秋、私達村民は皆様方の御苦労を感謝し食糧増産貯蓄増強等に驀進しております。
    ものゝふの大和心をより合せ
            ただ一筋の大綱にせよ
 銃後の誉れの家の方々も大和心を更に更により合せて一本の大綱(おおづな)にして米英に最後のとゞめさす迄はと頑張り抜く意気です。
 村民各位始め吾々はこの君国に生れてこの大戦争を戦ひ乍ら安らかな毎日を送ることの出来ると言ふことはなんと言ふ有難いことでせう。常に感謝に生き感謝の毎日を送り「聖戦へ民一億の体当り」此の意気で精出して居ります。国民学校の生徒も「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです」と歌ひながら木枯吹き荒ぶ昨今元気で通学して居ります。
 来る二月七日には玉川に分会査閲があります。兵役法の改正で仲間が多数となり、皆々様の仲間入が出来ると期待しつつ戦力増強に努めて居ります。
 本日役場の掲示板にも米供出完了の書出し報告を貼りました村民各位の粒々辛苦を御報告申上ます。
    うき事の猶此の上に積れかし
            力ある身の力ためさん
 一月一日            役場内  根立生

   前線慰問誌『比企』第1号 1944年(昭和19)5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)1月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月05日 | 冨岡寅吉日記

   富岡寅吉日記 1941年(昭和16)

一月一日 水曜 晴
四方拝・興亜奉公日 天神講
夕べの風で二千六百年もおいはらわれた。お正月なのでにはとりもうれしげに鳴く。天神講で金井仲次郎君*の家が宿である。夜などはとても快よかった。
*同級生
鎌形八幡神社に於いて入営兵祈願祭執行
菅谷第一(菅谷小)・二(鎌形小)小学校で四方拝執行

一月二日 木曜 晴
天神講
にはとりの声で目がさめた。時計を見ると六時であった。天神講の旗を納めた。葉山隼人の本を読んだ。昼食をして天神講もかいさんした。午後はベースをした。大沢君*の庭で狩人遊びをした。
*大澤知助。当時高等科一年生。

一月三日 金曜 晴 大風
元始祭
起きるのはおそかった。父とまきは東京方面に使に行くので嵐山駅までおくって行き松山に行った。弟の日記を買って来た。水戸黄門漫遊記の本を買って来た。ベースをした。

一月四日 土曜 晴・大風
御用始 御地蔵様*
花房淑子(よしこ)のしばいを見にいった**。とても上手であった。起きるのはおそかった。水戸黄門漫遊記の本を読んだ。斉藤三郎さんの家へ行った。風ははげしかった。午後御地蔵様へ行った。金井宣久君***とした。受信三名。
*玉川村大谷の真教地蔵
**談:玉川村の二本木座で観た。
***当時高等科一年生。

一月五日 日曜 晴・穏静
新年宴会 麦ふみ
朝も寒い。まきはお客に行って三日目である。乾草を切った。まき引きもした。水戸黄門の本を読んだ。昼前にお客は帰って来た。午後、田に麦ふみに行った。小麦はまだよくはえて居なかった。

一月六日 月曜 晴・小風
小寒 木の葉掃き
起きるのがおそかった。支度をして桑の木を切った。父も水車に行って来て馬小舎の肥出しを始めた。終る時分はもう昼近かった。昼食して遠い方の山に木の葉はきに行った。ぬすまれた所が少しあった*。三籠はいて家へ来た。受信富岡暉三様
*談:他家の持ち山を勝手にはいてしまうこと。盗みはき、盗人ばきといった。

一月七日 火曜 曇・初雪
初雪 木の葉はき
朝食は七草がゆを喰べた。もう支度がしてあったので山に行った。三籠はくのは早い時間で出来た。家へ来ると昼であった。昼食もおひしかった。まりを持って遊びに行った。ベースをした。発信富岡暉三様外四名。受信富岡作次。芝辻十三。合三通。
応召軍人祈願祭鎌形八幡神社に於いて執行。

一月八日 水曜 曇・小雨
陸軍始 始業式
今日は学校の始業式である。雪は止み小雨がちらついて居た。教室を掃除した。校長先生の話。本郷先生のわかれの式*をして掃除をした。唐子境いまで先生を送った。子守りをした。明日は入営兵士を送る。受信芝辻十三。富岡作次。受信金井小市。以上
*本郷春治。1941年(昭和16)1月10日現役兵として入営。
東条首相、「戦陣訓」を示達。

一月九日 木曜 晴・静穏
米の検査 大掃除
菅谷村より入営兵士や出征兵士が出る。大蔵からも三人出る。神社に行くと誰もゐなかった。嵐山駅より十六人出発した*。第二時は話。三時読方。四時国史をした。大掃除をした。家へ来て子守りをした。忙しくない。
*午前9時23分平沢大野実東部第17部隊応召及び現役鎌形斉藤重好・菅谷内田喜平・大蔵野村収一・金井當恒東部第7部隊、平沢奥平美太郎・千手堂瀬山友治・菅谷中島平吉・大蔵川島重治東部第62部隊、志賀大野義男東部第64部隊、志賀高橋敏郎・鎌形星野由三東部第12部隊、鎌形岩澤竹雄東部第84部隊、平沢内田孝・千手堂西澤茂文・将軍沢岡本九次横須賀海兵団出発。

一月十日 金曜 小雨
空模様はとても悪かった。だが雨は降らなかった。カルトン*を取りに来た。一時修身。二時読方。三時地理。四時体操。五時図画。少し話があった。帰る時分は雨が降り出した。同級生の者と一しょに家へ向った。本を見た。発信兼子みよ子(まきより)。受信吉野廣一君**。金井當恒。
*カルトン鉢。熟蚕を拾うボール紙製渋塗りの盆。径一尺位
**筆者の従兄弟。

一月十一日 土曜 晴
くらびらき*
空雨模様であった。学校に行くと大部多く来て居た。一時読方自習。二時続き。三時同。今日は職業紹介所の人が来て話があった。掃除して家へ来た。庫びらきなので遊んだ。いろいろした。
*この日は蔵開きや鏡開きだった。

一月十二日 日曜 晴・大霜
とても大霜であった。うす引きをした。四人で引いたのでかるかった。もろこしを引く音は快い音である。まきわりもした。午後もうす引きをした。桑の木はこびをした。発信吉野廣一(ダン長*)。受信兼子源吉。川島重次。
*あだ名。

一月十三日 月曜 晴・大風
今朝も大霜であった。麦の為には大部よかろう。一時修身。教授案ををしへた。二時算術。三時農業。牛乳の利用。四時理科。神経系。掃除をして家へ来てまきを切ったりわったりした。大風が吹いた。夕方。発信兼子源吉。

一月十四日 火曜 晴
モチツキ*
霜は降りても寒くない。下駄をはいて行った。中村に本をかりた。一時算術P57P58。二時読方第十二課ハワイ通信。三時間関口さんといふ川口国民工場の人の語。四時国史。五時唱歌をして家へ切るともう間はない。本を見た。発信川島重治。金井當恒。
*小正月なので餅をついた。

一月十五日 水曜 晴・穏風
海軍始 国旗掲揚
朝食は小豆粥*であった。学校に行き金井君に「竹丸忍術破り」の本をかりた。朝礼、神社参拝、国旗掲揚をした。算術、地理、理科で四時間すぎた。掃除をして家へ来てたのしくあそんだ。受信大久保高則。
*小正月の行事。

一月十六日 木曜 晴・小風
ダンゴ正月
朝当番である山下和十郎君は休みなので自分一人と思ってがっかりした。野村、山下君は試験を受けに行った。一時読方。二時国史。三時国史をした。今日は小正月十六日で三時間で終りとなった。松本昭三君*に清水次郎長の本をかりて読んだ。面白かった。遊んだ。明日くつの申込み。
*当時尋常科六年生。

一月十七日 金曜 晴・風なし日
山シゴト
風の為霜は少し。本の説明等をした。関口政次君*に義士銘々伝の小説を借りて読んだ。一時修身。靴の申込みをした。二時読方柳生宗矩。三時地理。四、読方。五時図画に絵の具をぬり始めた。家へ来て支度をして山に居る父の所へ行き車の後押しをした。発信金井小市。
*同級生。

一月十八日 土曜 晴
山シゴト
義士銘々伝を読みながら行った。先生は松山に行った。一時読方自習。二時算術自習。三時ボールをした。家へ来て山に行った。一車、三籠はいて来た。明日は日曜日です。よろしく。

一月十九日 日曜 晴・穏風
日曜日である。大寒に近いので朝などは寒い。仕事の支度をした。車を引いて山に行くとあつくなった。昼食前に三十束はいた。三籠と十束、合計五十束はいた。近所の人も行って居た。家へ来てもちを喰べた。

一月二十日 月曜 曇・大風
大寒
空は晴天であった。青年学校に入る者にはくつが配給になるらしい。四時間して家へ来た。そして遊びに行った。面白かった。靴の配給がくるらしい。

一月二十一日 火曜 晴・風
夕べの風は大風であった。朝も吹いて居た。学校に行った。教室も寒い。一時算術方位。二時読方柳生宗矩。三時国史、四時珠算。五時唱歌埼玉国民の歌*をした。家へ走ると夕方となった。
*埼玉県民歌。
入営兵祈願祭八幡神社に於いて執行。

一月二十二日 水曜 晴・曇
靴の配給
今日は靴を売るので用意して行った。一時算術。靴を休み時間に売った。一円七十三銭であった。二時地理小麦。綿。三時理科眼。四時書方山川草木轉荒涼十里風腸新戦場*を書いた。五時武道をした。家へ来ると父が雉子を取って来た。うまかった。
*乃木希典作。「山川草木轉荒涼。十里風腥新戦場。征馬不前人不語。金州城外立斜陽。」

一月二十三日 木曜 曇
暖い為夕べは雨降りであった。今朝はまるで春の気持ちがした。朝礼があった。一時読方をした。二時国史。三時綴方。四時農業。五時実習。麦ふみをした。農業当番で色々した。帳面の作りかへをした。以上

一月二十四日 金曜 雨
学校に行って日の丸を作くった。サイレンが鳴って一時間して志賀の出征兵士*を見送った。三時読方。四時地理。砂糖。五時図画書上がらなかった。家へ来てまき割りをした。とても面白い事業である。出征兵士内田金作。
*応召兵志賀内田金作10時23分武蔵嵐山駅出発。

一月二十五日 土曜 晴・風
早く行って図画を書いた。一時読方第十五、六をした。二時自習。使をした。三時算術。珠算をするともう間もなくなった。今日は女の常会である。家へ来てまき割りをした。湯の火もしをした。受信芝辻十三。

一月二十六日 日曜 晴
大竹サーカス始。サーカスを見に行った。
支度をして山へ行った。車で行った。三籠はいて家へ来るとちゃうどお昼であった。昼食して菅谷のサーカスを見に行った。「二十五銭」であった。とても好いのをした。綱渡り、ブランコ、曲馬、などして面白かった。

一月二十七日 月曜 晴・曇
朝当番
朝当番なので早く起き支度をして山下両君*の家へ行った。今日は仏教会から来て女に作法を教へるため自習、珠算をした。今日は四時間しかしなかった。家へ来て畠に肥ひつこみをした。菅谷の根岸宇平さんが来た。
*山下和十郎、山下三郎。共に同級生。

一月二十八日 火曜 晴
肥引キ
霜も大部ひどい。葉書きを出した。先生は居ないので自習である。木村君*に本をかりて見た。今日は四時間で家へ来た。今日も畠の肥引きである。其所の畠も終り、前畠も始めた頃、赤浜の兵隊の大久保高則さんが来た。発信二名。
*木村金助。当時尋常科六年生。
午後1時より菅谷村常会開催。

一月二十九日 水曜 晴
下肥出し 麦踏み
雲か晴か良くわからなかった。学校に行って角力をした。角力は面白い。一時昨日の話をした。二時算術。三時地理。四時書方。今日も四時間である。家へ来て畠へ麦踏みに行った。畠は代々前(だいだいまえ)の方を皆三人で踏んだ。

一月三十日 木曜 晴・風
山下君は少しおそかった。学校の砂場で角力をした。面白い。一時自習。二時読方。三時国史。四時農業。五時実習なので男全員麦畠の土入れ。一人三作して終った。農業当番もして家へ来た。手で土入れをした。

一月三十一日 金曜 晴・風
電気の線が切れた。暗かったので寝坊した。学校に行き角力をした。一時修身。二時読方熊本城とつぎをした。三時地理。四時珠算で掛算を教へた。五時図画花鳥を書いた。家へ来て餅を喰って火をもした。明日は神社参拝である。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)2月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月04日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 土曜 晴・風
興亜奉公日 神社参拝 国旗掲揚
神社参拝なので早く起きほうきを持って社庭を酒掃*して家へ来た。学校では国旗を掲揚をした。風もあるので旗がなびく。一時読方。二時もした。三時算術P65地球について。家へ来て畠と田の麦踏み。新聞も来るのである。
*清掃
郷社八幡神社で入営兵武運長久祈願祭執行。

二月二日 日曜 晴・穏風
ツブテブチ*
霜が下りて寒い。今日は祖父さんは穴堀りである。綿くりをした。思ひの外はかどらない。菅谷の方に使に行って来た。午後頭の毛を刈ってもらった。昼食して父、寅、守の三名で田に行き大田を一枚つぶてをうって来た。氷を渡った**。
*つぶて打ち。田の土塊を砕いて細かくする。
**談:農士学校の前のあたりを渡ったのだろう。

二月三日 月曜 晴・かぜ
節分
学校に行って角力をした。一時修身。二時算術。三時唱歌をした。今日は節分祭なのでこれだけである。鬼鎮神社に行って武井勇君と合った。大瀬半五郎の本をかった。豆まきもした。
鬼鎮神社節分会。

二月四日 火曜 晴
立春
大瀬半五郎の本を読みながら学校に行った。角力もした。一時算術。二時読方。三時国史。四時自習をした。五時唱歌をした。家へ来て田に行ってつぶてぶちをした。以上。

二月五日 水曜 晴
フルキコミ*
学校に行き角力をした。一時算術。二時地理。三時地理。三時理科。四時書方。細字をした。五時唱歌。色々やった。家へ来ると夕方となり畠に行ってふるきこみ込をした。
*土入れ。麦のサクの間の土を上からかけて入れる。

二月六日 木曜 晴・穏風
大掃除
朝当番なので支度をして行った。竹のぼりをした。角爪をして幾人もかけた。棒押しもした。一時読方。二時国史。三時綴方自習。四時休みに庭の大掃除をした。教室もした。農業当番でもある。家へ来て田に行った。八本ぶった。

二月七日 金曜 晴
大掃除
夕べは夜番であった。守平は朝当番であった。学校に行き角力、棒押しをした。朝礼をして二時間して又ならんだ。大掃除をした。今日は、半日である。家へ来て田にいった。道具がこわれたりした。明日は比企郡の校長先生が御居出になる。

二月八日 土曜 晴・風
校長先生(比企) シマダ*作り
今日は比企郡下の校長先生がベンキョウヲ見に来るので自転車あづかりの役をした。朝礼もした。一時国史、北清事変。二時唱歌、三時読方の自習をした。家へ来て金井啓助君**にしまだ作りを教った。そして夕方までで一枚作りとげた。以上
*島田蔟(まぶし)。藁を折り曲げて作った蔟で、女性の島田髷に似ているため。
**当時尋常科五年生。

二月九日 日曜 晴
ツブテブチ
朝は寒い。でもがまんして田に行ってつぶてぶちをした。午前(ひる)に一つぶった。午後昼休みにゆかいこみをした。井戸かへもした。少しの時間であった。田に行って野火をつけた。つぶてぶちをした。明日馬料の配給がある。

二月十日 月曜 晴・夜雪
週番となる
暗い中に雪の音がした。時間も来て起きると果して雪である。少かった。学校行き二時間するとからりと銀世界が茶褐色の土と変ってしまった。明日の唱歌練習の為庭でした。今週から週番である。中村君*に寛永御前試合の本をかりて見た。先生の使もした。明日卒業写真を写す。
*中村元介。同級生。

二月十一日 火曜 晴
紀元節建国祭 記念しゃしん ツブテブチ
紀元節である。支度をして学校に行った。式の用意もした。校長先生、福島ジョ役さん*と詞があった。記念写真を写すのである。二郎さん**が家へ来た。家へ来て田に行ってつぶてぶちをして大きいのを終した。
*福島愛作。1941年(昭和16)1月~1946年(昭和21)2月菅谷村助役就任。
**山下二郎。

二月十二日 水曜 晴・夜風
田の仕事(主) シマダ作り(寅)一枚作上
鍛練馬の健康検査である。学校に行き週番なので少し廻った。棒押しや角力などもした。珠算で割算を教へた。地理鉱業。理科電気の感応。実見*もした。四時書方。武道はしない。家へ来て湯かい込みをした。しまだ作りしたけり。
*実験。

二月十三日 木曜 晴・風
朝は曇って居て少々寒かった。学校に行き角力をして五人がけもした。一時読方。二時国史。三時珠算。四時農業。五時下田先生がほうきの作り方の話や詩ぎんを教へてくれた。週番日誌をつけて家へ来たら日もじきにくれにけり。

二月十四日 金曜 晴・風
田仕事(主)
今日は昨日に比べると暖かった。柳生十平*の本を見た。一時修身。二時読方。三時地理。四時珠算掛算をした。五時図画花鳥を書いた。井戸の掃除で失敗をした。農業当番で下肥のかえ出しをして来た。しまだ作りで二山作りき。
*柳生十兵衛。柳生宗矩(むねのり)の子。

二月十五日 土曜 晴
週番終る。発信
手紙を入れてので起く*なった。笹野権三郎**の本を見た。今日は十五日で神社参拝をした。一時算術自習、二時自習、三時下田先生が本を読んでくれた。掃除をして家へ来てしまだ作りをした。水車の正ちゃんが来たかな。発信山下良之助
*遅く。
**笹野権三。
大蔵区常会開催(戸数81戸。出席50名。隣組員異動報告の件。国債払込金の件。所得申告に関する件。興亜奉公日に関する件。節米に関する件。兎供出促進の件。土地交換に関する促進の件。自転車に住所氏名明記のこと。時間励行の改促の件。米代金支払方に関する件。公定価格表作製配布の件。配給米事務場に関する件)。

二月十六日 日曜 晴・穏風
追肥(主・守・寅)
今日は良い日にならうと思った。しまだ作りをした。すぐ田に行ってつい肥の後の麦踏みをした。田に行って大麦畠を昼前にした。午後大田をしてつぶてぶちをした。二番つぶてを始めた。今日は今までにない良い日であった。

二月十七日 月曜 雨
今朝は曇って居た。学校に行き角力をした。少々雨が降って来た。一時自習をした。今日はだいたい自習であった。珠算もした。荒木又右衛門をちっと*見た。
*ちょっと。

二月十八日 火曜 晴
肥料の配給
夕べは少し雪が降り雨も降った。朝当番なので早く支度をして行った。皆一しょに家を出た。今日は先生が居ないので自習である。もう三日続いた。半日で来るわけだが帰らなかったので自習をして家へ来た。しまだ作りもした。肥料の配給である。本家の赤子*が死んだ(十七日)
*富岡澄夫。

二月十九日 水曜 雨
雨水
富岡清さんの入営*なので神社で送った。小雨もちらついて居た。一時算術珠算をした。二時地理。三時書方征馬不前を書いた。四時に理科をした。武道はしない。家へ来て湯かいこみをした。明日箒を作くるのである。以上 受信山岸良之助
*大蔵富岡清東部第62部隊現役出発。

二月二十日 木曜 曇・風
観音様
今日は農業実習があるので竹杖を持って行った。一時読方、二時国史、三時国史、四時農業実習で箒*を作るのである。カギ枝を八本。中心一つかみ。さし枝一つかみで出来上った。観音様なので根岸に行った。あまりにぎやかでなかった。
*竹箒。

二月二十一日 金曜 曇
田仕事(主・寅・守)
今日は集まるのが皆一所であった。朝礼があって明日の話をした。一時修身、義勇奉公。二時読方鬼怒川の畔。三時地理、鉱業。四時珠算。五時図画花鳥の水彩。農業当番をした。箒をかえした。田に守と行ってつぶてぶちをした。

二月二十二日 土曜 晴・風
朝の中は風もなくおだやかであった。田宮坊太郎の本を読んだ。一時算術、二時読方土の匂。今日はよその先生が来るので二時間で掃除をして家へ来た。大風なので家につつかい棒をかった。本家の人々の手伝ひで。
玉川村葬執行。

二月二十三日 日曜 晴・風
面二十本 しまだ作り
風が吹いて居た。しまだ作りをした。午前はそれだけで午後遠山の水車に行った。麺を二十本持て来た。もう夕方となった。しまだを作って大工の叔父さん*が来て「少し違ふ」と言ったのですぐ教はった。それからは良く出来る。
*富岡正作。

二月二十四日 月曜 晴・小風
組合総会
支度が早く出来た。学校に行って早かった。朝礼で週番の話二つ(一、自習の事。二、ろうかの歩き方)があった。一時修身義勇奉公。二時算術。三時農業。四時理科。今日は信用組合の総会があるので三時間で掃除をした。武道はしなかった。家でしまだ作りをした。良く出来る。
応召兵祈願祭執行。

二月二十五日 火曜 晴
武道練習始る。
山下君は今日は松山に用事があって行った。一時算術P70。二時読方土の匂。三時国史。四時体操始めてして気持ちがよかった。五時唱歌埼玉青年の歌*。今日は武道をした。今日より寒げいこをするのである。家へ来てしまだ作りをした。夜はぼたもちを作くった。
*埼玉青年の歌(杉江健二作詞、海軍軍楽隊作曲、長津義司編曲) 緑に晴るゝ武蔵野に 秩父嶺高く仰ぎつゝ 明朗溌剌青春の 光に満ちて我等起つ 見よや郷土の推進と 埼玉青年力あり

二月二十六日 水曜 晴
朝は暖くなった。今日も武道がある。自習で算術をやった。一時算術P70。二時地理工業。三時書方(葉凋山寺出渓痩石橋高)をかいた。四時理科を少しして兵隊送りに行った。それで五時間終った。武道をして試合もした。負けた。出征軍人岡本惣作*。
*鎌形岡本正作東部第6部隊応召出発。

二月二十七日 木曜 晴
今日は皆集った。自習をしなかった。一時読方土の匂。二時国史。三時「土と兵隊」の本を読んでくれた。四時実習麦の追肥、土かけをした。掃除をして武道を始めた。今日は四人かけた。根岸にまけた。家へ来ると電気がついてゐた。
菅谷村常会開催。鎌形小学校で種痘施行(施行区域は鎌形・大蔵・根岸・将軍沢)。

二月二十八日 金曜 晴
種痘
朝当番なので早く支度をした。春雨模様であった。でももう暖い。一時修身義勇奉公、読方雪、地理工業、三時間で掃除をした。今日は種痘である。「土と兵隊」を読んでくれた。図画花鳥の仕上。武道試合で根岸君に負けた。
菅谷小学校で種痘施行(施行区域は菅谷・川島・志賀・平沢・遠山・千手堂)。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)3月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月03日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 土曜 晴・風
神社参拝に行った。庭の掃除をした。朝礼で国旗掲揚をした。今日は先生は松山に行った。自習をした。二時間目に実習で旧校庭の開墾に行った。高二はほめられた。家へ来てつぶてぶち。受信富岡健治

三月二日 日曜 曇・小雨
田ノ仕事(主・寅・守)良好。
月曜日でも天気は悪い。父は菅谷に行った。守と二人で田に行き大田を三十二本ぶった。午後三人で行った。小雨が糸のやうに細くふったり止んだりした。源作さんの家の田*もぶちきり、横てょう**の所を切りぶち始めた。発信富岡健治
*談:鎌形内田源作家の田を借りていた。
**談:横っちょう。田のはみ出していた部分。

三月三日 月曜 晴
今日は万能はゐらないらしい。馬の鍛練である。朝礼で週番の話。一時修身。二時算術P71。三時農業。掃除はしない。鎌形八幡神社に置いて青少年武道大会があるので参加した。根岸良平君*として勝った。
*同級生。
鎌形八幡神社祈年祭。応召兵鎌形新井武一郎出発。

三月四日 火曜 晴・風
風はやゝ静かであった。山下君はおそかった。朝礼もあった。一時算術P71。二時読方雲。三時国史。四時読方。五時唱歌埼玉青年の歌。もう風もはげしくほこりもたった。家へ来てしまだ作り。武道のけいこをした。

三月五日 水曜 晴
朝は春でも未だ寒い。朝礼をしたが何もなかった。一時算術P73。二時地理。三時書方。此の間の四時理科感応電流。五時農士学校に激突台を持ちに行った。(十人)一人でも持てた。家へ来て田に行った。受信菅谷小学校 役場

三月六日 木曜 晴
熊手を持って行った。今日は地久節である。一時読方鱈場蟹。二時すり物の手伝ひ。三時短歌の説明。四時農業。五時実習で旧校庭の開墾作業で火を燃した。当番もした。もう夕方となりにけり

三月七日 金曜 曇・穏風
田仕事(主・守・寅・かつ)
曇って居たが雨は降って居ない。学校に行って履利*を切った。一時修身。二時読方。三時地理。五時「土と兵隊」の本を読んでくれた。四時短歌について。少し雨がちらついた。けれども止んだ。家へ来て田に行きにけり。
*草履。

三月八日 土曜 曇

今日も少し曇って居た。山下君はとてもおそい。一時読方の自習。校長先生の面白い話。二時続き。三時実習。縄ないをした。吉野君はたいへんなった。家へ来て田につぶてぶちに行った。もうおわった。草むしりをした。

三月九日 日曜 晴
起きてしまだあみをした。うす引きをして粉を作くった。十時となった田に行き草むしりをした。天日の実検*も面白い。午後も行った。馬の鍛練である。夕方になって帰って来た。大田を全部むしり終った。受信本田金治**
*実験。
**小川町下里の兵隊に出ていた人。筆者の父の友人。

三月十日 月曜 晴
朝きてしまだを作り上げた。履利をはいて行った。祖父さんの作ったもの。一時珠算の考査をした。二時修身皇運扶翼。三時農行考査。四時理科実検。五時明日の考査について話した。

三月十一日 火曜 晴・風
朝当番であるが今日は遅そかった。山下君は早かった。国史をしらべた。一時考査をした。二時算術。三時読方ゆく川の。四時今日は初午なので半日で掃除して家へ来た。水戸黄門を読んだ。皆の者と遊んだ。台湾の叔母にゲートルをもらう。

三月十二日 水曜 曇・大風
大風の為雨は吹きとばされて居た。もうとても大嵐であった。一時理科自習。基本金を納めた。二時理科の考査をした。三時地理。四時理科発電機。五時青年学校の演習の見がくをした。家へ来て馬小屋の管理。

三月十三日 木曜 曇
籠(主)
守平は朝当番で早く行った。もっこを作る竹と縄を持って行った。一時読方。二時読方の考査。三時国史。四時農業の実習。縄をこすった。或はなった。なかなかむづかしい。一つ出作上り八・五分であった。もう夕方となりにけり。

三月十四日 金曜 雨
朝はあいにく雨が降って居た。傘をさして学校に行った。一時地理の考査。三時読方ゆく川の。修身を二時。四時唱歌の考査。五時「土と兵隊」を読んでくれた。家へ来てじきに雨は止んだ。うす引きをした。

三月十五日 土曜 晴
籠(主)
朝起きると空は良く晴れて居た。今日は表章式*があるので出席するので松本の家に行った。電車で行った。会頭松本倉治(まつもとくらはる)さん**の祝じがあった。半日(二時間)で終り家へ来て畠うなひをし、いもうえをした。
*比企郡教育会主催卒業優良学童、優良青年学校生徒他の表彰式が松山第一小学校で午前十時から開かれた。
**県会議員。『埼玉県議会史』第6巻付録その1 埼玉県議会歴代議員録116頁参照

三月十六日 日曜 晴

起きてしまだあみをした。菅谷に使に行って来た。水車に行って麺を持ってきた。いもうゑをした。午後畠のふるっこみをした。本じん畠と大麦畠と西原に行った。田にも行きにけり。

三月十七日 月曜 晴・曇
籠・中耕
今朝もしまだを作くった。空は薄曇りであった。一時修身の考査をした。五時算術P79P80P81。三時農業竹と桐。四時理科無線電話。(五時帳面の考査)。二時修身をした。家へ来て大麦とカジヤの小麦畠の中耕を行った。

三月十八日 火曜 雨
しまだ作り
雨が降って居た。もう大分降って居た。学校に行って教室で騒いだ。一時算術P81二時読方蕗の薹。三時国史。四時読方峠の茶屋。五時唱歌仰げば尊をした。家へ来てしまだ作りをした。

三月十九日 水曜 晴
籠(主)
雨も止んで居たが未だ曇って居た。一時間すると太陽も顔を出した。二時理科無線電話。三時地理交通。四時地理世界に於ける我が国の地位。五時唱歌仰げば尊し、蛍の光。考査の紙をかへした。一学期よりもずっと悪かった。しまだ編みをした。

三月二十日 木曜 晴
籠(主)
起きるのはおそかった。馬の湯をわかした。一時読方峠の茶屋。二時国史。三時国史。世界に於ける帝国の地位。四時高一以下庭の掃除。高二会場の準備をした。午後旗竿の綱のとりかへをした。本家の作次さん*が召集解除で帰還した。
*富岡作次。1940年(昭和15)9月2日、東部第94部隊応召。

三月二十一日 金曜 晴
籠(主)
朝はぼたもちである*。忠魂趾に於いて合シ祭並にイ霊祭が行われる。これは昼前で終った。午後??(ママ)少将の講演があり聞いた。約一時間半にして終り漫談、珍奇**などありにけり***。
*彼岸の中日であるため。
**奇術。
***故陸軍歩兵上等兵藤縄茂樹・故陸軍歩兵上等兵星野幸吉の「英霊忠魂祠合祀祭」続いて「西南役以来ノ神霊慰霊祭」執行。午後1時から「勇士遺家族慰安会」が開催された。

三月二十二日 土曜 曇
籠(主)
昨日は暖かかったが今朝の天気は曇天であった。雨も少し降った。一年生の掃除をした。読方を二時間した。遠足の話をした。三時間して戦士者*の墓参りをした。(四柱)家へ来て田に行って作切り。
*戦死者。

三月二十三日 日曜 雨
シマダ作り
今日も雨降りらしい天気であった。少し雨も降って居た。しまだ作りをした。昼前に一つと半分作くった。午後一つ作くり皆と遊んだりした。二つ作り上げた。全部で四つ作り上げた。明日は遠足である。

三月二十四日 月曜 朝雨・曇
起きて見ると雨が降って居て今日の遠足は取り止めらしい。週番である。修身をした。二時間、唱歌を六年生と一所にした。卒業式の話をした。週番日誌をつけて家へ来た。さつまを入れた。

三月二十五日 火曜 晴・風吹き
籠(主)
昨日の雨もすっかり止んでからりと晴れて居た。六年生の遠足はとてもよい。少し風も吹き出し次第に強くなった。色々の銭を先生に出した。明治天皇御製をすってくれた。五時間目に書方をして先生に記念にさし出した。菓子の中問*をした。
*注文

三月二十六日 水曜 晴・穏静
籠(主)
遠足なので早く目をさました。未だ五時にならなかった。宛時計*を持って行った。六時二十三分の電車に乗って行って川越から国鉄に乗って行った。大宮で一時間遊んだ。川越の大師様で遊んだ。
*腕時計。

三月二十七日 木曜 晴
昨日のつかれもすっかりなをった。今日は松の木はこびである。茶話会の会費を集めたり昨日の電車チンも集めた。午前に一回運んだだけで終った。午後岡松屋に行った。夕立がなった。草つみをした。
唐子村葬執行。

三月二十八日 金曜 晴・大風
籠(主)
夕べの風で電気が消えて居た。風はとてもはげしかった。学校に行き幾時間も遊んだ。朝礼をして大掃除をした。井戸の掃除もした。卒業式の予習や唱歌練習をした。答辞を読む練習をした。発信富岡健治
天皇豊岡航空士官学校視察

三月二十九日 土曜 晴
籠(主)
今日は楽しい卒業式である。早く行き答辞をならった。すり物の手伝ひをした。四人共*皆優等賞であった。校長先生の御訓辞があり答辞を読んだ。茶話会の開会の辞をしたり手品をした。愉快であった。
*筆者、守平、まき、隆次の四名。

三月三十日 日曜 晴
籠(主)
遅く起きた。庭をはいたりした。朝食して自転車で水車に行ってめん作りを手伝ひをした。始め十貫次に六貫作った。こねるのが無頭かしい。午後蜜柑箱をはこんでそれで五十本入れの箱を作った。家へ来た。
菅谷村常会開催。

三月三十一日 月曜 晴

起きて掃除をした。父は馬で土運搬をした。祖母さんと守とうす引きをした。ちゃど午前だけかゝった。午後もした。松の木をはこびそれを切った。そして割った。富岡良治さんが来た*。受信富岡健治、山岸良之助
*談:1916年(大正5)生まれ。青年団の勧誘に来たのだろう。大蔵では25歳から30歳の青年団員は一般団員と区別して「特さん」と呼ばれていた。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)4月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月02日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 火曜 晴
籠(主)
父は早く起きて東京に手達*した。朝食して松の木を引切った。終ってから祖母さんと田の麦の作をきりに行った。午後まき割りをして皆割り切った。餅つきをした。
*出立。4月7日より代々木練兵場・馬事公園で興亜馬事大会が開かれ、根岸宇平・内田桑作・小林新平の馬が出場した。

四月二日 水曜 晴
祖父さんと根岸へ竹をかつぎに行った。持って来て将軍沢へ使に行って来て鎌形の家へ行った。明日は本家の礼参り*である。午前中はしまだ作りをした。午後本家へ行って辻札はりをした**。しまだ作りをした。
*本家の富岡作次の無事帰還の礼参り。
**出征兵士の武運長久を願って、「遠州奥山半僧坊大権現祈武運長久出征兵士○○○○」と印刷した短冊状の紙を竹串にはり三本辻に立てることがおこなわれていたが、この場合は帰還の御礼。千本旗。

四月三日 木曜 晴
中島源之、内田定夫の二君が産業の戦仕*となる為工場に行くのを見送った。家へ来て実行組合の総会に出席した。ちゃうど正午であった。昼食して魚を突きに行って色々の魚を突いて来た。
*戦士。

四月四日 金曜 晴・暖イ日
籠(主)
今日は吉沢三郎君が会社*に出達**するのを見送った。西***などが大蔵へ来た。しまだ作りをした。午前五明の叔母さん****が来た。みやを子守りして斉藤の家へ行った。昼食して又しまだを作り始めた。チンドン屋が通った。父より手紙が来て皆で大笑ひした。発信斉藤三郎 受信東京父より
*横須賀海軍工廠。
**出立。
***西孝三。同級生。
****筆者の母の従姉妹。

四月五日 土曜 雨
籠(主)
米ぬかの様な雨が降って居た。道ぶしんは延びである。藁を侵して*しまだ作りを始めた。休み休みしたのでいくつも出来なかった。ふり将基**をして遊んだ。隆次につけペンを買ってやったりした。山下君から便りが来た。しまだ作りをした。(丁寧)
*浸して。
**将棋。

四月六日 日曜 晴後雨
籠(主)
今朝も昨日の様に雨賀落千天伊多。今日毛道無新が出来そうもない。山下君に便りを出した。藁をすぐってしまだ作りをした。昼食して麦を刈りに行って来て小切った。馬料を切った。夕方もしまだ作りをした。発信山下三郎 受信父より

四月七日 月曜 晴・小雨
籠(主) 大口さらい*
今日の天気は昨日の天気とすっかり反対でからりと晴れ渡って居た。区長さん**が堀浚ひの事を言ひに来た。清治さん***と一所に行った。堀の両端はいばた****が取り囲み土でうづまって居た。ジョレンでほじくった。午後車の後押しをした(五十銭)
*鎌形石代の堰から取水している水路の堀さらい。
**富岡茂八。
***村田清治。
****いばら。

四月八日 火曜 晴
籠(主)
昨日のつかれをやゝおちついた。藁をしみした*。畠に行き麦を刈って来た。しまだ編みをした。馬の飼料の藁を小切ったりした。午後松山に行って来たが教科書はなかった。以上 受信斉藤三郎、吉沢三郎
*藁を水でぬらすこと。

四月九日 水曜 雨
籠(主)
空は曇って居た。薄陽(うすび)も漏れたりした。もう父は大宮を出発した頃だらう。しまだ作りもあきてきてしまった。でも一つ出来上がった。みやをのせる車の製造に取りかゝった。輪が一つ割れてしまった。夜父は帰って来て革靴をもらった。受信中島源之
陸軍大学生三笠宮武蔵嵐山駅下車。

四月十日 木曜 曇
入学式 宣誓ヲ読ム
山下、金井、野村、根岸、西の五君は立川に出達した*。根岸呉服店で戦闘帽を買ったり青年学校服を買った。全部で二十円が十銭欠けた。午後三時学校で入学式が行われた。本科一年の級長となった。夕方暗くまで学校にいた。雨も降る。
*山下昭二、金井仲次郎、野村修彦、根岸直次、西孝三の五名。立川飛行機株式会社入社。

四月十一日 金曜 晴
種の播種(ウリ、エンゲン、トウモロコシ)
朝食して菅谷の駅前の叔母さんの家へ行き鍛冶屋に行った。竹割りの中間に行った。家へ来てしまだ作りをした。一つ出来上がった。二つ目も後少しである。午後苗代田を耕ひに行った。馬も一生懸命にした。さつま畠の藁ひきや色々の種を播く。発信内田実
吉田手白神社例祭。

四月十二日 土曜 晴
今日は召集日である。支度をして村田君の家へ行き学校に向かった。八時に集合した。そして行軍の話をした。ゲートルの巻き方や不動の姿勢、敬礼等を教練した。午前はこれで終り、午後長島先生*から話を聞いたりした。
*長島統司。1940年(昭和15)3月~1942年(昭和17)3月勤務。

四月十三日 日曜 雨後曇
世間には霧がまいて居た。朝食をして菅谷に行った。長屋の鍛冶屋*に行き松山に行って帽子のキ章をかって来た。いも出しをした。午後田に行き肥ちらしをした。少し雨が降り出し大降りとなった。皆から便りが来た。受信内田実、金井、野村、根岸、山下
*唐子村の江森鍛冶屋。
大蔵榛名講金井親治他二名代参。

四月十四日 月曜 雨・曇
青年団の入団式である。支度をして向徳寺に行った。敬老会もあり茶菓が出た。約四時間であった。午後一時玉川の二本木座に活動のあるのを見に行った。高山(こうやま)の家*の御祝儀であった。大蔵の祭典**であった。受信吉沢三郎、栗原守男***
*玉川村の親戚。
**ハルギトウ(春祈祷)。五穀豊穣を祈る。
***同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

四月十五日 火曜 晴
起きてこまいかき*をした。間切れをした*。九時頃支度をして学校に行った。多時間遊んで始まった。玉ぐしを上げた。家へ来ると正午である。父と麦の間にさといもを植ゑたりして、麦をつけて遠山の水車に行って来た。菅谷の家のソウ式**
*土壁を作るとき、補強のために竹を割ったものを縦横に入れ、細縄でまく。まぎれはその竹をうつこと。
**山岸ツメ。1852年(嘉永5)生まれ。

四月十六日 水曜 曇
今朝も小間いかきをした。早朝飯して煤掃きを始めた。八時頃皆出し来た。午前中になから*終った。とてもきれいになった。昼食して駅前の叔母さんの家へ兎を持って行った。立つ小間への竹を入れた。全部くばり切った。
*だいたい。

四月十七日 木曜 晴
籠(主)
小間いかきを始めた。今日は立つのをかくのである。とても手がいたい。して見ると容易でないが面白いもので良く出来た。午后一時頃本家の叔父が来て手伝ってくれた。父は菅谷の根岸宇平さんの家にお客に行った。立つはかき切った。

四月十八日 金曜 曇

今日は青年学校の行軍である。早く起き支度をして校庭に集まった。菅谷発六時三〇分で奈良奈シ*で休んだ。赤浜**でも休止した。釜伏山に着いたのが〇・十分頃であった。昼食して下り玉淀にて一時間遊んだ。鉢形より(十七銭)電車に乗って帰って来た。つかれた。
*八和田村奈良梨。
**男衾村赤浜。

四月十九日 土曜 晴
籠(主)
昨日の痛みも稍なをった。そしてゲートルを巻いた。みやを子守った。父と前の畠のほつくり返しをした。そして鍛冶屋*の桑畠にも行った。午后父、祖母、守平等と田の大麦の作切りに行った。大麦は皆切り終った。ちゃうど夕方までかゝった。受信山下昭二、松山支部二名 発信斉藤三郎
*金井示夫方。
大蔵で春季清潔法実施。

四月二十日 日曜 晴・暑い
起きて馬の湯を湧かしたりした。農の支度をして父と守と畠に行きけづりこみやほつくりかえしをした。十時頃休んで西原に麦の作切りに行てとても腹がへった。午后湯水をくんだ。西畠は終り前の鍛冶屋の麦畠も切り終った。明日は松山に講習があるので行く。受信関口三郎*
*同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

四月二十一日 月曜 曇
栽桑講習
今日は栽培桑講習に行くので早起きをした。それはうそである。桑のしばってあるのをほどいた。支度をして自転車で松山養蚕取締所に行った。松本さんと荒籾技師の訓話があり、岩澤さんの話で桑のことがあった。上の家でラヂヲを聞いた。受信栗原友造*
*同学年。

四月二十二日 火曜 雨
籠(主)
支度をして唐子の坂で村田指導員殿*に合った。松山まで一所に行った。今日も一番早かった。七時三十五分であった。九時に始まり今日は中山技師の訓話があり橦木(つぎき)につき話した。あと一人の日とは蚕品種に就いて説明した。橦木の練習をした。発信栗原友造
*青年学校指導員。陸軍伍長。1915年(大正4)生まれ。

四月二十三日 水曜 曇
籠(主)
小雨がちらついて居た。新しい家のこまいかきをした。横をかく*のは指がいたい。朝食して始めた。雨は降る。それに風がは入ってはだに寒くかんずる。仕事はどしどしとはかどる。父君は俵編みをした。午后は母君と一所にかいた。夕方父もかいた。
*こまいかきで横の竹を入れること。

四月二十四日 木曜 晴
籠(主)
学校生徒の遠足だ。守は釜山神社に行ぐのである。まきは吉見の百穴だ。隆次は嵐山だ。自分はたきぎをはこんだ。木間いかきをした。
昼休みに玉川の燈電*に行って来た。地蔵様**に行って来た。祖母さんはワラビをとりにいった。受信斉藤三郎
*現在の玉川村商工会の場所にあった。
**新教地蔵。

四月二十五日 金曜 晴
籠(主)
祖母さんは山にわらびを取りに行った。父と本じん畠にほつくりかえしに行き桑をほどした。わきの高台も終った。十時十五分に黙祷を捧げた。昼食してこまいかきを始めた。大方かき切った。夕方枯枝にふたをした*。
*談:雨よけのため。
靖国神社臨時大祭

四月二十六日 土曜 晴
明日新聞配達の回ランが来た。今日は教練である。八時には集合した。全員三十七名である。体操は基本体操をした。脚手頭等十三種である。行進もした。菅谷の市中を走足行進をした。少しつかれた。午后学科は初雁先生と杉山先生の話があった。以上。
福田村葬執行。

四月二十七日 日曜 晴
斉藤の家*兎をかけてもらった。
新聞配達だ。早く起きて支度をした。忍田政治君**が新聞を持って来た。東日九部、朝日三十一部都合四十部である。配達する時間はいくらでもない。朝食して少しこまいかきをして守平と二人で馬小屋の肥出しをした。約半日かゝってしまった。午后父と田の作切りをした。
*斉藤三郎方。
**二学年上。

四月二十八日 月曜 曇
籠(主)
起きてこまいかきをした。もう終った。父君と田の作切りに行った。(なつかしい)学校のチク音機のラッパの音がとても良くきこえる。鐘もなり家に来て昼食した。午后は一人で田に行き堆肥を麦の間にちらかした。これも終りけこみもした。兄弟で兎の草摘みをし、たいへんつんだ。以上
宮前村葬執行。

四月二十九日 火曜 雨後曇
籠(主)
今日は菅谷青年団の結成式がある。基本体操を少しした。天長節の式典が始まった。午前十時に青少年団の結成式が始り副団長の訓辞があった。金井柳作さんの祝辞があった。山下周治さん*の帰還をむかえた。発信吉野廣一(ひろいち)
*山下周平。1939年(昭和14)5月応召。
天長節祝賀式並菅谷村青少年団結成式。吉沢三省入団祈願祭八幡神社で執行。

四月三十日 水曜 晴
霧が一面に野山を包んで居た。小麦をうすでひいた。桑原のほつかえしをした。このめや蚕道具を洗ひに行った。こうじやさんが来てこうじを寝かした。午後田に行ってけこみをした。作切りをして休み時遠足が通った。祖母さんが来て止作切りが終った。以上
菅谷村常会開催。


冨岡寅吉日記 昭和16年(1941)5月 菅谷村(現・嵐山町)大蔵

2009年09月01日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 木曜 晴・風
籠(主)
ラッパの音が聞えて神社参拝をした。川に父とむしろ洗ひに行って五十一枚洗った。土引きをして先傳ひ*をした。十車以上運んだ。昼食して遠山の水車に麺を持ちに行って来たりした。
*手伝い。
七郷村経済更生記念連合常会開催。午後からは体育大会開催。

五月二日 金曜 晴
籠(主)
起きてすぐ自転車で遠山水車に行った。朝食して砂運びの入れ手をした。枝つみをして半日かゝった。父もまき割りをし自分は馬の飼料の藁や豆の木を切ったりした。まきまるきもした。受信大野角蔵、野村修彦

五月三日 土曜 曇
籠(主)
山下周吉さんの礼参りである。僕の組は七人で、(富岡良治、富岡理*、〃〃寅**、野口***、金井****、山下*****、長沢******北の方に行った。氷川神社に始め行き川島、菅谷、平沢、志賀、杉山から合計十一社廻って松山に出て平七さんにおごってもらった。田の肥引きをした。
*富岡理昌。
**寅吉。筆者。

***野口由次郎。一九一九(大正八)年生まれ。
****金井亀二。一九一九(大正八)年生まれ。
*****山下丑造。
******長沢平七。

五月四日 日曜 雨
蚕の発生
起きると雨が降って居た。父はみのを作くった。自分はしまだ編みを始めた。一つ出来上がって大休みをして勅諭を奉読した。午后又始めた。幾山か編んだ。休み頃樽と箱を持って川に洗ひものに行って魚を十一匹だけ釣った。受信山岸良之助

五月五日 月曜 晴
近所の家々に鯉のぼりが空を泳ひで居る。十一時頃松山に行って乾暖計やサンザーシ*を買って来た。午后農士学校に行って国民学校児童の相撲や農学校生徒の取組を見たりして来た**。
*蚕座紙。
**農士学校開校記念式挙行。

五月六日 火曜 晴
起きて草刈りに行くと誰かがもう刈って居た。一籠刈って家へ来たら朝日も大部高くなって居た。朝食してみやの乗る車の輪をなほした。しまだ作りもした。竹割りの練習をしたが良く割れない。午后松山に行って蚕座紙を買って来た。発信山岸良之助 受信吉野廣一、山下三郎

五月7日 水曜 晴
今朝は捨手場下(土地の名)と言ふ所へ草刈りに行った。昨朝より早く一つぱいになった。父と祖父三人で苗代田に行き二度耕ひをして水を入れ二人でかいた。自分は志賀にザマを持って行った。松山に行きブヒルマ*のぬのをかって来た。(一円六〇銭。)甘藷を植えた。受信富岡作次
*ブルマー。

五月八日 木曜 晴
一人で西原に草刈りに行った。一籠刈って来て岩殿に行く支度をした。未だ二時間も間がある。川島淀吉さんにつれられて岩殿に着いて昼食をした。ゴマをたいた。オショウ香をした。娘達十数人と坂戸に向かってシャカ様に参拝*して来た。
*坂戸町永源寺。

五月九日 金曜 曇
父と二人で草刈りに行った。家へ来て朝食して田にもみをまきに行った。一籠草を刈った。新物置きの廻りをかたづけたりした。前の田の土を父とモッコで運んで畠の土とまぜた*。こまいかきもした。夕方将軍沢へ守と籠を持って行った(三ツ四円二十銭)。発信富岡作次 受信富岡豊作、富岡ウシ三
*談:壁土につかうため。

五月十日 土曜 晴後曇
少し雨が降って居た。今日は青年学校の召集日である。下唐子の岡部登生三(とうぞう)砂官*が新物置きの壁をぬりに来る。検査が終る時分雨は止み雲は薄くなった。午前中少し教練をした。午后は家へ来て砂管の手伝ひをした。土の運搬であった。以上 受信吉野栄一
*左官。

五月十一日 日曜 晴
野辺の草ももう少くなった。一籠刈って来た。大工さんが家を起こしてくれた。朝食して父と自転車で遠山の水車に費用*に行った。茄子苗を移植した。父はまき割りであった。自分はそれをまるったりした。吉野君に合った。車の仕事のまき割終
*日傭(ひよう)取り。

五月十二日 月曜 半晴
中島街道に父と草刈りに行った。今朝はたいへんあった。家へ来て灰をふるって苗代に行ってそれを種の上にふった。家へ来て養蚕の道具を川に洗ひに行った。昼食して今度は籠を持って行った。一車洗って二車目を行ってすだれを洗って来た。夕方竹割りをした。以上

五月十三日 火曜 雨
今朝は県道の両端で草刈りをした。朝食してしまだ編みを始めた。五山ばかり編んで目籠作りに移った。腰を立てるのがむづかしい。でもなから出来た。午后はビクを作くる支度をした。骨を幾本かうっかいてしまった。でも出来上がった。夕方しまだ編一つ。以上 受信金子常吉

五月十四日 水曜 晴
今朝は土手の端で草刈りをした。今日は菅谷のバーの開墾の手伝ひである。父と山下光(みつ)平さん*と小林元(げん)一郎さんと野辺さんと自分五人で旧宅地の開墾を始めた。仕事はとてもはかどって昼食までに半分たひらげた。午后度々休んだ。でも暗くならない中に終った。石はとても多かった。発信金子常吉**
*山下光太郎。
**筆者の叔父。

五月十五日 木曜 晴
昨日の朝と同じ様にとても身にしむる程寒く草を刈ると手がかじかんだ。草も少なくなった。父は遠山水車に手伝ひに行った。みやはいね三人で自転車で苗代の水引きに行った。子守りをした。まき割をするとじき昼となった。五明の叔母が通りがけに家に寄った。

五月十六日 金曜 晴
土手で草刈りをした。今朝はとても遅そかった。家へ来て父と馬小屋の肥出しをした。吉野明さんが来てバケツ等なほしてくれた。間があるので砂管に用ひる土はこびもした。午后も続けた。終ってみやを子守りした。夕方竹割りをした。以上

五月十七日 土曜 雨
今日は教練であるが雨である。村田君*は休んだ。午前学科をした。勅諭等であった。十一時より校長先生の話があった。検査の事に就いて。午后服部先生が戦陣訓を教へてくれた。三時二十三分の下りの電車で菅谷の中島さんのイ骨がかえった。
*村田清治。

五月十八日 日曜 曇
新聞配達だ。支度をして持って来て配達した。日は一部大かった。朝日は少なかった。早く終って朝食して守と二人で草刈りに行った。目かいを編んだ。しまだ編みもした。午后一枚終った。五山ばかり二つ目を編んだ。家のおっかい棒をはづした。

五月十九日 月曜 晴
根岸に行くととても草が多くあって刈り良かった。今日は唐子の砂管が来る。早く帰って来た。そして支度をした。帰し壁であるので手間がとれなかった。午前の中に西側と北側とを塗った。午后早く全体が終った。主屋の壁の傷を塗りなほした。甘藷苗を切った。以上

五月二十日 火曜 晴・夕立
籠(主)
今朝は根岸河原の土手で草を刈った。早く出来た。朝食して甘藷の苗をは切った。一切終って苗代に行ってヒヘ抜きをした。とても多くあった。もう昼である。午后菅谷の樫ノ木に行き石灰を買って来た。一カン(七〇銭)。物置きを片づけ、甘藷の苗を植ゑた。以上 受信芝辻十三
川島で市野川流水式。

五月二十一日 水曜 晴
籠(主)
草は大変有ったがよもぎににた木の枯れたのが多いので刈りにくかった。杉ナがとても多い。朝食して子守りがけて苗代の水加減を見に行った。家へ来て背戸の道端の木を片づけた。蚕を縁台に出した。午后頭の毛ば刈りをして縁台出しを続けた。終ってからゴミ運びをした。以上 受信小川町大工

五月二十二日 木曜 晴
今日は召集日である。早く草を刈って支度をした。山下君と一所に行った。基本体操や駆足であっ。午前九時より一ぺい分列*をした。午后一時より中島富蔵さんの村葬**が始り二時半頃終った。家へ来てすだれ編みをした。受信吉沢三郎
*閲兵分列。
**中島富義。四月二十六日習志野陸軍病院に於て戦病死。菅谷国民学校で村葬執行。

五月二十三日 金曜 晴・夜雨
起きると雨がどしゃどしゃ降って来た。父と大蔵河原に草刈りに行った。全身が良くぬれた。雨は次第に止んで薄陽がもれた。桑切りをして前の物置きの庇におろしを少々作くった。蚕をうすくした*。休み頃おろしは終って苗代のひゑ抜きをした。夜夕立雨が降った。発信吉沢三郎
*蚕が大きくなったので過密にならぬよう蚕座をふやすこと

五月二十四日 土曜 曇・夜雨
耕地に草刈りに行った。良くほきて居た。一籠刈って来た。みやを子守りながら根岸の小澤君*の家へ行った。来てしまだ織りをした。昼となり昼食した。興味が有って面白い。成澤力造さんの家へも行った。空から雨が降って来た。二百二十二織った。夜は良く雨が降る。
*小澤長介。同級生。

五月二十五日 日曜 小雨
今日も雨だ。長く降り続くと雨も良くない。大堀端で草を刈った。多く有った。しまだ作りを始めた。昼前に百二〇作った。根岸へ砂糖*を買ひに行った。(一円三十五銭)祖父さんはブッタイ**を作る竹を割った。午后しまだを作り前日合計四百幾十箇作くった。夕方しまだを編んだ。以上
*談:根岸の根岸シン商店。
昭和十六年五月二十三日 菅谷村役場
(菅谷川島ヲ除ク)区長殿
五月分家庭用砂糖配給ニ関スル件
五月分一般家庭用砂糖入荷致候ニ付明五月二十四日ヨリ既定ノ方法ニ依リ配給所ヨリ引取リ方御手配相煩度此段及御通知候也

**魚をとる道具。

五月二十六日 月曜 曇・夜雨
籠(主)
父と大堀端へ草刈りに行った。金井廣吉さんの家へしまだ作りに行くので機械*を持って行った。三手で縄でしばった。少しゆるかった。藁でしばると良く出来た。昼食して休み始めた。百以上は織れるだらう。夕方雨が降り出して本降りとなる。以上
*島田折器。機械を使ったまぶしは一回限りの使い捨て。

五月二十七日 火曜 曇
祖父さんと昨朝の所へ草刈りに行った。早く出来た。空模様は大部良好である。帰る頃は良かった。家に着くと小雨が降り出した。三人で魚取りに行った。取らない。石灰の配給があった。午后すだれ編みをした。一つ編んだ。夕方は曇り。雨なし。以上

五月二十八日 水曜 中曇・雨後晴
籠(主)
西原で草刈りをした。少し雨が降った。父は平沢へ行った。しまだ作りをした。祖母さんと桑切りに行った。曇って居たが雨が又降った。午后苗代に行った。魚取りをした。夕立が出た。大雨となり二重にニジが出た。紅しまだが出来上がった。天気良好となる

五月二十九日 木曜 晴・曇
籠(主)
起きると晴れ渡って居た。父と耕地へ草刈りに行った。少し霧がまいた。使をして田に行き堆肥を運搬した。麦に引きこんだ。午后菅谷に使に行った。父は馬の鉄はりに行った。桑作りをした。畠の桑切りや甘藷植ゑをした。明日は豆腐屋*。受信芝辻十三
*小林元一郎方の屋号。

五月三十日 金曜 晴
籠(主)
河原の土手で草刈りをした。今日は小林元一郎さんの家に費用に行く。朝食して支度をして行った。作入れで陸稲まきであった。終ると昼となり午后菅谷に使に行った。帰りしまだ織りを始めて三、四十位織って夕方菅谷に行った。以上
菅谷村常会開催(議題:慰問袋ノ件、作付統制ノ件、砂糖配給ニ関スル件、米穀ニ関スル件他)。

五月三十一日 土曜 晴
今日は馬の検査*である。父は早く起き支度をして松山に行った。自分は蚕の桑呉れをした。学校に行くのを間ちがへた。朝食して桑切りに行った。桑を作る時小指をけづった。桑の皮むきをした。午后桑を呉れて苗代に見に行って来た。夕方桑切りに行った。弟妹は蛍取りに行った。以上
*松山町で軍馬検定実施。
6月9日まで十日間大蔵向徳寺で農繁季節保育所開設(養蚕期。申込数は1歳から3歳15名、4歳から8歳61名)。