LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

「寝台特急 トワイライト エクスプレス」との出逢い。

2012-12-22 14:52:18 | 時間旅行

     

「寝台特急 トワイライト エクスプレス」との出逢い。


1989年 当時19歳 
この年の夏、初めての外国放浪旅をしました。
いわゆるバックパッカーです。
神戸港からフェリーで中国・上海に渡り、列車で中国大陸を横断する旅でした。
この放浪記はまた別の機会にジックリお話し致しますが…

今回はその長旅から日本に帰国した後に続く旅?のお話しを。

初めての中国放浪旅を終えた、同年11月。
僕はJR大阪駅の環状線ホームで、行き交う人の流れと、ひっきりなしに出入りする電車をながめながら、自由な旅と…日本の現実社会のギャップを感じていた。
これからどうしようか?と、恥ずかしながら何も考えていなかった。
いつも直感ありきで行動していたので…行き当たりバッタリだった。
 
そんな19歳の秋、JR大阪駅構内で将来を思案していたのですが・・。
「そうだ、トワイライトエクスプレスという寝台特急が新しく出来たんだよな~。スタッフを募集していないかな?」
なんとなく?そう思い付いたのです。
そして、特急電車が発車するプラットホームに足が向いて行ってみたのです。
すると、北陸方面・富山行きの「特急 雷鳥」が発車を控えていました。
ずーっと目を先に向けると、車内販売のスタッフらしき人がいたので近づいてみると、アルバイトであろう男性売り子さんと、スーツを着た女性社員のような2人が、なにやら仕事の手順を教えている様子でした。
この時すでに僕は、この女性社員さんに聞くことを決めていた。
大阪環状線ホームで思い付いてから、まだ5分ほどしか経っていない。
 
女性社員さんがアルバイト男性と、段差のある特急電車に販売ワゴン乗せて仕事を説明している様子の・・そんな最中に僕は声をかけた。
「あのぅ・・。あの・・えっと」
「・・・はい?」
「あの、トワイライトエクスプレスという寝台特急がありますよね?」
「はい」
「スタッフ…、仕事の募集とかしていないんでしょうか?」
思いきってそう聞いてみたのです。
 
するとその女性社員さんは、紙とペンを取り出して…
「ここに行ってみなさい」
そう告げられ、手書きの地図をくれたのです。
 
そしてその地図を頼りに、大阪駅から徒歩20分ほど離れたその会社に行きました。

いきなりのとび込みで、「トワイライトエクスプレス」のスタッフ希望であることを誰かしらに伝えると、しばらくして。
「いまスタッフに欠員が1人出たばかりでね、貴方を採用します」
そう言われました。
調理の仕事は既に多くの技能を持っていたので、厨房スタッフとして採用されました。
大阪駅で思い付いてから3時間程しか経っていなかったように思います。
自分的には「偶然」という感じではありませんでしたが、なんとも言えないタイミングであったことは今も忘れられません。
 
それから研修も済ませた約一か月後
 
大阪発ー札幌行
寝台特急トワイライトエクスプレス
定期運行初日の1989年12月2日正午発
 
白いコック帽とコート、エプロンをまとい、大阪駅のホームで札幌へ向けて出発の準備を整えていた。
定期運行(不定期・臨時系統)として、初代のスタッフとして、これから数年間、日本一豪華で最長距離走行を誇る寝台特急と共に新生活がスタートしました。

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写真は1990年の食堂車内。札幌・手稲車庫内にて。
当時20歳の僕。


◎乗務①日目
 本社  08:30出勤・食材準備・点呼
     11:00大阪駅へトラックで移動
 大阪駅 12:00発→乗務
◎乗務②日目
 札幌駅 09:03着
 札幌(手稲)車庫へ回送後も列車内で仕込み準備
 札幌駅 14:16発→乗務
◎乗務③日目
 敦賀駅到着までに厨房内掃除・後片付け終了
 大阪駅 12:36着
 本社に帰社後・後片づけ
     14:00退社
 

1回の乗務(3日間)のスケジュールを週に2回こなす。

①水曜日 大阪発
②木曜日 札幌着・発
③金曜日 大阪着
   (帰宅)      
①土曜日 大阪発
②日曜日 札幌着・発
③月曜日 大阪着
   (帰宅)
火曜日 休み

 
なので1年の殆どを列車の中で過ごし、トワイライトエクスプレスに住み込み状態でした。
当時列車は2編成で運行され、スタッフチームも2チームで構成し、其々の列車専属で乗務していました。
1チーム厨房4名・ホール4名の計8名で、僕は一番若かった為、先輩によくしてもらいました。
2編成の列車に各々2チームが常に乗務するので、全員が揃うことはありませんでした。
列車同士がすれ違うとき(大山崎駅付近)は、業務用の窓を開けて、お互いに手を振って健闘を称えあっていました。
時には旗ならぬテーブルクロスを振っていた先輩も!笑。
今なら問題行為です…
 
大阪駅を出発したのち、ランチ営業と同時に、車内調整の弁当を作り、夜のディナーの仕込みも行います。
乗務中は時間との闘いです。
景色・車窓が時計代わりでした。
「金沢の駅に着いたら・・この仕事を完了」
「糸魚川の景色が見えたら次の仕事」
と、こんな具合でしたが、列車のダイヤが乱れてしまうと、時間の感覚も乱れました。笑

17:00までに、ルームサービス用の和食「日本海御膳」を車内調理の上、盛り付けを完了させ、並行して食堂車ディナーの用意も進める。
僕は和食の技能があったので、コック長は「日本海御膳」は主に僕のパートにしてくださった。
御造り用の鯛などもウロコを取り除き、1尾丸ごとおろすことから始め、天ぷらは揚げながら…次々と盛り付けて、各個室まで届けられますので、アツアツ揚げたてを提供していました。

さて、そしていよいよ食堂車「ダイナー・プレヤデス」の本番です。
17:30からと、19:30からの時間指定予約。
12,000円のフルコースのディナーをほぼ連日満席でこなしました。
食堂車の座席は全28席。
(28人×2回=56名分)
札幌雪祭りなどのシーズン、
旅行会社企画の団体客予約で多い時は、3回転の日もあった。
(28人×3回=84名分)
このような時は、16:00から団体貸切のコースディナーが始まりました。

フルコースディナーの内容ですが、初運当初は品数も多く、肉料理は2品もあって、コースとしては高級で本格的なものでした。

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この写真は、パンフレット作成用のテストショット。
   
アミューズグール(食前の先付け)
オードブル
スープ
魚料理
口直しのソルベ(シャーベット)
肉料理①(牛ステーキ)
肉料理②(鶏肉等)
季節のサラダ
バケット
デザート
コーヒー・紅茶
小菓子

そして、公式のメニューには無かった「ミニコースディナー」という裏メニューも用意されていた時もありました。
これを食された乗客の方は、僅か数人だったと思います。
運行当初は・・ディナーの予約システムを知らずに乗車される方も多く、常に5~10人分ほど余裕をもって食材を積んでいました。
それも必ず売り切れてしまい、それでもどうしてもコースディナーを求められる乗客の方の為に用意した裏メニューです。
値段は確か…8000円だったと記憶しています。
いや、6500円だったかも。
その日の限られた食材で、臨機応変に提供した「おまかせコース」のような感じでした。
     

21:00を過ぎ。
その後パブタイム営業を続けて行います。
そして同時にルームサービス用の和食「日本海御膳」の器を洗う。
これも多い時は30名分ほどあった。
夜の11時になり、1日目の営業を終了。
後片づけとスタッフの賄いの用意。そして翌朝の朝食の準備も行う。
食堂車スタッフ8名とJR西日本の2名の車掌さんと共に食事を済ませ、ホッと一息つくころには秋田駅に停車している。
普段の移動で電車に乗る時などは、たとえ5分でも座りたいものなのに…仕事となると大阪駅から秋田駅まで立ちっぱなしでも行けるものなのだなぁと感心してしまった。笑
深夜の1時ごろ、業務用寝台個室で就寝し、真夜中に青函トンネルをくぐり、翌朝は4:30~5:00に起床。
起床時は丁度、函館の五稜郭駅の手前で機関車の交換。
先行の東京上野発「北斗星1号」を車窓に見送りつつ、オーブンの電源を入れ、先ずはコーヒーを淹れる。
そして朝食の提供準備にとりかかる。
真冬の豪雪時には、食堂車の業務ドアの隙間から雪が入ってくるらしく、朝厨房に入ると雪まみれになっていることも。
トワイライトEXPの食堂車は旧特急電車の改造車で、豪雪地帯用車輛ではないからだそうです。
 
食堂車の定員は28席で、朝食は満席で最高4回転=112名分用意する。
1回転45分(実食時間30分)で展開。
ディナーもそうだが、調理するよりも皿洗いの方が大変忙しいのです。
朝食の什器は1人分に、皿×4・耐熱ココット×1・グラス×2・コーヒーカップ&ソーサー・ナイフフォーク類。
これ以外に和朝食があり、A寝台個室ルームサービスも。
それくらいは洗えるように思うかも知れませんが、狭い厨房には余分に什器類が揃ってはいません。
食べ終わった28人分の什器を洗って、次の28人分の盛り付け・テーブルセット(ホールスタッフ)を15分で済ませる。
これを4回転させるのです。
勿論洗浄機などは無く…全て手洗い。
それも熱湯で洗います。
(蛇口から常に熱湯が出ます)
なぜなら、熱湯だと洗い上げのあと水滴が一気に蒸発しますので、拭きあげる手間が省けるのです。
ラストスパート全力疾走で朝食を出し終えると、終着駅の札幌到着の車内アナウンスが聞こえてきます。
大阪→札幌間1495.7kmを約21時間(当時)かけて到着。
乗務としては折り返し地点です。
ここから列車と共に車庫(手稲)へ向かう途中、やっと賄い朝食。
手稲車庫に着き、一息つく間もなく帰り(札幌→大阪)の仕込み用意をします。

車庫内は慌ただしく、場内放送や安全用サイレンも頻繁に鳴り響く。
車内では現地清掃員の方も乗り込んで忙しくされる。
隣の車線には先着の「北斗星1号」が既に休んでいる。

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札幌・手稲車庫内。サロンデュノール。
           
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札幌・手稲車庫内。車内清掃中の1号車スイート。
室内インテリアも初期タイプ。当時の寝台はダブルベッドが1台のみの設置。
なので男性同士での乗客の方からは苦情がありました・・。
後にツインベッドに変更される。


仕込みも終われば2時間ほど休めるのですが、寝ることも出来ないので…よく車庫内の列車を見てまわっては楽しんでました。
後続で到着の「北斗星3号」「北斗星5号」も車庫に入庫すると、4つの寝台特急の揃い踏みで、圧巻でした。
それから忘れてはならない「臨時寝台特急エルム」も、繁忙期には上野からやって来て、手稲車庫内はズラリ5編成が並んで豪華絢爛。
そして14時頃、再準備が整った「トワイライトエクスプレス」は、夕方以降に出発する「北斗星2号」より先行して出庫し、大阪駅行きとなって札幌駅のホームに入って行きます。
ここから帰りは22時間の所要時間。
また新たな乗客を乗せて出発するのです。

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電源車

     

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1号車
札幌・手稲車庫内にて、大阪へ向けて折り返し出発を待つ。
 

今から20年以上前のことですが、鮮明に覚えています。
週6日乗っていた列車、生活の私物等は車内に積み込んだまま。
住み込みで働いていたホテル・レストランのような感じだったと思います。笑
他の先輩方は、食堂車全盛期からの、経歴の長い方も多く、

山陽新幹線ウエストひかりのビュッフェや、
特急スーパー雷鳥のラウンジなどを当時かけ持ちで乗務される時もあり、
新米の僕だけがトワイライトのみの専属でした。
 
デビューしたての豪華寝台特急の指定券はプラチナチケットで、マスコミ取材者も多く、有名芸能人も乗車することも頻繁でした。
  
四六時中揺れる車内なので、疲れやすいこともありましが、何よりも楽しかった。
今も大阪駅で「トワイライトエクスプレス」を目にすると、住み込み?で働いていた当時のことを思い出します。
  
ずっとこの列車で働けるなら続けたいと思っていたのですが、移り変わりの激しいだろう将来。きっとそれは無いだろうと考え、数年ののち辞めることにしました。
  
そしてもっと見聞を広めたかった僕は、再びバックパックを背負い、放浪の旅に出発しました。
次の目的地は、中国~旧ソ連~東欧~トルコ~中国。
ユーラシア大陸を列車で一周。
このお話しもまたいつか書いてみたいと思います。
  
遠き日の思い出が残る
「寝台特急トワイライトエクスプレス」
まだまだ語り尽くせない思い出がいっぱい詰まった、走る豪華ホテル。
いつの日か…乗客として再会したいと願っております。



 ◇◆◇

■ あとがき

初代乗務員としての想い出をほんの少し綴ってみましたところ、大変多くの方にご閲覧を戴いております。約2年程の常務期間でしたが、まだまだ沢山の想い出があります。
また少しずつ再々更新出来ればと思っております。

2013年11月7日


▮ 更新履歴

● 2012/12/22 当記事アップ
● 2013/05/04 更新
 記事内容を新たに加え更新致しました。
● 2013/10/30 再更新
 1990年当時の写真を6枚アップしました。
 実家に埋もれていた写真を探してまいりました。
● 2013/11/07
 2016年・春(15年度末)
 トワイライトエクスプレスの廃止が発表されました。
● 2014/05/28
 2015年・春(14年度末)
 トワイライトエクスプレスの廃止が、正式に発表されました。
 車輛老朽化による理由で、当初の予定より1年早く引退となる。
● 2014/12/19
 JR西日本から、トワイライトエクスプレスの最終運転日が発表。
 大阪発→札幌行 2015年3月12日
 札幌発→大阪行 2015年3月12日
● 2015/03/12
 寝台特急トワイライトエクスプレス 運行終了


千秋楽…ラストラン
2015年3月12日 大阪駅ホームにて
札幌発→大阪到着のトワイライトエクスプレスに逢いに行く。
大勢の人でごった返しているプラットホーム
食堂車ダイナープレヤデスのエンブレムに最後のお別れをした。

26年間の長い長い旅…
お疲れ様でした。


  ◇◆◇
 

 
山本 コージ