LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

責任とアヤマチ

2017-04-22 11:51:02 | サイキックの眼

       

責任とアヤマチ


又は、過ちと責任。
どちらが先か?
ニワトリが先か…タマゴが先か。
責任と過ちについて解説していきたいと思う。

朝起きて、のぼる太陽を見て、朝日を浴び、今日も一日が始まると感じつつ、仰ぎ見て。
その太陽に対し、責任も過ちも問う事はしない。
夜の星々にも、月にも、責任と過ちの所在は感じ得ない。
そして、海の底の深海の様々な生き物に対しても、責任や過ちなどと言ったモノは何処にも見つからない。

つまり、
『 宇宙の原理の中に、本来 「責任」も「過ち」も存在しないということ。』
ここを根源に、話しを進めていきたい。

本来、責任なんて存在しない。
なぜなら、過ち(あやまち)が無いからだろう。
ただただ、変えようの出来ない原理の渦の中で生き続けている。
それは、どれだけ技術というモノが進歩しようと、経済発展を望もうと、貧困が発生しようと…、病気が蔓延しようと、変わらない、変えられない原理の上に生きていてのことだ。
その絶対原理の渦の中に 「 過ち 」 は存在しない。

例えば
山登りを楽しむ人も
マリンスポーツを楽しむ人も
自然の中での原理を感じ取りながら、余暇・レクリエーションを楽しみ、そしてそれ以上に絶対原理の自然に対し、立ち向かいあいたいものでしょう。
その山や海に、たとえどんな事が起こっても、山にも海にも責任は無いし、過ちも無い。
有るとすれば、その自然に対し立ち向かって行った人の「自己責任」というのが生じてくることになる。
そして次に、その「 自己責任 」 をもし怠るような事が発生したならば、ここで初めて 「 過ち 」 というモノが生まれてくるという訳だ。

つまり…
「 責任 」 も 「 過ち 」 も 、対する相手は、
この宇宙の 「 絶対原理 」 に対している訳。

例えば、あっさり風味の味付けで宗教っぽく言うと、
「神に反するのは過ちだ」 とか言う。
どの宗教も、それぞれ互いに言っていると思う。

そもそも、どんなコトだって、どんなコトにしたって、最初は責任なんて無いのだ。
その中で何かを怠り、過ちを犯して、初めて責任というモノが発生する。

産まれたての赤ちゃんに責任は無い
新一年生に責任は無い
新社会人、新入社員に責任は無い

本来そうでしょう?
あるのは、人生を勉学を仕事を成長を全うすることだけでしょう?
(・・・・・??? )
だって、赤ちゃんも、一年生も、新入社員も、過ちを犯してはいないんだから、責任も存在しない。
(・・・・・??? )
だけど、よく言いますよね、「社会人になったら責任ある行動を取りなさい、子供ではないのだから。」
(・・・・・??? )

毎日、毎日、明日も明後日も、責任問題との闘いの社会生活。
誰かが過ちを犯す…
それならまだ好都合なのだが、
自分が過ちを犯し、責任を問われる側に立つかも知れず、戦々恐々の毎日だ。
・仕事の責任
・親に対する責任
・夫婦の責任
・子育ての責任
・お金の責任
・ローン返済の責任
・健康の責任
・責任だらけの人生の責任

なんでやねん!?
本来、元来、責任なんて無いんだよ。
なのに何故、責任の重圧に耐えながら生きるのか…
何の過ちを犯したと言うのか!?
何も悪いコトをしてないのに責任だけが覆いかぶさってくる。
・他人の過ちの責任を負う責任

人間って、「 過ち 」 と 「 責任 」の共有を強いるんだ。
それが社会であり、たぶん宗教でもそんな教えがあったろう、洗礼とか。
人間って、過ちを犯すことが前提で、世の中というモノを成り立てている。だから、責任をシッカリ持って、良い人に成りましょう。
(・・・・・??? )
いいえ、それは違うよ!
最初はみんな、過ちも責任も無かったのよ。
過ちの転嫁・放棄、責任の転嫁・放棄、そんな繰り越し繰り越しの人間社会が続いているだけだろう。

例えばさ、宇宙空間へ開発の第一歩を踏み出した時って、誰にも責任も過ちも問わないでしょう?
原子爆弾開発や投下時だって、誰も責任なんて、過ちなんて、持ってない。
最初は何だって責任は無いし、問いもしない。
それが、失敗だったり、ミスをすることから、過ちが生まれ、責任が生まれてくる。
だから失敗してはならないんだよと…
(・・・・・??? )
いいえ、まだ説明になってない。

我々のカラダ、細胞、成長、苦しみ、喜び、生命。
すべて、絶対原理に沿ってでしか生きていけないし、その中ででしか生きてはいられない。
そこには 「 責任 」 も 「 過ち 」 も 存在しない。
あるのは、生命と直結している、絶対の原理のみ。
・・・・・。
それは、その 「 絶対原理 」とは、どうすることも出来ない流れであり、生であり、死であり、我々はもちろんこの世の総ての小さな生き物にとって底なしの恐怖であり、底なし苦痛であり、そして時にはこの上なき喜びでもあり。
この小さき生物の我々は、巨大な絶対原理の恐怖と苦痛に耐えられず、安全に生きて行く為に 『 絶対原理に沿わない 「 安心 」と言う名の生き方 を造っていく。』

*宇宙の絶対原理には、責任も過ちも存在しません。

*宇宙の絶体原理に沿わない人工的安全原理には、
自己責任と過ちが存在し、問われ続けていく。

原始的細胞も、小動物も、植物や虫も、大きな生き物も、絶対原理の中で、必死に生きている。生きる為だったら、どんな進化だって惜しまない。
それは責任でも使命でも過ちでもない。
止まらない巨大な流れだろう。
だが人間にとっては、恐怖であり不安であり、弱肉強食の恐ろしさだ。
それを安全安心な社会の構築を量っても測っても計っても図っても、どうしたって克服は出来ない。
その強大な宇宙の絶体原理を前に、それを受け入れることこそが克服なのに、それがあまりの恐怖の現実に、遠ざけて~逃げ切る道を選ぼうとする。
だから行く先には余計に恐く不安になっていくのです。

宇宙の絶体原理の中で生きる恐怖を受け入れない、向き合わない社会には、責任が生まれます。
そして、その責任を負う事が出来ない所には、過ちが存在するのです。

自然の恐怖と向き合って受け入れて生きて行く。
これは自由が発生します。

そして
自然の恐怖を受け入れない人生は、責任と過ちと不自由の始まりなんです。

 
サイキックの眼 ヤマモト・コージ