LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

苦しみの転嫁、そして嘘

2016-10-11 08:52:46 | サイキックの眼

       
     
苦しみの転嫁、そして嘘


先ずこうだ...
ここが出発点なのです。
出発点と言うよりは、身動きがとれなくなり、
未来を閉ざし、閉ざされた発起点。

人は苦しみたくない。
苦しみの無い人生が、良い人生だ…としている。
なるべく苦しみが少ない、出来るなら避けて通りたいと願う。

・・・・・いいや、それだけでは治まらぬ。
自分だけは苦しみから逃れたい。
他人がどうなったとしても、自分だけは苦しみたくない。
誰も苦しみのバクダンなんて抱えて生きたくない。
わしゃ知らん…
どこぞの誰かがバクダン処理すればええわ。
あぁ…
それでもまだ苦しい。
こんな苦しいことばっかり、なんで抱えなきゃいかんのだ!
精神が破滅しそうだ!
耐えられん
耐えられん
耐えられん…
この人生の苦しみを、アイツに向けて苦しませてやり、ワタシよりもっとアイツを不幸にしてやればいいんだ。
他者をイジメてイジメて、無視して無視して、精神を破滅させてやればいいんだ。
ワタシ以上に不自由で苦しい人生に…アイツがなれば良いんだ。


このようなことが日常茶飯事、起こっている。
いや、起こっているのではない。
「発起している」と言ってほうが当てはまる。

※ 発起とは
① 思いたって事を始めること。
② 悟りを求める心を起こすこと。
③ あきらめること。我を祈ること。

このように辞書に記されている。
そう、③つ目の「あきらめること。我を祈ること。」、これです。
べつに悟りを開いたワケではない(笑)

『 現状の苦しみを乗り越える為に、とにかく考え、とにかく努力し、精神力も絶え絶えに耐え、恐怖に戦き(おののき)ながら自分の出来るコトをとにかくやってみて、なんらかの結果に結び付けようと更に努力し、その経験から…その先の未来に大きく成長を遂げた精神力を携えられる。』
同じ「発起」の意味でも、これは①つ目に記されたモノだ。

だがしかし、人生の必要な苦しみから逃げて生きてきた…逃げて生きてしまった人が居る。
③つ目の、「あきらめること。我を祈ること。」を選んだ発起人です。
なぜ諦めるのか?
苦しいからだ、苦しいのが嫌だからだ。
なぜ我を祈るのか?
自分だけが苦しみたくないからだ。
宗教めいたモノにドップリ浸かって出てこない人も、この③の意味を要する「発起人」だろう。

今まで、今現在も、悩む原因が解らずに、ご相談、ご依頼くださる方々がおられます。
未来は勿論、明日をどのように迎えれば良いか?が見えない、そんな精神状態のかたも多いのです。
それは何故なのか?
それには一定の共通点があるのです。
人生の苦しみ苦痛の…一定の共通点。
それは
『親が、自らの人生の当たり前の苦しみから逃げた選択をし、それを発起し続けている家庭だ。』
ということです。
依頼者のお話しを伺っていくと、親だけではないと解っていく。
祖父母や、先祖までも、努力を放棄しているのです。
想像してみてくださいな、何十年も夏休みの宿題を放棄している一族家庭って?、毎日やらなければいけないことも出来ませんし、急に計算を立てて考えなければならない事も…今日の今この時に出来ない訳です。
・・・なので、
明日の事なんぞ余裕を持って考えられる訳がありません。
なにも特別な努力をしろってワケではない、生活上必要なコトをすべし!ってだけです。
それが今日も明日も出来ない?!っていう悩み相談を賜るのです。

『すんなり、なんとかスムーズに毎日を過ごせ、少しでも余裕を持てて明日を迎えたい。』

ここに行きつくまで…も。
そしてこれを維持しつつ。
そして更に特別な夢を叶えられるような人生にするには、どれだけの労力が必要か?
ということです。

親は勿論、先祖代々、この労力から逃げてきた家庭がある。
誰も責任を取らない、責任を負う経験を知らない家族。
苦しみたくない、楽して生きたい、スグに楽したい。
でも…
この社会で楽して生きて行くということは、その分その相当の労力は、誰かが背負わなければならない、誰かにシワ寄せがいくのだ。
それだけではない。

苦しみたくない→苦しむのが怖い→苦しみから逃げたい→親も苦しみから逃げてきた→だから親は助けてはくれない→苦しみの乗り越え方が解らない→だから余計に生きるのが怖い→大人になって社会に出て行くのが怖い→明日をどうすれば良いのか解らない→毎日の苦しみから逃げるしかなく→我が子が苦しんでいることからも逃げたくなる→自分より更なる弱者を求め虐めるようになる→そして苦しみから逃れたいノイローゼとなる

まだ終わりません

これでは到底社会生活は成り立ちません

どうするか?

嘘を平気でつくようになるのです。

THE END


この長々しい一連の流れを一気に端折る(ハショル)と、こうです。
「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになる」
そしてこのあと更に達成者にはボーナス特典が付いてきます!
「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになり」⇒「他人の努力を平気で奪う」

到底…日々努力を積み上げてきた人の、苦しみを越えてきた先にある精神的強さと精神的自由度には、敵うはずはありません。
相当の時間と労力と苦心が在っての結果です。

「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになる」
短い人生の限られた時間の中で、
その果ての…ビックチャンスとは!?
『他人の努力・労力・精神・苦しみを越えてきた全てを…奪い取る』

最終的に他人から奪い取る…
なぜなら、不自由な人生、精神的に不自由な家庭に産まれたからだ。
自由な人はいいなぁ…悲
でも、本当の自由を持って生きている人は、それだけ苦しみから逃げずに、経験を積み上げてきた経験値があるのだ。
その苦悩の経験値は、しっかりと子供に受け継がれていく。
逆に、逃げ続けてきた家系は、何にも耐えられなくなり、更に精神薄弱な性質になり、ワメキまわり、暴れまわるようになり、躁鬱を繰り返している。
・・・・・。
それでも、どうしたら人並みの人生に軌道修正が出来るのか?泣
・・・・・。
このような内情を、ご相談に来られる方が非常に多いのが現状です。

勿論、全くこれらが解らなく、一から説明をし説得を続けるのです。
当初は、このような内情を相談者自身が知る由もなく…
つまり、「正しい苦労を知らない家庭に育った、未熟故の恐怖」を自らが理解する作業ですから、人生の宿題が手付かずで山積みなのを知る事になるのですから、当然、また、逃げ癖のリバウンドと、ワメキチラシや、躁鬱の繰り返しを続ける。
これを繰り返し、自らの社会的無力さの恐怖心と向き合い、冷静さを強い意志で保てるようにアドバイスを続けるのです。

何の苦労も親から教わらず、それとは逆に、親の精神薄弱の狂気・虐待・無視をもれなく経験しているのがスタンダード。
そして、まったくの不毛地帯でもなく、決まってここに生えてくる草があって、その名は「情け草」とでも命名しましょう…苦泣。
社会で生きる為の苦しさから起こり得る愛を知らない家庭は、情けだけは深くなるのです。

※ 当ブログ内記事 「 虐待と情け 」 ご参照ください

苦しみを乗り越えることも知らず、放棄し、そして他人どころか、我が子にその苦しみを転嫁し続けてきた家系家族。
毎日のニュースに、その末期破綻を迎えてしまった親子関係の姿が表れています。
自分の人生を堂々と生きたいのに、そのチカラも精神力も教えて貰えず、それどころか人生そのものを親に奪われて息絶える子。
そして、社会的経験値の少ない家庭の子が、どうしようもなくなり未熟な親や祖父母の命を絶えさせる。
こんなことまでしないと生きて行けない。
苦しみたくない…じゃ、生きて行けないんよね。
可愛そうに…じゃ、育つはずはなかろうよ。

今日も、明日も、明後日も、苦しみの転嫁は続く。
苦しみから逃げた者は、社会で生きて行く力は無い。
だから、平気で人の努力を奪い、平気で嘘をつくようになる。
そして、そんな者同士が仲良く擁護しあい正当化していく。
そしてその行く末は、いつか必ず破綻します。

なぜなら…
なぜならね
それは、この宇宙の構築システム全体、その生物的現実の在り方が、常に上回っているからです。
だから、「広大な正当な苦しみ」を前に、「苦しみから逃れる為の腐った嘘」に虐げられず、負けずに生きて行くしかない。
最終的には、自分との闘いです。

野生の生き物は自由に苦しみを持って生きている。
動物園の動物は、噓という不自由な苦しみを与えられている。
なぜなら、人間は野生の自由な苦しみが羨ましく、恐いからでしょう。
不自由な人間と人間同士は、すべてを不自由にしなければ気が済まない。
なぜなら、真の苦しみを乗り越えた自由は、脅威だから。
 

 

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