LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

強かに生きる

2014-11-27 06:28:10 | サイキックの眼

     

強かに生きる

     
     
※ 強か(したたか)
     
自分一人のチカラでは及ばず
どうしようもなく大きなモノに対し
謙虚に成らざるを得ず
そして
強かに生きる。
     
こう書けば、こころ深く納得できる。
生き物や植物も、すべてが強かに・・強く生きている。
微生物もそうだろうし、ウィルスや菌なんかも。
ダンゴムシやゴキブリだって・・。
もちろん僕ら人間の、すべての人種もそうだ。
     
つまり、万物が共通して持っている感覚として、
『強かに生きる』という自然状況と立場という平等な現実があるのです。
     
「大きな存在や出来事に対し、弱い存在は『強かに強く生きる』ことを選ぶ。」
これが本当の意味での『平等』といえるだろう。
     
 ↑↑↑ 
〔これを命ある万物のベース・・カタチある生命の土台として、このテーマを考えてみる。〕
   
『強かに生きる』
字の如く 「強か」 に、ズルさなんか本来は感じさせない。
むしろ力強さを感じさせる。
      
だが・・・
「お前はホンマに『シタタカ』なヤツやのぉ~~ッ!!」
ってなると、なんか情けないというか・・ズル賢いというか、
腹黒いというか。
恥ずかしい言われ方なんですよね。
正々堂々としてない・・陰でコソコソとした、計算高いカンジなんですわね。
でも漢字にしてみると『強か』と書くのです。
     
一流のスポーツ選手となる努力をしている人は、常に強いモノに対し、
『強かに謙虚に強く』生きている。
それは、大きな存在に対して自分がまだ小さい存在だと理解しているからだ。
小さい存在と、大きい存在の違いを知っているからだろう。
上には上が居る。
つまり
《 同じグラウンドの平等なルールの中で、「実力」の大きい小さいの違いに対して、小さいモノは大きいモノに謙虚になり、そして『強かさ』を常に持ち学び、グラウンドの中で平等な『強さ』になる努力をする。》
     
スポーツを例にとるのが解りやすいので書いてみましたが、
「グラウンド」を⇒「地球」に置き換えてみて考えてほしい。
    
《 同じ地球の平等な自然環境の中で、「実力」の大きい小さいの違いに対して、小さいモノは大きいモノに謙虚になり、そして『強かさ』を常に持ち、地球の中で平等な『強さ』になる努力をする。》
    
微生物も、植物も、魚も、爬虫類も、鳥も、動物も、
同じ土俵の中で、等しい自然環境の中で、
『強かに強く生きている』のです。
立場が等しく同じなのです。
ズルくないのです。
腹黒くないのです。
コソコソもしてないし、
計算高く・・恥ずかしいコトでもないのです。
    
それが
「お前はホンマに『シタタカ』なヤツやのぉ~~ッ!!」
って、どやされるような恥ずかしい行為?や、
まぁ或いは、恋愛ゴトなんかでの笑い話しでも使うジョークで、
「このぉ~!シタタカ野郎め!笑」
みたいなコトや・・。
それは、
「周りを嘘でダマしダマし、混乱させておいて、自分だけが抜け駆けし、自分だけの利益とする方法。」
自分の都合の良いデタラメをもって、都合よくなるように周りをコントロールする。
スポーツのグラウンド内では、絶対にしてはならないイエローカードもんです。
でもそれは、地球というグラウンド内でも同じコトといえます。
社会や、ビジネスや、職場内でも。
そして、家庭内・家族・親子関係でも同じです。

イエローカードだらけの
社会、ビジネス、職場、人間関係、家庭内、家族、親子関係。
特に・・家族内の親子関係にはイエローカードは存在していないので、親子がいきなりジャッジを決める事件が、これからより多発するでしょう。
「シタタカ」な嘘でダマしあっている家族親子は、レッドカードです。

「自分の立場のみを守り維持する為には、噓も平気でつき続ける。」
これがレッドカード級の「シタタカ」です。

つまり
「強か」にも、人間の世界では「強か」と「シタタカ」と2種類存在しているのでしょう。

本当の「強かさ」を理解しつつ持って生きている人は、謙虚なんです。
何に対しても謙虚です。
大きいモノに対しても、小さいモノに対しても謙虚です。

「その謙虚さの中には、自分より大きいモノへの脅威と恐怖を理解する努力が備わっているのです。そして自分より小さいモノへの脅威と恐怖も理解しています。」

なぜ?小さいモノへも脅威と恐怖を感じるかというと、自分よりも小さいモノも日々進化し成長をするからです。小さいモノも工夫し集団となり大きくなるかもしれません。

それが、人間の社会間では「足を引っ張り合う」という「シタタカ」な生き方が存在する。
謙虚さなんてありません。
恥ずかしいという感覚もありません。
やったモン勝ちで、やられたらやり返す。
例えば、足の引っ張り合いの社会構築の中で
自然な成長を持った「強かな生き方」は危険?とされ、
社会の一番上に宗教を置いて、生きているモノの本来の成長を止めるコトをする。
だから、宗教関係者に謙虚な考えを持った人は存在しないのです。
宗教に成長はありません。
足の引っ張り合いを起こすか、
足の引っ張り合いを宥めようとする範囲のモノです。
宗教は「シタタカ」と・・いう部類に見られがちなのも、「強かな生き方」とは違うからです。
全ての生き物の進化と成長は止められないのです。
ただそれだけなのかも知れません。
だから地球という生物にも地震は起るし、なみ風だって大いに荒れるのです。

「強かに生きる」ことを理解し進めていくことは、脅威と恐怖と立ち向かうことです。
相当の精神力が必要です。
人間以外の生物は、その脅威と恐怖に対等以上になる為の身体・カタチを持った進化をし続けているのです。
人間は、進化よりも・・神頼みとか建前や体裁などで足の引っ張り合いダマし合い、互いに嘘をついて混乱の「したたか」合戦でビジネスが成り立っていたりなんかして。
そんでもって・・「したたかイエローカード」が与えられ鬱になって。

『強かに強く生きる』が・・閉ざされているんです。

いいえ・・互いに閉ざし合うことが謙虚でつつましいと美化し合っているのです。
だから息苦しいんです。
頭痛や吐き気や、肥満やなんや・・あらゆる病気の原因は、
『強かに強く生きる』ことが出来ないのが原因です。

本当の平等とは、進化成長に対し、脅威と恐怖に立ち向かっていること。
最初から分け合う事ではないのです。
最初から分け合う国や社会構築を造ると、破綻するのです。
なぜ破綻するかというと、成長が無いからです。

身勝手な『シタタカ』に翻弄し合い、互いに足を引っ張り合い、餌付けされて喜び合う。
そして、『強かに強く生きる』成長のある姿勢。

『強か』と『シタタカ』
同じ言葉のニュアンスでも、大いに違いがある。
どんなに小さな存在でも『強かに強く生きているモノ』はカッコ良い!。
どんなに大きな存在でも『シタタカに生きている人』はカッコ良くないものね!。

『強かに生きる』
その謙虚な強い姿勢は、美しく映り感じる。
それは間違いないのです。
 


サイキックの眼  ヤマモト・コージ