執着と依存
生まれてきたかぎり…すべての人が抱(いだ)けるモノがある。
その、抱かれ…抱いてきた気持ちは、また次の世代を抱き、この世に生を送り出す。
つまり、抱かれるってコトは、認められ信頼がある関係性の始まりだ。
唯一無二の自分自身の誕生となる。
唯一無二の自分自身の存在を抱かれ認められた経験のある子は、またいずれ自分の子をその気持ちで抱くようになる。
家庭内での自分の居場所、
それが無い人は多い…。
誰にも認めて貰えないからだ。
或いは、ただ惰性で生活があるだけで、「自分自身の存在」など考えも及ばない家庭も多いのだ。
だが、自分の気持ちはある。
気持ちの無い人などいない。
抱(いだ)けるモノが欲しい。
なにか?自分の気持ちを明確に出来るモノが欲しい。
でなければ、情けない気持ちに陥ってしまう…。
自分の存在を認めてくれるナニか?が欲しい。
自分の辛いキモチを抱いてくれる…ナニか、それが解らない。
何でもいい、その代わりになるモノでも良い。
自分の存在を明確に出来る?だろう、ナニかの代用品、それがあれば苦しみや情けない気持ちから救われる!!
~ こうやって 「 依存 」 は成立していく ~
依存は、本当に欲しいモノの代用品です。
その本当に欲しかったモノとは、その行き着く原点は「親という名の、人の抱く気持ち」だろう。
だが例えばどうだろう、その親だって最初から結婚も子供も依存の対象だったら?
本当に欲しかった叶えたかった結婚が出来ず、代用品で済ませた結婚だったらどうだろう?という意味です。
依存の相互関係、共依存、依存家族の成立。
こんな旦那はイヤだ!
こんな嫁なんて見たくない!
なんだこの子供は!?怒
みんな自分の居場所は無いワケです… 涙
気持ちの代用品。
代用品家族。
どれもホンモノではない。
どれも本当の気持ちにはなれない。
どんどん身動きが出来なくなってくる。
ココロが狭くなってくる。
なので、他の代用品を求めるようになってくる。
代用品の代用品を求めるようになる。
どこかに自分だけの安息の場所があればと…代用品を求め出す。
こうして、また、その代用品の代用品に 「 依存 」 していく。
依存から依存へと、依存代用品サーフィン!
そしてこの段階でやっと 「 執着 」 が誕生してくるのです。
代用品から代用品へ、依存から依存へ、どこまで行っても自分の居場所はありません。
でも…、どうしても…、
自分の存在を、存在価値を、明確に出来るモノが欲しい!怒
なので、
《 一方的に、依存代用品となるモノに対し、自分の存在価値を認めさせようとする!》
《 一方的に、依存代行者となる相手に対し、自分の存在意義を与え続けようとする!》
これが 「 執着 」 だろう。
この、今までの流れを逆流させて、言い方を変えて言うと…
『「 執着 」するしかない、「 依存 」するしかなかった。』
ということになる。
どうして?
『自分の存在意義を…誰も抱いてくれなかったからだ…泣 』
どうして?
その理由は、人の命の数と同じだけ存在します。
誰だって自分が本物で在りたいのです。
だけど、それは、親の気持ちが本物でなければなりません。
では、なにをもって本物かそうでないか?など決められるのか?
それは…
『 自分の居場所と存在意義を携えて生きていく辛さ厳しさが世の中には在る、だから自分をしっかり持って居よう! 』
そういって、信頼し抱いてくれるのが、人生の始まりならば良い…。
執着と依存 その奥深くにあるものを端的に綴りました。
あえて短く纏めました。
ホントは、生きるか死ぬか…というような終わり無き壮絶な問題です。自分の居場所の足元を見るのが怖い。だから依存や執着にしがみついてでも生きて行くしかない。
それが殆どです。
だから、子供もまた依存関係の親にしがみついて生きるしかない。
執着と依存の遺伝です。
これを乗り越えて生きる道は必ずあります。
ホンモノのジブンを奪還してほしい。
僕には全ての人の、それが視えているのです…
サイキックの眼 ヤマモト・コージ