LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

遼寧賓館 (リャオニン・ピングゥアン)

2013-12-26 12:40:10 | 時間旅行



遼寧賓館 (リャオニン・ピングゥアン)


1992年1月29日 当時22歳
僕は中国の東北、遼寧省の省都・瀋陽の空港に降りた。

ただ無性に行きたくなった・・というのが渡航前の目的理由。
いつもそうなのだ。
まず思い立つのが先で、理由はいつも後から理解する。
いつも直感ありきの人生で、他の同世代とはホントに合わない・・。
まだバブル真っ盛りの時代に、南の国のリゾートなどに興味も無く、真冬の中国東北に1人で行くのだから、ある種・・考えモノの人生だ。(悲)

関西国際空港がまだ開港しない当時。
大阪伊丹空港から出国し、上海虹橋空港まで2時間30分。
上海で中国国内線に乗り換え、約2時間で今回の目的地「瀋陽」に着く。

「瀋陽」は現在、中国東北部〔遼寧省〕の省都。
しかし・・日本が負けて、第二次世界大戦が終戦をむかえるまでの13年間は、『満州国』という独立国家・・・。

いいえ。日本の占領国家だった。


瀋陽桃仙国際空港・中国北方航空
(現在は中国南方航空に吸収されて現存しない)

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中国北方航空・上海→瀋陽・国内線ファーストクラス機内食
(実質的には今でいうビジネスクラス)

ただ無性に。
だが旧満州の歴史に触れたいという考えはあった。
しかし理由は全く理解出来ないままの渡航で・・漠然としていた。


そう。 思い出した。
ルーツだった。

今現在生きて、考え、悩みあぐね、迷い。
当時、良い学校・良い仕事・生涯困らない人生を目指す生き方?が・・どうしても納得出来なかったのだ。
何もかもが嘘?。
本当の気持ちって・・みんな持って無いのかなぁ?と、不思議で仕方が無かったのだ。
なぜ誰もかも、自分らしく生きようとしないのか・・不思議で堪らなかった。

現在僕は、サイキックとして生きている。

20代の頃の、この旅の当時は全く知らなかった。
いま振り返ってみれば、常に僕は『未来』を深く視ていたのである。
それが解らなかった。
他のみんなも同じだと思っていたのです。

本当に大事なものを、どうして理解しないのだろう?。
どうして「それ」を無視した社会が成り立っていて、そこに大切な命を置いて生きて・・恐くないのだろうか?。

ずっとこのように・・一人で悩みを抱えて生きてきたのです。

「それ」とは、尊いモノです。
何にも代えられない。

僕が、この中国東北部「瀋陽」という街に無性に行きたくなったのは、その尊いモノ・・「それ」が、無視され・・戦争という結末をもって全てが破綻した街だった過去を色濃く残していた都市で。
その日本人の戦争破綻した残骸に触れ学び知り。当時バブルで(が)沸き立つ・・何の根拠もない時代の中で、本当に大事なモノのルーツに・・とにかく身を置きたかったのだと思います。
なので、バブルの泡に溺れることから逃げるように、真冬の極寒の中国・瀋陽の街に旅に出たのでしょう。
旧満州は、日本の戦争バブルが破綻した過去の歴史がある。今思えば、その生々しさの面影に触れたかったのです。

◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇

『遼寧賓館』 (りょうねいひんかん/リャオニン・ピングゥアン)

これは、この旅で宿泊した瀋陽の有名なホテル。
旧名は「奉天・大和ホテル」。

旧満州国時代に日本によって建てられた今も現役のホテルです。
戦時中までは満州鉄道の直営だった。
日本国内で言えば、旧国鉄から続く「東京ステーションホテル」や「奈良ホテル」と同じ。


■ 外観

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写真はすべて旅の当時、1992年1月のものです。
現在では高層ビルや外資系ホテルが乱立しているのでしょう。
日中でもマイナス20度が最高気温の1月。
この日、街中に雪はありませんでした。
しかし写真の地面にホツホツと白い凍てついたモノが見えます。
現地の人がお吐きになった痰です。
痰が沢山至る所で凍っているのです。
これも旅の想い出ということで・・。!?


■ レストラン

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写真は朝食のセットメニューです。
お粥と副菜。
僕はこの時までお粥が嫌いだったのですが、ここのホテルの中国粥はとても美味しく、好きになってしまいました。
それから写真には無いのですが、次の日に食べた同じ朝粥朝食には、副菜にフライドチキンが出たのです。
その調理方法が良く解らないのですが、とにかく美味しかったのです。
軟骨など、小骨もついた鶏肉だったのですが、薄いおせんべいか?目板カレイの唐揚げのようにパリッパリでカラッカラに揚げられていて、と~っても美味しかったのを忘れられません。
春巻きの皮を揚げた、お粥のトッピングのようにして食べるのでしょうか?。


■ 宴会場・ホール

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映画「ラストエンペラー」で、撮影に使われていました。


■ 娯楽施設

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ビリヤード場です。
僕が宿泊していた日、サントリー烏龍茶のコマーシャル撮影スタッフが数名同宿していたようで、彼らはここでビリヤードを楽しんでおられました。色々お話しも伺いました。
当時大変ヒットした烏龍茶のテレビコマーシャルです。
(余談)


■ ホテル・リーフレット

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僕が泊まったのは、このリーフに載っているシングルルームです。
値段は確か・・日本円に換算すると1泊2600円(朝食付)くらいだったと思います。

◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇

ホテルを出て、少し瀋陽の街に出て見ましょう。
なにせ寒い。
すべてが凍りつく街。
呼吸をすると、鼻の中の鼻毛が一瞬で凍ります。

街中で見つけた蒸し饅頭のお店。
いわゆる肉まんだけの食堂です。
暗くて、店内も寒い。
注文して暫くすると、奥の厨房から湯気の立つ蒸籠(セイロ)をおじさんが持ってきた。
「ハァ~ッ!来たよ来た、あったかい肉まんが来るよ。」
湯気が・・たって。
目の前に置かれて・・そしてぇ~っ。

『つめたッ!?』

つめたい・・、さめた?。
僅か数秒で!?。
蒸籠に8個ほど並んだホカホカの肉まんが、秒殺でした。
湯気もむなしく・・マイナス20度で瞬間冷却されたようです。
冷たくなった肉まんを・・ただほおばるのみに終わったのでした。

この食堂もそうでしたが、庶民の建物も公的な施設も、すべて旧満州国時代の日本人が建て、使用していたものです。

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その中でも目を引くのが瀋陽駅。
東京駅とほぼ同じデザインです。
因みに大連駅は上野駅と同じデザインに。

街中を歩く人の中にはロシア人が多かった。
観光ではありません。
1992年当時は旧ソ連が崩壊した直後、改革=ペレストロイカが始まった中で、ロシア国内にはモノが無く、中国に買い出しに来ていたのです。

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これも終戦前からあった建物でしょう。
「青年宮」と書かれた看板があります。
青年の為の公的施設に利用されているようです。
場所などは覚えておらず、ただ歩き見てまわっていて撮った一枚です。

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中山広場という円形ロータリーの中心に建つ毛沢東像の台座。
共産党モニュメント。

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同じく中山広場。
台座前で太極拳をする男性。


僕は先にも述べた通り、目的が解らないまま旅に出ることが多かった。若かったので、それほど気にはならなかったが、恥ずかしながら日本と中国の歴史も・・殆ど知らないまま、このように思い立っては一人で旅をしてきた。
3泊4日の短い瀋陽の旅も終る、夜もまだ明けぬ早朝に、ホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。

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帰りの瀋陽→上海間の飛行機では、機内食に出されたホットミールに出された鰻ご飯は温かかったのですが、副菜に付いていた野菜炒め?はカチンコチンに凍って出され。色々と凍っていた旅となりました。

上海で乗り換え、無事帰国しました。

そして奈良の実家に帰宅し、自室で荷物をおいて・・服を着替えつつテレビのスイッチを入れた。

そして。

テレビをつけたと同時に始まった15秒のテレビコマーシャルから流れる音楽と映像に見入ってしまった。

それは、劇団四季 「ミュージカル李香蘭」 のコマーシャルだったのです。

たった15秒のCMで一瞬のことだったが、中国から帰ったばかりの僕に衝撃的に何かを感じとれるものであった。
僕は次の日早速チケットぴあに行き「ミュージカル李香蘭」のチケットをとりました。

1992年2月12日
旅の2週間後ほど。忘れもしない舞台初見の日が来ました。
「ミュージカル 李香蘭」は、1991年に東京で初演されました。
大阪上本町の近鉄劇場(現閉館)で、翌年大阪初演。
僕はこの大阪公演を観たのです。

舞台は、第二次世界大戦の終戦をむかえた混乱の中国が、序曲・プロローグとされ。
そして主人公・李香蘭こと山口淑子さんが育った中国・瀋陽(旧・奉天)の街で暮らす、満州国建国の前の過去に時代をさかのぼるストーリー演出で物語が始まる。
山口淑子さんの李香蘭として生きた半生と、密接に絡み合った戦争の史実とが紐解かれていく舞台。



僕はこの大阪初演から再演される度に、何度も繰り返し観劇しました。
それは、演出されている史実・歴史に嘘が無いからです。
何故?嘘が無いと言えるのか・・。
それは、日本にも中国にも・・人間として中立に歴史と向き合い、心情の事実がこの舞台にはあるからです。


ミュージカル「李香蘭」当時のパンフレット
1992年1月8日~2月23日大阪初演・近鉄劇場



学校で学ぶことは嫌いだった。
僕が旅に出る、旅に出たい1番の理由は、実際に自分で確かめたかったのです。ヒトツの方向から見る事が嫌だった。旅に出て、旅先の国の実感から感じたかった。そしてその異国の実感から日本を知りたかった。
観劇のつい2週間前、僕は旧満州国に居た。
あの凍てつく空気を思いだしながら観ました。
舞台上では、遼寧賓館のホールで初めて李香蘭が歌ったとされるシーンもあった。

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このボロボロのピアノは、遼寧賓館・館内の片隅に放置されていたものです。
もしかすると、李香蘭さんも触れられた当時のピアノかと、想像してしまいます。

バブル景気で、泡の上で踊る日本。
連邦崩壊で、極貧から改革を始めた旧ソ連ロシア。
天安門事件の後も、戦後変わらぬ色が濃いままの中国。
1992年当時はこんな時代でした。
このような時代の中で産まれ育ってきた、そのルーツを知りたい。

キリスト教のイエスが産まれたとされるのを紀元とする西暦があるが、僕はもし日本の西暦紀元を定めるとしたら、第二次世界大戦終戦日だと思えるのです。
人間の成すことすべてが破綻し、そしてゼロからの歩み出しをした。
それに限らず、あらゆる人間の事々が集約されている・・。

「ミュージカル 李香蘭」を観て、時代と人の流れ方がよく理解出来る。

舞台ラスト。
終戦後、上海軍事裁判で李香蘭は死刑を言い渡されます。
中国人でありながら敵国日本の映画などに出演し加担した非国民として。
ですが・・本当は日本人。

無罪は言い渡されたものの・・、終幕最後のシーンでは、「日本を絶対許さない中国人」と「許すことで学び苦しみを乗り越えなければならないと信じる中国人」の群衆入りみだれる中で、李香蘭は反省と無罪を背負い立ち・・幕が・・緞帳が下りる。

僕はこのラストシーンが感慨深く、1番心に残るのです。

これが現実なんだ。
人間の感情の現実と事実。
僕の学びたかった立ち位置だった。

旧満州国への旅。
そして劇団四季「ミュージカル 李香蘭」との出逢い。
日本人として。現代までのルーツとして。
終戦から学び得ることは不可欠な道であり、避けて通る意味は見あたらない。

国が貧しくなると戦争は起こります。
そうすると、隣国を奪うのです。

李香蘭は劇中、日本が敗戦し・・終戦することを知らされるシーンで、「何も知らなかった」と言います。何も知らず・・運命に翻弄されてしまった自分を悔いるのです。

僕は本当の事を知りたい。
心の奥の本当を感じて生きていきたい。
それを照らし合わせていたい。
これが僕の旅の目的なのかも知れない。

旧満州国時代の歴史が、まだ色褪せていない、
1992年~当時22歳に渡航した、真冬の瀋陽の旅の記録でした。


サイキックの眼 山本 浩二


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