湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:ディアーヌ序曲L.20(ピアノ連弾版)

2019年02月15日 | ドビュッシー
クリスチャン・イヴァルディ、ノエル・リー(P)(arion,universal/warner)1990・CD

7分半の連弾曲で色彩的な華々しさがあるが依然、ドビュッシーらしさというものには至らない。「小組曲以前」という感じではある。吹奏楽で編曲演奏されることが多く、そちらのほうが有名だが、ピアノできくとちょっと特長のつかみづらい初期ドビュッシーの感がある。演奏は豆をまくようにパラパラパキパキして聴きやすい。音が多いほど明瞭であるほうがわかりやすい。「森のディアーヌ」とは別だが主題に関連性はあるとのこと。L33とあるのは誤り。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラヴェル:ツィガーヌ

2019年02月14日 | ラヴェル
D.オイストラフ(Vn)コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団(profil他)1949モスクワ・CD

独奏部は音が太く安定しすぎており、神経質なところの一つもない描き方が情熱をまったく感じさせない。うま過ぎる。だがオケが絡みだすとやっとドライヴがかかってくる(譜面のせいでもある)。コンドラシンの棒は統制しきれていないようで、このソロ志向が強いボワボワしがちなオケ相手だと、また曲が曲なだけになんとなくうまくいかない。戦後すぐのメロディヤのスタジオ録音ということを考えるとこんなものだったかもしれないが、ムラヴィンスキーが比較的若い頃からシェフとしての腕を振るえていたのに比べ才気的には落ちるように感じる。そこにラヴェルとくると、なかなか難しく、楽曲の民族色が変というか、オケの響きがスラブスラブしすぎてリムスキーみたいに聴こえたり(難儀している)、オイストラフはプロコフィエフのコンチェルトのような、、、まあ、そんなところです。profil初出かと思ったがセッションとなると既出lysかどこかの別オケ名義のものと同じだろう(他にもあったかも知れない)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲

2019年02月14日 | ラヴェル
ギレリス(P)コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団(profil)1953/5/14モスクワlive・CD

曲慣れしてなさすぎ。いきなり大外ししてギレリス大丈夫か?とハラハラすると、そのあとも音が濁ったり記憶が途切れたような音量低下など雑味が多すぎるというか雑。果てはコンドラシンもモスクワ・フィルではないせいかオケ制御がいまいちで、ギレリスと一度ならずずれたり、また管楽ソリストが辛そうな音ばかり出すのもきつい。ザンデルリンクとのライヴもここまでではなかった。よく正規盤として収録されたものだ。音は軽めで良くはない。YouTubeでタダで聴くレベル。profilのコンドラシンボックスに収録されたが、profilのデータは私はあまり信用できない。ただレコード屋のデータでは初出がないような書き方になっているものの、このトラックは初めて聴いたし、他にも(おそらく)オケ表記違いは置いておいて、いくつか知らないものがある。ロシア時代のコンドラシンの記録詰め合わせとしては、損なボックスではない。ただラヴェル集は期待に沿うものではない。左手以外は既出だろう。ツァーク(ザーク)との両手もまた冒頭ソリストとオケが揃わないように聞こえるがこちらはひょっとすると録音が悪くてそう聴こえるだけか(既出盤)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラフマニノフ:交響的舞曲(独奏ピアノ編曲)〜全楽章からの抜粋

2019年02月14日 | ラフマニノフ
作曲家(P)(marston)1940/12/21live・CD

この30分前後の極度にノイジーな「実況録音」復刻のために既出音源などと組み合わせ三枚組ボックスとして出されたもので、非ノイズリダクションSP音源に慣れた人でなければ絶対に勧めない。よほど状態が悪かったのか実音も所々聴こえず、まるで素人が板起こしデジタル化したようだ。昔のSLS復刻と思えばいい。1940年はけして古くはない時期だが、これはテストプレスやプライヴェート録音を含むユージンオーマンディコレクション(ペンシルバニア大)の中に新発見されたもので、ラフマニノフが気まぐれに、というより楽曲紹介のため主として1、2楽章から掻い摘んで弾き、ところどころ立ち止まり、または歌い、ニュアンスを非常にデフォルメして聴かせている。新作紹介の意図があったというが、録音に残すのが目的というより演奏の手引として誰かに伝えるだけのため、もしくは単に「誰かに伝えているところ」をマイク録音しただけだろう。従ってこの悪いコンディションも仕方ないかもしれない。発売がだいぶ遅れたことからもそのようなものの正規盤化が難航したことをも想像する(コマーシャル的にはかなり難しそうだ)。耳に自前の脳内フィルターをかけ、集中して聴くとそれなりに聴こえてくるものはある。前記したようにラフマニノフの晩年スタイルからは離れて大袈裟な表情付けがなされ、タッチは陶酔しているようにも聴こえる。ただしばしば崩して弾いている和音そのもののバランスはすこぶる良く自然に響く(録音あるいはリマスターマジックだったらごめん)。特有のリズムがまた切れている。だが乗ってきたところでブツッと切れて別のところから始まることの繰り返しで、それも要所要所を意図してやっているわけではないのでこの曲の全容はさっぱり掴めない。リハーサルを聴くより聴きづらい(リハーサルは要点は押さえるものだがこれは要点を意図的に取り出すことはない)。ピアノソロ編曲なので管弦楽を知っていると音が足りない感も否めないし、ピアノソロ編曲演奏でありがちなリストかなんかかというような芝居がかったルバートが入るのもちょっと伝わりづらい(意図はわかる、同曲メロディアスで歌曲的なかんじはある)。一枚目に編集版、三枚目に無編集版が入っているが、楽曲としては編集版で音のある部分を重複を切って繋いだ状態で聴かないと最低限の鑑賞はできない。ラフマニノフの意図というと大袈裟だがどういう場面でその断片を弾き、曲聴きの流れは全体でどうだったのかは無編集版で聴くとある程度わかる。後者はドキュメントとしては自然だ。まるで同じ室内でラフマニノフが弾きながら解説し歌い、立ち止まっては説明をしたり休んだりしているようだ。楽屋風景というかそういうものが好きならこちらを聴くと良い。音としては同じものである(無編集のほうが編集版でカットされた繰り返しのぶん長い)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴォーン・ウィリアムズ:映画音楽「潜水艦轟沈す」

2019年02月13日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ミューア・マシソン指揮LSO(broadway他)DVD

(映画そのものです)カナダの全面協力で作られた戦時映画でヴォーン・ウィリアムズは内容とは異なる、あくまで自分の視座から立派な音楽を提供したにすぎない。映画音楽指揮で知られるマシソンの指揮は性急でやや軽く、力感の制御がデジタル。滑らかで柔らかい(しかし明確な)ヴォーン・ウィリアムズっぽい音ではなく、あくまでヴォーン・ウィリアムズの素材を映画的に即物処理したように思える。音楽主体の映画ではないし、あきらかな反ナチプロバガンダ映画なので、これはこれで良いのだ。タイトルのカナディアンロッキーかどこかの空撮にのったヴォーン・ウィリアムズの前奏曲は、序章に美しいハーモニーを加えている。農村、都会、島々、海と音楽は寄り添うように素材を加え、未だ「南極」のカラフルな音楽に至ってはいないが、即物的に職人技を発揮しており、しばしばヴォーン・ウィリアムズらしくない俊敏さもみせている。本編に入ると音楽はあまりなくなる。ナチ登場で弦楽四重奏曲第2番3楽章へ流用されたフレーズが入る。2時間あまりのあと、話がオチた途端に再び前奏曲で終わる。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴォーン・ウィリアムズ:映画音楽「潜水艦轟沈す」〜前奏曲

2019年02月13日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ヒコックス指揮ノーザン・シンフォニア(EMI)CD

3分にも満たない前奏曲のみだが、映画(原題:北緯49度線)は1940年作品。戦時プロバガンダ映画として有名で、YouTubeではサワリを(RVWのこの曲(タイトルバック)も)楽しむことができる。音楽はまったく平和。狂しいほど懐かしいヴォーン・ウィリアムズ節。弦楽アンサンブル主体の長大なメロディが大きくたゆたうヴォーン・ウィリアムズとしても懐かしい作風だ。最後はブラスが入り輝かしく終わる。この遠い目をした美しい感傷と、Uボート沈没、敵国カナダより中立国アメリカへ脱出するナチスドイツ兵、という筋が合うのかどうかとも思うが、そもそも映画音楽が映画に必要以上に寄り添う時代でも無かったのだろう。ヒコックスのRVW小品集に収録され、厚い響きでRVWのスペシャリストぶりを堪能できる。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストラヴィンスキー:バレエ組曲「プルチネルラ」〜本番とリハーサル

2019年02月12日 | ストラヴィンスキー
作曲家指揮トロント交響楽団(vai)1967(6/17?)live・DVD

「85歳のストラヴィンスキー」というDVDにおさめられている。ややこしいのは本番とリハーサルが有機的に切り貼りされているところだ。チャプターを参照にすると1,2が本番、3楽章スケルツィーノが途中でリハーサルに切り替わり、4、5ときてリハーサル休憩、6,7ときて8楽章メヌエット&フィナーレからリハーサル終了となると急にフィナーレ本番に切り替わる。一楽章、雑然とした弦の響き、切れないリズムなど最初の方ははらはらする。これはオケがストラヴィンスキー向きではないのかもしれないと思う。このてのストラヴィンスキーは平準化された音がスコア通りデジタルに音量を変え織り上げられていくことで成立する(弦や低音金管楽器は絵面的にも不利、楽器の性格と逆の指示になるなどで、全てを制御して1部品たらんとせねばならない)。この曲は新古典主義の初期でイタリアの古楽に材をとっており、擬古典主義とも言うべき音楽にはなっているが各曲それぞれストラヴィンスキーの刻印が押された新しい難しさを抱えている。この映像は7割方リハーサルなのでよくわかるが、それぞれの曲でストラヴィンスキーの穏やかな檄が飛んでいる。リズムは数学的に複雑(正しく数えるよう指示を重ねる場面がある)、装飾音を多用するのに非感情的に主音の明確な表現を擦弦楽器に要求する難しさ等々。リハーサル休憩では酒をあおり機嫌良く始めるが、後半の方が厳しい。リハーサルで無観客なのに拍手が入ってから終曲の本番映像、のちストラヴィンスキーを椅子に座らせてのコメンターのカナダ芸術協会メダルの記念「朗読」まで入っている(トリビュートバースデーコンサートというから6/17か)。この終わりの方はストラヴィンスキーの表情同様どうでもいいとして、リハーサル、英語字幕が出るらしいのだがうまく出せず物凄い訛りのストラヴィンスキーの言葉をわかる範囲で聞いていくと、上記等々の揉める場面はあるもののまあ、おおまかには普通のリハだと感じる。ストラヴィンスキーの独特さを掴むのも難しいうえに、掴んだとしても根本的にスコアの誤読を指摘される(とにかくスコアだ)。後半で調性のことで困惑が広がる場面はこの老いた異才の未だ鋭敏な耳の凄みを感じた。ただ、どうしてここは引っかからず、どうしてここはこだわるんだろう、とか、出来の良さとリハーサルの軽重がシンクロしてなさげとか、そういうところはあるが、そもそもリハーサルとはそういうものである。さらにストラヴィンスキーは理詰めの人だが根本的には情に依っているように思う。この人の自作自演の独特で掴めないところである。今の目で見ると85歳にしてはかなり衰えているように見えるが、座って指揮をするスタイルで問題はなく、リハーサルにいたってはよく喋る。まだ命はつづく。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2019年02月12日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(vai)1962/4/17ハーバード大学サンダースシアター放送live・DVD

音がノイジーで聴きづらいが映像はクリア。局所的に極端なルバートのかかる演奏スタイルはまだ堅い一楽章ではオケに軋みを生じている。響きが茫洋と切れ目がはっきりしなかったりミスを呼んだり、少し緩んだ感じがある。冷たくいかにもオケ奏者的なソリストが揃っているだけに、そういう形では瓦解がすぐ聴衆にわかってしまう。ミュンシュはしかししっかり振っており、それが二楽章では冒頭から笑みの出る響きに結実し、どんどんドライヴがかかってゆく。精度も上がりドビュッシーの精妙で前衛的な世界が知的に組み立っていく。これがクライマックスでミュンシュらしい暴走でオケがついていかなくなるなどあるものの、スピードと力感だけでその場の空気をがっちり掴んでいるのはわかる。三楽章もなかなか木管のアンサンブルが揃わないなどあるものの、管・弦の対比となるとしっかりできている。弦はこの音でも音色の美しさを楽しめる。まあ管楽器の負担の大きい曲でしょうか。緩急の差をしっかりつけるが、緩の部分でのねっとりしたテンポ取りは仕事人的なオケ(の管楽器)にはやりづらいかもしれない。テンポルバートが機械的になってしまう。性急なテンポでラストへ向かって突き進むが、ここではラッパナイス。爆発的な海にはならないが、ブラヴォは飛ぶ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・フォウルズ:ピアノと管弦楽のためのダイナミックな三部作

2019年02月10日 | イギリス
シェレイ(P)ハンドレー指揮ロイヤル・フィル(lyrita)CD

ヴォーン・ウィリアムズより8歳下だが世紀末世界中で吹き荒れた野心的な音楽の潮流をそのまま受け継いだような親しみやすさと前衛性を併せ持つ面白い作曲家で、この作品もまさにダイナミックなアピールする迫力をもちとても専門教育を受けなかった作曲家とは思えないが(理知性と明るい派手さにウォルトンに通じるところがあるのは専門教育を受けるとヴォーン・ウィリアムズのような回り道をする(初演はロンドン交響曲と同時)ということかもしれない)、この作品はプロコフィエフの影響を受けながら聞く側にとってはまったくプロコフィエフではないという、晩年の野心的な作風をしっかり形にしたものとして記憶に留めるべきものだ。インドに傾倒し(インドで亡くなる)非西欧的な「雰囲気」を求めたというと東洋に活路を求めたヘンリー・カウエルを思い出す(前衛的だが「ダイナミックな動き」は1916年作品と先行する)。一楽章「ダイナミックな旋法(モード)」から響きが似たようにかんじるが(他にも近似した作曲家は何人かいそうではある、フローランを思わせるところがあるのはスクリアビンの思想込でこの人に既に刷り込まれていたのだろう)、二楽章「ダイナミックな音色」でクラスター的なポルタメントが響くのはまさにだし、そのあとの追憶的な魅力あるメロディも、前衛と陳腐を極端に使い分けて作風としたカウエルに通じるようにおもう。もちろんこの人が先である。メシアンと間接的につながっていたようだが、一楽章はメシアンを彷彿とさせる技巧の織り込まれている箇所がいくつもあり、とても1929年作品とは思えない。在フランス時作品であり、6人組、コルンゴルド、ラヴェル、ストラヴィンスキー、ヴァレーズを聴いたようであるが、涼やかな響きのなかに重くロマンティックな表現も依然あり、イギリス的保守性は一つ本質として維持しているように感じる。技法以外の本質には影響は無かったのではなかろうか。ピアノがややオケに主導権を譲りがちだった2つの楽章のあと、三楽章「ダイナミックなリズム」の始まり方はのちのシマノフスキのシンフォニア・コンチェルタントそっくりだ。だが楽天的なムードは南米的であり戸惑いも感じる。ラヴェルというよりミヨーの影響なるかと思いきや聴くうちに全く印象は異なってくるのであり、ブラスの重用や知的な構造はヒンデミットのほうが近いだろう。気まぐれな構成のように感じるが流れは有機的でとても新しい。度肝を抜く終わり方はやっぱり、メシアンだ。ソリストは適切で、オケの音と非常にマッチしている。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴォーン・ウィリアムズ:ピアノ協奏曲(1926-31)

2019年02月07日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ハンドレー指揮ロイヤル・フィル、シェレイ(P)(lyrita)CD

ヴォーン・ウィリアムズの意欲作で珍しく複雑な様相を呈している。二楽章を中心とするアピール力の強い旋律と単純な響きによる感傷性と、三楽章前半で現れるサーカスのような象のような音形を核とする動き(人を食った感じはロンドン交響曲ぽくもある)重視のダイナミックな扇情性が交錯するあたりを面白く弾けるか聴けるかが焦点となるが、一楽章冒頭いきなりのフォルテがやりづらいと言われるようにちょっと慣れない楽器を実験的に用いている感も否めず、この盤の録音が少し籠もっているせいもあるがピアノの音に重量感が足りず埋没してしまう。ピアノが技巧というより書法的に難しいからと結果的に2台ピアノ版が作られそちらのほうが演奏機会は多いようだが、この盤でも一楽章はモソモソいっているばかりで余りちゃんと聴こえてこない。二楽章は師ラヴェルのピアノ協奏曲のエコーが(ほぼ同時期なので偶然かもしれないが)響きにおり混ざるが概ね単純な美観につらぬかれ、それはヴォーン・ウィリアムズ自身の確立した作風とも違う古来の「ロマンチシズム」に沿ったものに思える。ここではこの盤は極めて美しい。今は評価されるハンドレーだが昔はヴォーン・ウィリアムズなどお国ものを振ってさえ冴えない感じがあった。この楽章では奇麗にしずかにピアノを支えており、うねるようなロマンを持ち込まない節度を感じる。それが三楽章の「ヨブ」のような突然変節でやや派手さが足りないように感じられるのだが、ヴォーン・ウィリアムズの書いた響き自体は自然で依然美しいからそのまま聴いていられる。すると変容の末に二楽章のような天上の音楽になって消えゆくのである。この明るい上品さはヴォーン・ウィリアムズにしかないもので、だから敢えて濁るような音楽と錯綜させてみたのだろう、そこが同時代音楽との歩調合わせになり、バルトークの目にも止まったのかもしれない(フランス風の響きと民族音楽のエッセンスの融合はやり方は違えど遠くはない、ただこの話のソースを私は知らない)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番〜Ⅲ(部分)

2019年02月07日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ボールト指揮管弦楽団(gonzo)live・DVD

ヴォーン・ウィリアムズ初の伝記映画(テレビ)としてトニー・パーマー監督下放送された一時間余りの中に含まれる。gonzoのアカウントが最近YouTubeで公開した。この曲にはナレーション等が音も映像もかぶるが最初とクライマックスはしっかり鑑賞できる。ボールトがいつものように職人的に長い棒を振り回していくうちに、眼に涙が光ると言われたものだ。正直映像(カラー)に比べて音がステレオであまりに良く、聴いたかぎりその音も表現も晩年のLPOとの名演とほぼ同じだからちょっと疑問も感じるところがあるが、ただ元映像はしっかり振っているし弾いている、これをカラオケで当てはめる意味もないだろうからちゃんとしたものなのだろう。いずれにせよこのロマンツァが、第二次世界大戦の惨禍と平和な時代の追憶のために捧げられた限りなく切ない音楽というのはここでは否定されている。晩年の伴侶アースラ夫人との出会いと結婚の、幸福感を示したものであるように構成されている。アースラ(ウルスラと読んでいたがアースラと発音されるので正した)はRVWの指揮下でフルートを吹いていたが若干ダブりはあったようなものの病弱な前妻と入れ替わるようにその身を捧げた。いや、捧げたというよりディーリアスにおけるイエルカのように、相互作用により結果をより良いものにし、没後は作曲家の正しい意志を研究成果とともに整理し伝えることにつとめた(イエルカは死んだが)。年の差カップルだったから最近まで存命だったが、亡くなるまでヴォーン・ウィリアムズのCDが出るたびライナーを書き続けた。9番交響曲はコッツウォルズを描いたもので所謂第九ではないのだ、十番の準備もしていたという説明は有名だろう。私はもちろん異論を持っているが、少なくとも存命の誰よりヴォーン・ウィリアムズに詳しいかただったのだから尊重はすべきだし、じっさい後年はすべて一人で書いていたわけではなくアシスタントや専門外注作曲家にオーケストレーションの助力を頼んだりもしており、耳が聴こえづらくなってからはよりその比重は高まったはずで、アースラの手も、またアースラのアイデアなどを取り入れていたことは恐らく正しいのだろう。カラフルで立体的な音楽はこの5番以降に始まる。それは晩年でありアースラとの日々でもある。この映像を、ほんの短い全編の一部であるが(いつか全曲観たいものだ)編集された伝記の中に見ると、ローカルな志向の強い老作曲家が核戦争後の地球だのなんだの考えていたとは思えなくなる。そんな考えより、身近な人を愛することを描いたほうが届くものが書ける。ヴォーン・ウィリアムズはそういう作曲家だったのだろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲

2019年02月06日 | リムスキー・コルサコフ
ストコフスキ指揮CSO(vai)1962/1/3放送live・DVD

視覚的にはストコフスキーのものがいちばん期待できる。だが少し古すぎたか、ぼやけている。カメラワークは後年のカラヤンを思わせる「もの」で映画的なものが好きな人は見応えあるだろう。併録のヒンデミットのへっぽこテレビカメラより格段にプロだ。曲はソロの数珠つなぎだけにカメラマンの腕がなる。そして音があまりにストコフスキーで、笑ってしまった。最初の玩具のような音(録音機性能含め)!しかしそれは高音を極端に重視し派手で拡散的な音響を志向するからで、その独特の効果は認めねばならない。スネアとピチカートと開放弦打音の瑞々しさ!木管、ハープのフランスのような雰囲気…案の定精度は下がり、他の指揮者の映像に比べてすこし耳のレベルを落とさないと聞いてられない箇所はあるが、慣れるとこのプラスマイナス引っくるめて一つの芸術とかんじられる。コンマスはじめソロの技巧的な演奏は、オケより重視されているように見える。ソロに合わせてオケをドライヴする!曲がそうなのかもしれない。それにしても、ヒンデミットの地味なドイツ臭い音と、このハデハデなフィラデルフィア臭い音の差といったら。リムスキーはこっちのほうが向くかな。奏者は明らかにこちらのほうがノッている。ラストでは血沸き肉踊るでしょう。ストコの指揮は背筋が伸びて地味ですよ。白髪の老人はこのあとまだ十年以上振り続ける。静止画で終わるが無観客か。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームス:大学祝典序曲

2019年02月06日 | ドイツ・オーストリア
ヒンデミット指揮CSO(vai)1963/4/7放送live・DVD他

ドイツの指揮者(作曲家)なんだなー、といまさら思う。音響が重く、打ち付けるようなアタックを好む。録音のせいで音が軽いのはともかくこれは生来の音感覚の問題だ。ヒンデミットのブラームスはたぶん、我々がやるよりずっとブラームスである。計算と技巧で作る細工物ではない、ナチュラルに組み立てる民族音楽なのだ。かといってこれはイメージするようなドイツのブラームスでもない。まるで乾燥している。ブラームスらしい赤銅色の音もでない。しかしただ音楽は激しいリズム表現をもって自ずと突き進み、数々の聞かせどころにさほど拘泥せず、ただ古典的均整のうちに進んでいく。それこそいかにも体臭なのである。フルトヴェングラーと書くと即炎上するので書かないが、シリングスなど界隈の匂いを感じるのである。敵だけど。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルックナー:交響曲第7番〜Ⅰ.

2019年02月06日 | ドイツ・オーストリア
ヒンデミット指揮CSO(vai)1963/4/7放送live・DVD他

クレンペラーが代役に使っておいて後で酷評したのはこの曲だったか。ブルックナーは人を選ぶ、細部にロマンティックにこだわらない巨視的な指揮者のほうがスケール感に欠ける即物的な指揮者よりメリットあるだろうし、クレンペラーでは相手が悪い。だがヒンデミットは最初こそ即物性がかんじられるが、指揮や身振りに感情が隠せなくなる。ヒンデミットのこの曲はライヴCDもあるが、映像で見るまでもなくかなりロマンティックだ。表情付けはワグナー的と思う。フレージングになめらかさはなく無骨さが目立つが、細かく情感を出そうという意図は伝わる。ハーモニーの調和や変化の捉え方は的確で、プロフェッショナルだ。この点はクレンペラーより上なのではないか。派手なところでの身振りを引きの絵で捉えているが、バーンスタインと言えよう。しかし、そのまま奏者を映さずパイプオルガンにズームインしていく不可解なテレビカメラはなんとかならないものか。CSOは素晴らしく応えている。客席反応はまあまあではないか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒンデミット:弦楽器と金管楽器のためのコンサート・ミュージックop.50

2019年02月06日 | ドイツ・オーストリア
作曲家指揮CSO(vai)1963/4/7放送live・DVD他

VHSでも持っていたが抱き合わせで買ってみた。画質はこの盤の中では良好な白黒である。ただ音質は少しノイジーで万全とは言い難い。平易な聞き心地に反し難度は高く、始めのうちは弦が上ずったり金管楽器がこけたり結構やばげ。削ぎ落とされた音響で織り上げる合奏協奏曲的なアンサンブルを楽しむもので、シカゴをもってしてもこれか、と思うが、割とすぐ安定するので良い。ブラスのソロにしばしば超長い音符を吹かせるので、それが下支え音響にすぎないところではキツそうな雰囲気は出るが、ヒンデミットでも後年の作風というか新古典的なスタイルを堅持してバルトーク並みには聴きやすく、ジャズのカリカチュアのようなラッパなどの走句にしても視覚的にはまったくコンサート・ミュージックの一部で特にジャズも何もない捌かれぶり、こういうのは見てはじめて真意がわかることだろう。ヒンデミットの指揮はしなやかでキビキビと達者。顔つきは厳しく晩年らしく威厳すらある。クレンペラーが揶揄するようなおかしさは皆無だ。ちょっと整えたような演奏ぶりは構造的な曲的には仕方なく、ただシカゴのパワーがなんとかラストまで持っていっている。この曲ならまあまあではないか。ただカメラワークは最悪だ!(スリリングなアンサンブルがほとんど見えない)客席反応はパラパラ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする