湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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評論の美学とかなんとか

2008年02月01日 | Weblog
暴言言いっぱなしエセ評論ブームがやまって、当時忌まれていた美文系評論が戻ってきているみたいだ(ネットは知らん)。分析系評論、文学史学系評論みたいな学術の多少息かかったものは下調べの労が省け純粋に知識だけでも楽しめる。

評論は文学だ。中身がなくてもエッセイとして、更に上級なかんじの随筆として読めるものは金払う価値がある、評論の理想とすべきものだと思う。昔の評論は全部とは言わないもののそうだった。評論はしょせん個人的な好き嫌いの正当化のための根拠陳列行為にすぎないが、一般的に説得力を得ているのが必ずしも理詰めに正しい評論だけではないのもまた事実である。個の確立した醒めたマニアにとっては、理詰めのつまらぬエセ論文よりも、暴論だろうが音楽にかぎらず広い周辺知識や実経験を駆使して読み応えある読み物として仕立てられた評論のほうがよほど面白い。U氏K氏は結局そこで生き残っているのだろうと個人的には思う。

昔は情報が限られていたから、文章技術で読ませることに力を注いでいたということもあるかな。大田黒元雄氏や吉田秀和氏は音楽以外の随筆も数多い。文芸として評論をとらえるならば、広く文芸をものすることなくただヲタク的に音楽だけを文論するのはナンセンスで、ムック本による暴論ブームのころの有象無象の俄か音楽ライターさんたちの問題はひとえにそこにあったんだと思った。生理的に受け付けなかったのはそこなんだな。

ただ前も書いたけど、ちょっと気になるのが、相変わらず否定系の評論が多いことだ。評論は極端でなければならない、アクの強い人間の書くものほど面白い。これは評論系ライターの不文律であり事実そうである。生温い話は誰でもできる、隣の人とでもすればいい。

ただ肯定系の評論は未知のものへの興味を喚起してくれる未来志向なものだが、否定系の評論は基本的に可能性を閉ざすものである。矛盾するようだが、否定系の評論については説得力ある根拠提示が多少とも必要で、たんになんとなく嫌いとかいうことであれば、その程度の感想であることをわからせなければならないのではないだろうか。そこを文章力で読み通させてしまうことになると、個の確立していないリスナーに洗脳的な先入観を植え付けてしまうことになり、後々いい結果につながらないと考える。長々とまったく別のことを書いて、最後にひとこと、「大した演奏ではない」と断定してしまうやつね。寸評とも言えない。そこまでの過程でノってる読み手は、こんな文章書く人にはあらがえない的な感覚で受け容れてしまうだろう。「今の私には受け付けられなかった」じゃあ、評論文にならず却下されるからというお家の事情はわかるんだけど、プロなんだからそこは。こんなの、評論文のテクニックじゃなくてたんに手抜きだ。

多少とも評論でおアシをもらっている連中はそのへん考えないとなあ。音楽のために。

ただし、タダ情報なら自由。無料情報に振り回される連中は金を出さないから、金の欲しいジリ貧クラ系音楽になんの得ももたらさない。勘違いしては駄目。
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2 Comments

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ロマン・ロラン (田豊)
2008-02-03 15:44:16
小林秀雄を例に出さずとも(リトル版として秀和ちゃんがいるから)、評論とはそれ自体文学のジャンルとしてしかるべき芸術であるということですね。

次にもっぱら美学とか音楽学というジャンルから科学的分析を加えて評価を行う、論文の類、これはもちろんそれ自体芸術的所為ではないけれど対象とするものが何ゆえ「芸術」であり、又はその程度は低いのか、どう解釈するのが「自分の立場から見て」正当であるのかを証明するので、まあ他人が見てもあまり面白くなかろうと思われるのですが、コネケンさんなんか結構面白い。

盤鬼の方のように、ひたすら盤の具合、録音の巧拙を評価するのもそれなりの見識と思っています。(結構、好き嫌いもいうけれど、それは無視して)

レコード広告を評論と称する向きもありますが、これは否定はしたいけれど映画の評論には結構このようなお方が目立ったりして、どうも無下に否定するのは心が狭いのかもしれない。

評論の美学とは、①文章の文学的芸性が極めて高い。②論文の学術的価値が高い又は、精緻であって努力賞はくれてやりたい。③その文章で販売を促進する効果がある。のいずれかがそれぞれに該当するのでしょう。④盤鬼の方は、盤の状態の評価というべきでこの類型から外れるのかもしれない。でもWF系統ではひたすらこの話題がずっと続いていて飽くことを知らない。

いや、御題を「評論は美学か」と見間違えてかき始めたのですが、途中でこれは違う方向に向かっているとは思ったのですが、お許しを。
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評論家という職業について評論すること (管理人)
2008-02-03 16:38:08
この話は何度も、サイトもしくはbbsとそれに準ずる各所で書いていたものですが、評論についてというより、職業評論家(職業に評論家と書いて営業行為を行っていたり、評論的行為もしくは売文により収入を持っている、という側面から見てあてはまる全ての人々・・・学術研究家から泡沫ライターまで含む)についてのもやもやを書いています。何故かこの話題って余り広がらないと言うか、同じような有名評論家の名前ばかりあがることが多かったんですが、有名人よりもよく知らない人のあやふやなライナーノートとか演奏や作曲などの別のプロ活動をしている人のエッセイ本的評論とかについて思うところは多くあります。

結局言いたいことは「音楽評論家は自分の影響力と音楽業界にもたらす結果を考えて書き方や内容にきちっと気をつけてほしい」ということですが、こう書いてしまうと当たり前の話になってしまいますねwまた、本文中にも書きましたが、評論を読む喜びって情報だけが欲しいというわけではないので、文章として面白くなければならないということは絶対あり、真摯な音楽芸術分野を対象としている以上、真摯な文学芸術として書かなきゃならない、ふざけて書きたいなら半端にふざけたものではなく大笑いさせなければならない、とか雑感しています。

書かれている分類をもっと整理するとけっこう音楽評論界って見やすくなるかもですね(美学という単語が入っていますが、この学術分野、私はじつはよくわからないというのが正直なところですが)。

専門の世界やマニア(本)の世界ではたぶんかなり整理されているのだと思いますが、狭義の定義はまず広義の枠を作ってから絞り込んでいくほうがいいと思いますので、個人的意見では、売文を行っている盤鬼や提灯ライターのたぐいまでは評論家としていいと思います。個人的趣味の文章にかんしては私はとりあえず評論に含めて考えていません。

そもそもこのブログ、歩きながら携帯で省き省き書いていることが多くて、しかし一部盤評を除き文章として(「論文」ではない)片手落ちにはしていないつもりですので、関連エントリ含め全部読み咀嚼してから反論等していただきたい、という観点で、ずれていると思われる書き込みを削除したりもしてきました。が、基本的に、カテゴリがweblogとなっているものは特に純粋に日記エントリですので、余り重く読まないでほしいのが正直なところです
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