小組曲(ビュッセル編管弦楽版)(原曲1888ー89)
◎ビュッセル指揮フランス国営放送管弦楽団(COLUMBIA/PATHE)1952:LP
ビュッセルは作曲家の友人(指揮、作曲)で、これはその指示を受けながらピアノ連弾の原曲より1907年管弦楽編曲されたもの。春のうららの平明で晴朗な曲感はわかりやすくきれいで、作曲家のオーケストレーションではないにも関わらず人気者。アマチュアでもよく取り上げられる。1楽章:小船にて、2楽章:行列、3楽章:メヌエット、4楽章:バレエ。対照的な楽章をはす違いに配し、いずれも小粒ながら旋律はきわめて明確でしっかりした形式感を持っている。ドビュッシーらしい冒険はまだ控えめだが、ビュッセルの施した水彩画のような色彩はこれが新しい時代の音楽であることを改めて認識させる。この演奏はそんなビュッセルの指揮だから軽やかで耽美的と思っていたが、意外と重量感があり、充実した響きにびっくり。ドイツふうだな、とさえ思った。オケの明るい音色からも、いわゆる鈍重な演奏になることはないのだが。奇矯な音を響かせるよりも全体の構成感を大事にしているようだ。そのため輪をかけて聞き易くなっているのは確かで、ちょっと違和感はあるもののこれが編曲者の意図だったのかとハッとさせられるところがけっこうある。ゆったりしたフレーズのニュアンス付けがロマンティックで情緒てんめんだが、弦が薄い?せいかあまり目立たない。バイオリンの旋律にはしばしばばらけたような音が混ざるが気にはならない。この時代でこの抜けのよい明晰な音であるということは紛れも無く優秀録音ということなのだが、私の手元の盤は傷多く雑音が多い。◎。この盤は高額なら手に入る可能性がある。ビュッセルは100歳以上も長生きし、1970年代まで健在だったが、指揮記録はごく古いものしかない模様。
○ビュッセル指揮コンセール・ストララム管弦楽団?(ANDANTE/columbia)1931/5/26・CD
急くようにつんのめり気味なのが時折気になるがこの無理したような速いテンポは収録時間の関係だろうか。ライナーには作曲家とビュッセルが連弾したさい、終楽章のテンポが異常に速かったという話がかかれている。新録より若々しいとも言える。素朴な音だけど作曲(編曲)時期に近いだけの生々しさがあり、とくに4楽章は荒さが味になっている。上手いオケではないが音や表現に実に雰囲気があるから、技術や音質にこだわりがなければ楽しめるだろう。ストララムは推定であり、原盤(SP)には交響楽団とだけ記載されている模様。パリ交響楽団と記載している資料もある。
コッポラ指揮管弦楽団(lys)1930/1
つんのめり気味のテンポがうーん・・・。録音が貧弱なのは仕方ないが、どうにも乱暴な演奏ではある。繊細で淡い色調に魅力のすべてがある曲だから、録音十字軍なこの人の演奏ゆえ無碍には扱えないが、それにしてもちょっと雑です。とくにリズム感の悪さが気になった。無印。
○アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOOR)SP
SP盤の傾向として収録時間の関係上回転数をやや上げてしまうことがあり、この盤もピッチがかなり高く演奏自体も速度感を強く感じることから元演奏とはやや異なったものとなっている可能性が高い。古い盤ゆえ聞きづらい面もあるがSPは基本的に雑音も多いぶん音が明晰なので、華やかな時代の古きよき情緒を感じさせる媒体としてはうってつけだ。ヴォルフは同時代音楽と非常に縁があり活動期間も長期にわたったが、肝心のパリ時代はSP時代であったゆえに復刻がスムーズにいっているとは言いがたい。一組復刻集が出たほかは単発で他の盤に一緒に収録されているのみである。
演奏だが颯爽として情緒的な揺れの無い指揮ぶりは周知のとおりである。ラヴェル向きの指揮者であり、ただこの演奏でも奏者側の情緒によってその不感性的な芸風が十分に補われており、ダイナミズムにも溢れ躍動感はなかなかのものである。録音の特異性をかんがみても性急すぎる感は否めないが、まずはオケの噎せ返るような音に耳を傾けよう。また書くかもしれない。○。
○アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(WING)
○マルティノン指揮ORTF(EMI)
大仰な表情付けのマルティノン版「行列」をきくと違和感もおぼえるものの、「展覧会の絵」宜しくこれをビュッセル作品とみるなら、典雅で爽やかな佳品といえよう。舞曲の瑞々しさは白眉だが、いくぶんマスネーふうの香りをのこす。効果的だが常套的オーケストレイションは、合理性より哲学性や実験性を重んじる(結果は賛否あるが)ドビュッシーという怪物のものにしては、”引っかかり”がないけれども、耳触りの良さで人気曲のひとつとなっている。新大陸を”発見”したコロンブスのように、全音音階の”発見者”とされるドビュッシーの、若き模索時期・・・80年代とくに前半のドビュッシー初期作品、通常触れる機会はまず無いだろう。ワグネリアンであり、ムソルグスキー&チャイコフスキー+ジャワのはからずも使徒?であった時代の作品、店頭で見つけられる盤もあんまり無い。手元にあるものでいうと80年代中盤から後半・・・交響組曲「春」(非常に”微妙な”バランスのまさに過渡期作品・同名で歌の作品もあるが未確認)、ローマ賞のカンタータ「放蕩息子」(ストラヴィンスキーじゃない)、同「選ばれしおとめ」(私はこの曲、牧神以上に買っている)・・・その他歌曲(「忘れられた小歌」は86ー88年作品)はおびただしくあるが、個人的に苦手(フランス語できない)ゆえ余り聞いていない。歌曲はこのさい一寸省かせていただくと、「メック夫人のガキを教えていたころ、学生の芸術脳は何を画策していたのか?」・・・マラルメを窓(ウィンドウズ)として象徴主義哲学を植え付けられていたのだろう(検証はしてません。予め間違ってたらごめんなさい)。となると、さしずめビル・ゲイツ?・・・わけがわからない脱線マニア冗談はさておき、ドビュッシーは音楽専門バカーではなかった。もっと汎的な芸術の流れの上に自ずの才能を開花させたのは明白だ。アカデミズムの音楽専門バカーに反目しつつも有無を言わせぬ才能を見せ付ける上で、徐々に徐々に個性を開示していったのだろう。
なんでこんな話しをするのかというと、手元にドビュッシー初期についての2つの資料がある。ひとつは恐らく録音もされているが、1880年(18歳)の作品、ピアノ三重奏曲の楽譜。もうひとつは1880年より81年に手を付けて完成しなかった作品、交響曲ロ短調のCDである(ピアノ版)。これらはほぼ同じ時期、音楽史上に名を残す大パトロン・メック夫人との、怪しい?カンケイの最中?に編み出されたものだが、雰囲気が違う。トリオ1楽章を例に挙げれば、非常に微細で非論理的な転調・・・たんに一度(or半音)上げて、あいまいなうちに戻るとか、プロコフィエフのような突然のオクターブ上昇、チャイコフスキー張りのシャープ/フラット記号の集中、美しく新鮮な分散和音の挿入など・・・や、後年の新鮮な典雅さを予感させる音形・・・二ないし四分音符+八分音符を巧みに交叉させた、小節線を跨ぐ一寸妙なリズム感覚、そこへ突如気まぐれに紛れ込む・・・春の花びらの窓から舞い込むように・・・十六分音符たちの流麗さ、ウン・ポコ・ラレンタンド(103~)での緩やかな二拍三連はディーリアス作品のような夢見る動き、アレグロ・アパッショナートの再現(174~)直前の全ての八分音符にアタックの付いた力強い下降音形はチャイコフスキー的だが、 210からのヴァイオリンの昇降する分散和音は、バッハの昔のそれではなく、のちの弦楽四重奏曲などを思わせる現代的なロマンスが有る。そのあとも 3楽章すべて一応完成されているが、気まぐれな感性の奔放さが見られ、全てのリーフに独自の感性の片鱗が伺える。分析的に見れば既に怪物ドビュッシーの顕れた面白い曲と感じることができよう(感動面では真×の可能性あり、そういう曲)。
さて一方の交響曲、単一楽章の断片だけだけれども、「これっていつの作品?」と戸惑うほどなのだ。この息の長い旋律、ひょっとしてラフマニノフ幼児期の作品・・・?白眉といえば白眉(二つの旋律がいかにも初期ドビュッシーの品の良い美感に溢れている)の中間部レントでは微妙にずらした不協和音が織り交ざり、幻想曲などを予感させるが、よほど注意しないとわからないだろう。やっぱり第一印象は、やけに明るく透明感の有るチャイコフスキー・・・「灰汁抜き」されたロマン派音楽。「旋律が全て」。冒頭アレグロ、憂愁の主題がひたすら律義に繰り返し展開。 2楽章ともされる緩徐部が瞬く間に過ぎて、”3楽章”プリモ・テンポでは勝利への闘いが再燃(笑)、憂愁の主題は勇壮の主題となって大団円。旋律が全て。耳をひかない旋律では決して無いが、あからさまで、僅かも旋法的でなく、ドビュッシーらしくない。フレーズ途中で繊細な転調をおこなうといった、トリオにみられる機知が無い。よーく聴けば、小節線を跨ぐフレーズ間の有機的な繋ぎ方や、微妙な転調(トリオ同様)が優雅で軽やかな雰囲気をもたらし、”フランスっぽく”もある。有機的に伸縮する旋律構造に、前記トリオに通じる個性も垣間見えよう。繰り返しになるが良い旋律をもっているし品の良さもあるものの、連弾版でなくKOCHの管弦楽編曲(フォルドナー)できくと特にそうなのだが、聴後何か足りない気がするのだ。同盤は管弦楽といっても2手分のみを小編成の管弦楽配置した、いかにも教科書的なピアノ協奏曲風編曲なのだがシカゴ交響楽団のすこぶる名技(ソロヴァイオリンの美音には驚嘆)に支えられているから聴けるものの、これが啓蒙指揮者のやみくもなオケによる盤だったらどうなっていただろう。 ”3楽章”冒頭の度肝を抜くホルン斉唱(マーラーかこれは?)などオケがオケならほんとにロシア音楽だ。これは編曲の問題だが。
さて、この作風の違い、謎である。作曲動機等調べればカンタンなことかもしれないが、後の楽しみにとっておく。音楽の楽しみの一つに、じっくり謎を追求することが有る。安易に答えを求めては台無しだ。別記した幻想曲や小組曲くらいの頃になると、特徴的なリズム・音形(ピアノならともかく弦は弾きづらいんだこれは)、明るみ、軽やかさ、音楽ではないと揶揄される寸前もしくは寸後の調性感覚が、しかし明瞭な旋律性(抜群に耳触りが良く、サン・サン(サン・サーンスですって、わかってますそんなこと)程度には尖鋭)とあいまって独自のサロン風世界を形作り、おネエ様方を喜ばせる機知に富むようになる。ところが余り間をあけず、さらに一歩進め、「媚び」を完全廃止した記念碑的作品「牧神の午後への前奏曲」(1892-4)ではもう語法の完成された個性ドビュッシーが屹立してしまう。この10年にも満たない期間の瑞々しい音の小宇宙は閉ざされたままとなった。そこで止まっても充分音楽辞典に名を残すくらいにはなれただろうに。ここでヴォーン・ウィリアムズの言葉を思い出す。「彼はしようとしてしたわけではない。彼にはそうするしかなかったのだ」。いやはや、凄い作曲家だ。この人ひとりの才覚で何人の作曲家を創り出せただろう。(賛美おわり)
アンゲルブレシュトはロマンティックな濃厚さが漂う「らしくない」演奏。面白いし聴ける演奏だ。なによりパス・デ・ループ(パドルーですって、わかってますそんなこと)の、優しく、色の有る管楽の表現が救いとなっているものの、終始重いテンポ、存外重厚なハーモニー、凡百指揮者のような刹那恣意の挿入には、違和感がある。若かったのだろう。悪いことを書いてしまったが、「音の取りまとめにおける客観性」・・・これは言葉で説明しづらいのだが、融合させすぎず(ちんまりした堅い塊になってしまう)バラバラにもならず(アマオケ状態)の絶妙な間合い、とにかく後年の解釈の萌芽は見えるので、ファンは一聴されてもまあいいではないでしょうか。マイナーだが日本盤ですし。SPの直復刻、さらさらしたホワイトノイズが聴きやすく、併録のマザー・グース(マ・メール・ロアですって、わかってますそんなこと)のブチブチ雑音より数倍聴きやすい。分離もいい方。総じて遠距離感(暗闇で遠くの窓から美しい光景を垣間見ている気分、「マルコヴィッチ」的かも)ある茫洋とした記録ではある。
対照的な新しい録音としてあげたマルティノンは光に満ちたオケが最高だが、少し重い。ルーセルを得意としただけあって舞曲表現は浮き立ってきこえるがちょっと録音気張りがあるように感じた。同盤ききどころは実はキャプレ編曲の「子供の領分」組曲で、改めていつか書こうと思うが、ピアノのそれとは全く別の曲と見た場合、素晴らしい名曲。際物に対する意外感覚がいつしか別個の感傷を呉れた。キャプレ独特の世界である(これも冒頭言ったとおりドビュッシーの曲ではなくキャプレの曲と聴くのが正しい)。ヴォーン・ウィリアムズやイベールなどの名曲に匹敵する眩いばかりの美しい曲。・・・ゴリウォーグのケークウォークを除けば。あれはいくらなんでも。
アンセルメ指揮パリ音楽院管弦楽団(LYS・DANTE・RADIO FRANCE)1948
どうもイマイチだ。オケの集中力が散漫で技術的にもあやふや。アンセルメも「ならでは」の色薄く、盛り上がらない。つまらない。録音も悪くて牧歌的な雰囲気が損なわれている。無印。
○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1961/2・CD
ちょっと重いか。もっと颯爽として軽い曲である。編成が大きすぎるのか?こんなに稀有壮大にやられるとマルティノンの正規録音もそうだが「キッチュなほど」大げさに聞こえてしまう。太鼓とかあんまりとどろかせないでほしいなあ。それでいて印象にも残らない。スピードもやや遅い。しかし現代の水準からしても十分通用する技巧レベルから○。
◎パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1959/4・CD
リズミカルな演奏で、明瞭な輪郭の音楽に素直なよろこびが込められている。2楽章のトライアングルが溌剌としていていい。1楽章の喜遊的な雰囲気をさらに盛り立てている。とにかくリズム感がいい。 フレージングも統一され、かと言ってフレージングにテンポが振り回されることはなく、フランス音楽というものをよくわかった人が振っているな、と感じる。最後の上向音形で音をひとつひとつ切りつめていたのはこの人のリズム重視の姿勢が端的に伺えて面白い。3楽章も早めのテンポで明るい色彩を失わない。色とりどりのカラフルな音楽にはビュッセルの職人的な編曲の才が光っている。バレエはもうパレーを楽しんでください、と言った感じ。速い速い。嫌が応にも気分を高揚させられる。踊りの音楽として微妙な揺らしが入るのもポイント。音色にやや独自色が無い感も受けるが元の曲がうまくできているのでこれはこれでいいと思う。楽しい。
○チェリビダッケ指揮ベルリン交響楽団(ARLECCHINO)1949/5/5LIVE
ピッチが高すぎる!いくらなんでもこれは違和感の1楽章。2楽章以降はけっこうリズミカルだし、何より正確でひびきが良いのがいい。ドビュッシズムを理解しているとは思えないが、これはチェリズムの既にして完成されたスタイルをはっきり示している。透明感が肝心の曲だがその点でチェリは最適の指揮者、くぐもった重心の低い音響が持ち味のベルリン響に柔和で繊細な味を加えている。ただ、録音悪すぎ。4楽章などライヴらしいグルーヴ感がかなりいいのだが、○止まりです。
○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)LP
ステレオ。しょっぱなからいきなり恍惚としたテンポにのけぞる。何というロマンチシズム!それが4楽章の緩徐部にいたるまで続くのだ。コンドラシンらしい前進性は4楽章のワルツ主題にしかあらわれず、それも音のキレだけで、テンポはかなり穏やかだ。意外と色彩的な広がりは好録音ゆえのことだとは思うが、かなりガウク的なフランスものであり、万人向けでもコンドラシンマニア向けでもない。個人的にはロマンチシズムはアリ。○。
~Ⅰ.小舟にて
レイボヴィッツ指揮パリ・コンサート・ソサエティ(音楽院)管弦楽団(CHESKY)1960/6
うーん、この曲は素直なだけに難しい。ただ旋律を流すだけでいいというものではなく、牧歌的な雰囲気を単純な構造の中にどうやって持ち込んでいくか、という点が難しい。フルートの音色にもっと柔らかい抒情が欲しいし、木管全般にもっと繊細さが欲しい(無茶言ってますが)。弦もちょっとクリアすぎる。これは録音のせいかもしれない。無印。
○ビーチャム指揮?(DA:CD-R)1943/7/6ArmedForcesConcert・放送live
「コンサートホールオーケストラ」の客演記録。異常にデロデロしたロマンティックな起伏ある解釈の施された演奏で、ロシア式解釈の一種趣すらある。オケも前時代の演奏様式を引きずるような感傷的なフレージングに音色で曲のあからさまな魅力の素直な反映を示している。ビーチャムはときどきこの曲をやっていたが、ここまでロマンティックなものは聞かない。私は面白かった。ビーチャムだからそれでも、爽やかで仄かなのだ。
~Ⅰ、Ⅳ
○ビーチャム指揮ビーチャム交響楽団(SYMPOSIUM)1918・CD
かなり意外なことにずいぶんとクリアで生々しい音だ。木管がド前に出ていて非常に聴き易い。とはいえ古い録音に慣れないかたには薦められないが、ビーチャムとは思えぬ恣意的な解釈(シンバルの強調とか極端なテンポ・ルバートとか)が入り、しかしそれがまた程良い個性となって自然に耳に入ってくる。是がまたいいんです。軽く透明感があり品の良い派手さに浮き立つ音楽性には、フランスものがやっぱりあっている。ひょっとするとディーリアスのくぐもりよりもこっちのほうがあっているのではないか、と個人的には思うくらいフランス音楽になっているこの演奏、◎にしたいが録音マイナスで○にしておく。いい。
~Ⅳ.バレエ
○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(DUTTON/CBS)1940/12/16・CD
以前書いたラプソディと一緒に録音されたもの。NYPらしいしなやかな表現力が駆使され、バルビらしい歌謡的な流れを重厚に彩っている。この曲の演奏としてはまさに特異で、ロマン派そのもの、ウィンナー・ワルツすれすれの舞曲表現に驚かされると共に意外とすんなりハマって聴くことができる。スウィング、スウィング!バルビにしかできない揺れまくり(でもスタジオ録音だからそれほどズレない(全くとは言わない))の演奏、3分強と短いが一聴価値あり。復刻添付残響がややうざいが聴き易いことは聴き易い。全曲聴きたかった。○。このアルバムはNYP版のラ・ヴァルスなんかも入っている(が、この曲のほうが演奏的には楽しめる)。
(ヴァイオリンとピアノ編)
~Ⅰ.小舟にて
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live
板起こし。個人的にはこの日の雑多なプログラムの中で一番惹かれたもので、性急な表現になってしまいがちなその他の曲にくらべ平坦でのっぺりとしており、ほっと落ち着くのである(しかし聴衆反応はどの曲でも判で押したように大喝采だが・・・)。編曲がかなり簡素で検証はしていないが恐らく原曲のピアノ連弾をそのままヴァイオリンとピアノに分け持たせただけだろう。ヴァイオリンにとってこういう音数の少なく要求表現の幅の小さい曲は難しい。逆にソリストの技量が試される。その点クリモフは高音の伸びがいまいちというか、長い音で音程が不安定になるところが気になった(ただ板起こしのため原盤が歪んでしまっているだけかもしれない)。でもそれくらいで、違和感しきりの編曲であるにもかかわらず、ほんわかした。何じゃこの感想。○。
(オレネフ独奏編)
○スヴェトラーノフ(p)(MELODIYA)
独奏用の編曲。妙に軽く、ちょっと変な感じの編曲だ。いくらなんでも二手では違和感は拭えないか。旋律の盛り上げかたはスヴェトラそのもの、これが管弦楽だったらさぞアクの強い演奏になったろう、というような演奏。音色はあいかわらずぶっきらぼうだが、弱音部の陶酔的なテンポの落とし方など専門ピアニストじゃ絶対やらないだろう。ふつうは絶対やらないことをしているからスヴェトラは面白いのだ。曲には違和感しきりだが、一歩一歩踏みしめるような表現は耳を惹く。ピアノ独奏ならではの崩しかた、なかなかです。
(原曲)
ベロフ、コラール(P)(EMI)1982/4
ちょっと力強すぎるか。余りに明確でハリキリすぎてる気がする。単純な曲だし、力を入れる必要はないのだから、もっと詩情を前面に打ち出したほうが曲想にあっている気がする。どうもこの曲は管弦楽で弾いてはじめて知ったもので、ピアノのスカスカな響きには違和感がある。。無印。但し終楽章は明るく溌剌としていていい。
◎ビュッセル指揮フランス国営放送管弦楽団(COLUMBIA/PATHE)1952:LP
ビュッセルは作曲家の友人(指揮、作曲)で、これはその指示を受けながらピアノ連弾の原曲より1907年管弦楽編曲されたもの。春のうららの平明で晴朗な曲感はわかりやすくきれいで、作曲家のオーケストレーションではないにも関わらず人気者。アマチュアでもよく取り上げられる。1楽章:小船にて、2楽章:行列、3楽章:メヌエット、4楽章:バレエ。対照的な楽章をはす違いに配し、いずれも小粒ながら旋律はきわめて明確でしっかりした形式感を持っている。ドビュッシーらしい冒険はまだ控えめだが、ビュッセルの施した水彩画のような色彩はこれが新しい時代の音楽であることを改めて認識させる。この演奏はそんなビュッセルの指揮だから軽やかで耽美的と思っていたが、意外と重量感があり、充実した響きにびっくり。ドイツふうだな、とさえ思った。オケの明るい音色からも、いわゆる鈍重な演奏になることはないのだが。奇矯な音を響かせるよりも全体の構成感を大事にしているようだ。そのため輪をかけて聞き易くなっているのは確かで、ちょっと違和感はあるもののこれが編曲者の意図だったのかとハッとさせられるところがけっこうある。ゆったりしたフレーズのニュアンス付けがロマンティックで情緒てんめんだが、弦が薄い?せいかあまり目立たない。バイオリンの旋律にはしばしばばらけたような音が混ざるが気にはならない。この時代でこの抜けのよい明晰な音であるということは紛れも無く優秀録音ということなのだが、私の手元の盤は傷多く雑音が多い。◎。この盤は高額なら手に入る可能性がある。ビュッセルは100歳以上も長生きし、1970年代まで健在だったが、指揮記録はごく古いものしかない模様。
○ビュッセル指揮コンセール・ストララム管弦楽団?(ANDANTE/columbia)1931/5/26・CD
急くようにつんのめり気味なのが時折気になるがこの無理したような速いテンポは収録時間の関係だろうか。ライナーには作曲家とビュッセルが連弾したさい、終楽章のテンポが異常に速かったという話がかかれている。新録より若々しいとも言える。素朴な音だけど作曲(編曲)時期に近いだけの生々しさがあり、とくに4楽章は荒さが味になっている。上手いオケではないが音や表現に実に雰囲気があるから、技術や音質にこだわりがなければ楽しめるだろう。ストララムは推定であり、原盤(SP)には交響楽団とだけ記載されている模様。パリ交響楽団と記載している資料もある。
コッポラ指揮管弦楽団(lys)1930/1
つんのめり気味のテンポがうーん・・・。録音が貧弱なのは仕方ないが、どうにも乱暴な演奏ではある。繊細で淡い色調に魅力のすべてがある曲だから、録音十字軍なこの人の演奏ゆえ無碍には扱えないが、それにしてもちょっと雑です。とくにリズム感の悪さが気になった。無印。
○アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOOR)SP
SP盤の傾向として収録時間の関係上回転数をやや上げてしまうことがあり、この盤もピッチがかなり高く演奏自体も速度感を強く感じることから元演奏とはやや異なったものとなっている可能性が高い。古い盤ゆえ聞きづらい面もあるがSPは基本的に雑音も多いぶん音が明晰なので、華やかな時代の古きよき情緒を感じさせる媒体としてはうってつけだ。ヴォルフは同時代音楽と非常に縁があり活動期間も長期にわたったが、肝心のパリ時代はSP時代であったゆえに復刻がスムーズにいっているとは言いがたい。一組復刻集が出たほかは単発で他の盤に一緒に収録されているのみである。
演奏だが颯爽として情緒的な揺れの無い指揮ぶりは周知のとおりである。ラヴェル向きの指揮者であり、ただこの演奏でも奏者側の情緒によってその不感性的な芸風が十分に補われており、ダイナミズムにも溢れ躍動感はなかなかのものである。録音の特異性をかんがみても性急すぎる感は否めないが、まずはオケの噎せ返るような音に耳を傾けよう。また書くかもしれない。○。
○アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(WING)
○マルティノン指揮ORTF(EMI)
大仰な表情付けのマルティノン版「行列」をきくと違和感もおぼえるものの、「展覧会の絵」宜しくこれをビュッセル作品とみるなら、典雅で爽やかな佳品といえよう。舞曲の瑞々しさは白眉だが、いくぶんマスネーふうの香りをのこす。効果的だが常套的オーケストレイションは、合理性より哲学性や実験性を重んじる(結果は賛否あるが)ドビュッシーという怪物のものにしては、”引っかかり”がないけれども、耳触りの良さで人気曲のひとつとなっている。新大陸を”発見”したコロンブスのように、全音音階の”発見者”とされるドビュッシーの、若き模索時期・・・80年代とくに前半のドビュッシー初期作品、通常触れる機会はまず無いだろう。ワグネリアンであり、ムソルグスキー&チャイコフスキー+ジャワのはからずも使徒?であった時代の作品、店頭で見つけられる盤もあんまり無い。手元にあるものでいうと80年代中盤から後半・・・交響組曲「春」(非常に”微妙な”バランスのまさに過渡期作品・同名で歌の作品もあるが未確認)、ローマ賞のカンタータ「放蕩息子」(ストラヴィンスキーじゃない)、同「選ばれしおとめ」(私はこの曲、牧神以上に買っている)・・・その他歌曲(「忘れられた小歌」は86ー88年作品)はおびただしくあるが、個人的に苦手(フランス語できない)ゆえ余り聞いていない。歌曲はこのさい一寸省かせていただくと、「メック夫人のガキを教えていたころ、学生の芸術脳は何を画策していたのか?」・・・マラルメを窓(ウィンドウズ)として象徴主義哲学を植え付けられていたのだろう(検証はしてません。予め間違ってたらごめんなさい)。となると、さしずめビル・ゲイツ?・・・わけがわからない脱線マニア冗談はさておき、ドビュッシーは音楽専門バカーではなかった。もっと汎的な芸術の流れの上に自ずの才能を開花させたのは明白だ。アカデミズムの音楽専門バカーに反目しつつも有無を言わせぬ才能を見せ付ける上で、徐々に徐々に個性を開示していったのだろう。
なんでこんな話しをするのかというと、手元にドビュッシー初期についての2つの資料がある。ひとつは恐らく録音もされているが、1880年(18歳)の作品、ピアノ三重奏曲の楽譜。もうひとつは1880年より81年に手を付けて完成しなかった作品、交響曲ロ短調のCDである(ピアノ版)。これらはほぼ同じ時期、音楽史上に名を残す大パトロン・メック夫人との、怪しい?カンケイの最中?に編み出されたものだが、雰囲気が違う。トリオ1楽章を例に挙げれば、非常に微細で非論理的な転調・・・たんに一度(or半音)上げて、あいまいなうちに戻るとか、プロコフィエフのような突然のオクターブ上昇、チャイコフスキー張りのシャープ/フラット記号の集中、美しく新鮮な分散和音の挿入など・・・や、後年の新鮮な典雅さを予感させる音形・・・二ないし四分音符+八分音符を巧みに交叉させた、小節線を跨ぐ一寸妙なリズム感覚、そこへ突如気まぐれに紛れ込む・・・春の花びらの窓から舞い込むように・・・十六分音符たちの流麗さ、ウン・ポコ・ラレンタンド(103~)での緩やかな二拍三連はディーリアス作品のような夢見る動き、アレグロ・アパッショナートの再現(174~)直前の全ての八分音符にアタックの付いた力強い下降音形はチャイコフスキー的だが、 210からのヴァイオリンの昇降する分散和音は、バッハの昔のそれではなく、のちの弦楽四重奏曲などを思わせる現代的なロマンスが有る。そのあとも 3楽章すべて一応完成されているが、気まぐれな感性の奔放さが見られ、全てのリーフに独自の感性の片鱗が伺える。分析的に見れば既に怪物ドビュッシーの顕れた面白い曲と感じることができよう(感動面では真×の可能性あり、そういう曲)。
さて一方の交響曲、単一楽章の断片だけだけれども、「これっていつの作品?」と戸惑うほどなのだ。この息の長い旋律、ひょっとしてラフマニノフ幼児期の作品・・・?白眉といえば白眉(二つの旋律がいかにも初期ドビュッシーの品の良い美感に溢れている)の中間部レントでは微妙にずらした不協和音が織り交ざり、幻想曲などを予感させるが、よほど注意しないとわからないだろう。やっぱり第一印象は、やけに明るく透明感の有るチャイコフスキー・・・「灰汁抜き」されたロマン派音楽。「旋律が全て」。冒頭アレグロ、憂愁の主題がひたすら律義に繰り返し展開。 2楽章ともされる緩徐部が瞬く間に過ぎて、”3楽章”プリモ・テンポでは勝利への闘いが再燃(笑)、憂愁の主題は勇壮の主題となって大団円。旋律が全て。耳をひかない旋律では決して無いが、あからさまで、僅かも旋法的でなく、ドビュッシーらしくない。フレーズ途中で繊細な転調をおこなうといった、トリオにみられる機知が無い。よーく聴けば、小節線を跨ぐフレーズ間の有機的な繋ぎ方や、微妙な転調(トリオ同様)が優雅で軽やかな雰囲気をもたらし、”フランスっぽく”もある。有機的に伸縮する旋律構造に、前記トリオに通じる個性も垣間見えよう。繰り返しになるが良い旋律をもっているし品の良さもあるものの、連弾版でなくKOCHの管弦楽編曲(フォルドナー)できくと特にそうなのだが、聴後何か足りない気がするのだ。同盤は管弦楽といっても2手分のみを小編成の管弦楽配置した、いかにも教科書的なピアノ協奏曲風編曲なのだがシカゴ交響楽団のすこぶる名技(ソロヴァイオリンの美音には驚嘆)に支えられているから聴けるものの、これが啓蒙指揮者のやみくもなオケによる盤だったらどうなっていただろう。 ”3楽章”冒頭の度肝を抜くホルン斉唱(マーラーかこれは?)などオケがオケならほんとにロシア音楽だ。これは編曲の問題だが。
さて、この作風の違い、謎である。作曲動機等調べればカンタンなことかもしれないが、後の楽しみにとっておく。音楽の楽しみの一つに、じっくり謎を追求することが有る。安易に答えを求めては台無しだ。別記した幻想曲や小組曲くらいの頃になると、特徴的なリズム・音形(ピアノならともかく弦は弾きづらいんだこれは)、明るみ、軽やかさ、音楽ではないと揶揄される寸前もしくは寸後の調性感覚が、しかし明瞭な旋律性(抜群に耳触りが良く、サン・サン(サン・サーンスですって、わかってますそんなこと)程度には尖鋭)とあいまって独自のサロン風世界を形作り、おネエ様方を喜ばせる機知に富むようになる。ところが余り間をあけず、さらに一歩進め、「媚び」を完全廃止した記念碑的作品「牧神の午後への前奏曲」(1892-4)ではもう語法の完成された個性ドビュッシーが屹立してしまう。この10年にも満たない期間の瑞々しい音の小宇宙は閉ざされたままとなった。そこで止まっても充分音楽辞典に名を残すくらいにはなれただろうに。ここでヴォーン・ウィリアムズの言葉を思い出す。「彼はしようとしてしたわけではない。彼にはそうするしかなかったのだ」。いやはや、凄い作曲家だ。この人ひとりの才覚で何人の作曲家を創り出せただろう。(賛美おわり)
アンゲルブレシュトはロマンティックな濃厚さが漂う「らしくない」演奏。面白いし聴ける演奏だ。なによりパス・デ・ループ(パドルーですって、わかってますそんなこと)の、優しく、色の有る管楽の表現が救いとなっているものの、終始重いテンポ、存外重厚なハーモニー、凡百指揮者のような刹那恣意の挿入には、違和感がある。若かったのだろう。悪いことを書いてしまったが、「音の取りまとめにおける客観性」・・・これは言葉で説明しづらいのだが、融合させすぎず(ちんまりした堅い塊になってしまう)バラバラにもならず(アマオケ状態)の絶妙な間合い、とにかく後年の解釈の萌芽は見えるので、ファンは一聴されてもまあいいではないでしょうか。マイナーだが日本盤ですし。SPの直復刻、さらさらしたホワイトノイズが聴きやすく、併録のマザー・グース(マ・メール・ロアですって、わかってますそんなこと)のブチブチ雑音より数倍聴きやすい。分離もいい方。総じて遠距離感(暗闇で遠くの窓から美しい光景を垣間見ている気分、「マルコヴィッチ」的かも)ある茫洋とした記録ではある。
対照的な新しい録音としてあげたマルティノンは光に満ちたオケが最高だが、少し重い。ルーセルを得意としただけあって舞曲表現は浮き立ってきこえるがちょっと録音気張りがあるように感じた。同盤ききどころは実はキャプレ編曲の「子供の領分」組曲で、改めていつか書こうと思うが、ピアノのそれとは全く別の曲と見た場合、素晴らしい名曲。際物に対する意外感覚がいつしか別個の感傷を呉れた。キャプレ独特の世界である(これも冒頭言ったとおりドビュッシーの曲ではなくキャプレの曲と聴くのが正しい)。ヴォーン・ウィリアムズやイベールなどの名曲に匹敵する眩いばかりの美しい曲。・・・ゴリウォーグのケークウォークを除けば。あれはいくらなんでも。
アンセルメ指揮パリ音楽院管弦楽団(LYS・DANTE・RADIO FRANCE)1948
どうもイマイチだ。オケの集中力が散漫で技術的にもあやふや。アンセルメも「ならでは」の色薄く、盛り上がらない。つまらない。録音も悪くて牧歌的な雰囲気が損なわれている。無印。
○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1961/2・CD
ちょっと重いか。もっと颯爽として軽い曲である。編成が大きすぎるのか?こんなに稀有壮大にやられるとマルティノンの正規録音もそうだが「キッチュなほど」大げさに聞こえてしまう。太鼓とかあんまりとどろかせないでほしいなあ。それでいて印象にも残らない。スピードもやや遅い。しかし現代の水準からしても十分通用する技巧レベルから○。
◎パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1959/4・CD
リズミカルな演奏で、明瞭な輪郭の音楽に素直なよろこびが込められている。2楽章のトライアングルが溌剌としていていい。1楽章の喜遊的な雰囲気をさらに盛り立てている。とにかくリズム感がいい。 フレージングも統一され、かと言ってフレージングにテンポが振り回されることはなく、フランス音楽というものをよくわかった人が振っているな、と感じる。最後の上向音形で音をひとつひとつ切りつめていたのはこの人のリズム重視の姿勢が端的に伺えて面白い。3楽章も早めのテンポで明るい色彩を失わない。色とりどりのカラフルな音楽にはビュッセルの職人的な編曲の才が光っている。バレエはもうパレーを楽しんでください、と言った感じ。速い速い。嫌が応にも気分を高揚させられる。踊りの音楽として微妙な揺らしが入るのもポイント。音色にやや独自色が無い感も受けるが元の曲がうまくできているのでこれはこれでいいと思う。楽しい。
○チェリビダッケ指揮ベルリン交響楽団(ARLECCHINO)1949/5/5LIVE
ピッチが高すぎる!いくらなんでもこれは違和感の1楽章。2楽章以降はけっこうリズミカルだし、何より正確でひびきが良いのがいい。ドビュッシズムを理解しているとは思えないが、これはチェリズムの既にして完成されたスタイルをはっきり示している。透明感が肝心の曲だがその点でチェリは最適の指揮者、くぐもった重心の低い音響が持ち味のベルリン響に柔和で繊細な味を加えている。ただ、録音悪すぎ。4楽章などライヴらしいグルーヴ感がかなりいいのだが、○止まりです。
○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)LP
ステレオ。しょっぱなからいきなり恍惚としたテンポにのけぞる。何というロマンチシズム!それが4楽章の緩徐部にいたるまで続くのだ。コンドラシンらしい前進性は4楽章のワルツ主題にしかあらわれず、それも音のキレだけで、テンポはかなり穏やかだ。意外と色彩的な広がりは好録音ゆえのことだとは思うが、かなりガウク的なフランスものであり、万人向けでもコンドラシンマニア向けでもない。個人的にはロマンチシズムはアリ。○。
~Ⅰ.小舟にて
レイボヴィッツ指揮パリ・コンサート・ソサエティ(音楽院)管弦楽団(CHESKY)1960/6
うーん、この曲は素直なだけに難しい。ただ旋律を流すだけでいいというものではなく、牧歌的な雰囲気を単純な構造の中にどうやって持ち込んでいくか、という点が難しい。フルートの音色にもっと柔らかい抒情が欲しいし、木管全般にもっと繊細さが欲しい(無茶言ってますが)。弦もちょっとクリアすぎる。これは録音のせいかもしれない。無印。
○ビーチャム指揮?(DA:CD-R)1943/7/6ArmedForcesConcert・放送live
「コンサートホールオーケストラ」の客演記録。異常にデロデロしたロマンティックな起伏ある解釈の施された演奏で、ロシア式解釈の一種趣すらある。オケも前時代の演奏様式を引きずるような感傷的なフレージングに音色で曲のあからさまな魅力の素直な反映を示している。ビーチャムはときどきこの曲をやっていたが、ここまでロマンティックなものは聞かない。私は面白かった。ビーチャムだからそれでも、爽やかで仄かなのだ。
~Ⅰ、Ⅳ
○ビーチャム指揮ビーチャム交響楽団(SYMPOSIUM)1918・CD
かなり意外なことにずいぶんとクリアで生々しい音だ。木管がド前に出ていて非常に聴き易い。とはいえ古い録音に慣れないかたには薦められないが、ビーチャムとは思えぬ恣意的な解釈(シンバルの強調とか極端なテンポ・ルバートとか)が入り、しかしそれがまた程良い個性となって自然に耳に入ってくる。是がまたいいんです。軽く透明感があり品の良い派手さに浮き立つ音楽性には、フランスものがやっぱりあっている。ひょっとするとディーリアスのくぐもりよりもこっちのほうがあっているのではないか、と個人的には思うくらいフランス音楽になっているこの演奏、◎にしたいが録音マイナスで○にしておく。いい。
~Ⅳ.バレエ
○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(DUTTON/CBS)1940/12/16・CD
以前書いたラプソディと一緒に録音されたもの。NYPらしいしなやかな表現力が駆使され、バルビらしい歌謡的な流れを重厚に彩っている。この曲の演奏としてはまさに特異で、ロマン派そのもの、ウィンナー・ワルツすれすれの舞曲表現に驚かされると共に意外とすんなりハマって聴くことができる。スウィング、スウィング!バルビにしかできない揺れまくり(でもスタジオ録音だからそれほどズレない(全くとは言わない))の演奏、3分強と短いが一聴価値あり。復刻添付残響がややうざいが聴き易いことは聴き易い。全曲聴きたかった。○。このアルバムはNYP版のラ・ヴァルスなんかも入っている(が、この曲のほうが演奏的には楽しめる)。
(ヴァイオリンとピアノ編)
~Ⅰ.小舟にて
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live
板起こし。個人的にはこの日の雑多なプログラムの中で一番惹かれたもので、性急な表現になってしまいがちなその他の曲にくらべ平坦でのっぺりとしており、ほっと落ち着くのである(しかし聴衆反応はどの曲でも判で押したように大喝采だが・・・)。編曲がかなり簡素で検証はしていないが恐らく原曲のピアノ連弾をそのままヴァイオリンとピアノに分け持たせただけだろう。ヴァイオリンにとってこういう音数の少なく要求表現の幅の小さい曲は難しい。逆にソリストの技量が試される。その点クリモフは高音の伸びがいまいちというか、長い音で音程が不安定になるところが気になった(ただ板起こしのため原盤が歪んでしまっているだけかもしれない)。でもそれくらいで、違和感しきりの編曲であるにもかかわらず、ほんわかした。何じゃこの感想。○。
(オレネフ独奏編)
○スヴェトラーノフ(p)(MELODIYA)
独奏用の編曲。妙に軽く、ちょっと変な感じの編曲だ。いくらなんでも二手では違和感は拭えないか。旋律の盛り上げかたはスヴェトラそのもの、これが管弦楽だったらさぞアクの強い演奏になったろう、というような演奏。音色はあいかわらずぶっきらぼうだが、弱音部の陶酔的なテンポの落とし方など専門ピアニストじゃ絶対やらないだろう。ふつうは絶対やらないことをしているからスヴェトラは面白いのだ。曲には違和感しきりだが、一歩一歩踏みしめるような表現は耳を惹く。ピアノ独奏ならではの崩しかた、なかなかです。
(原曲)
ベロフ、コラール(P)(EMI)1982/4
ちょっと力強すぎるか。余りに明確でハリキリすぎてる気がする。単純な曲だし、力を入れる必要はないのだから、もっと詩情を前面に打ち出したほうが曲想にあっている気がする。どうもこの曲は管弦楽で弾いてはじめて知ったもので、ピアノのスカスカな響きには違和感がある。。無印。但し終楽章は明るく溌剌としていていい。
オケの奏者達も主要なオケの奏者を兼任していたり、エキストラで入ったりということも多々あったようです。
しかし、レコード盤にクレジットされていない推定オケ名を明記して復刻盤の販売をするという姿勢は私とは相容れませんねぇ。
当時のCOLUMBIAの録音記録にあたって、レーベル面には印刷されなかったがストララムオケそのものが演奏したという事実を確認したというなら話は別なのですが・・・・。それにしてもそのことはブックレット内の解説で説明するべきでしょうね。こういうあやふやなことが既成事実化することを恐れます。
それにしても1930-31頃には、ストララム管弦楽団はCOLUMBIAに沢山の録音を残していますし、オケ名はすべてクレジットされていたわけですから、妙な話ではありますね。ビュッセルとオケの専属とか何かの理由があったのでしょうか・・・・。
この曲のオケ盤はどうもどれを聴いてもいまひとつな気がしますが、ひょっとしてビュッセルのオーケストレイションそのものになにか原因があるとは考えられませんかね?